断章:8 世界の愛し方

何と愚かな事をしてしまったのだろうか。
それがそう気付いたのは、既に取り返しのつかない状況になってからだった。
簡素に言えば、それは絶望である。何をしても抗えず、何をせずとも救われない。『奴』に手を出した時点で、それの敗北は既に定められた運命だったのだ。『奴』は今もそれを目掛けて行軍を続けている事だろう。嗚呼、何たる失策だろうか。『奴』に手を出す必要など、それには微塵も無かったというのに。

“海中火山”ガタノソア。
無数の触腕と長い鼻、蛸の目を持ち、胴体は鱗としわに覆われた無定型。
“名状し難き者”ハスターや“迷路の神”アイホート、“深淵の蜘蛛”アトラク=ナクアに並び称される、旧支配者、ぐれーとおーるどわんずと呼ばれる邪神の一角。
それは圧倒的な力を持っている筈だった。所詮は死霊である『奴』に遅れをとる事など、ある筈が無かった。あってはならない筈だった。
だがしかし、それは間違いであったと今ならば断言できる。
現に、ガタノソアは居城を完全に包囲されていた。逃げる事は誇りが許さず、けれど戦っても勝てない。絶対的な絶望。されど、ガタノソアは邪神であった。
例え敗北し、その身を散らすとしても…戦いの果てに散るのなれば、それは本望。邪神とは言え、神は神。ガタノソアは誇り高く、気高き存在だった。

そもそもの過ちは、『この世界』に手を出した事だった。
遥かな昔、ガタノソアはかつて棲んでいた世界から、この世界を滅ぼす為に、多くの仲間達と共に降り立った。そして今は沈んでしまった広大な大陸の死火山に住処を構え、生贄を屠っていた。
だが、その大陸も今は暗い海の底。以来ガタノソアはそこに幽閉されていた。時折地殻の隆起によって住処とした死火山の一部が浮上し、僅かな自由を取り戻すその時以外は。
いつも…とは言え、極々稀ないつも…ならば、ガタノソアも特に何をするでも無く火山の沈下と共に再び海底へ帰る。
だが、今回は偶々腹が減っていた。そして、浮上した近辺に偶々存在していた死霊に手を出してしまった。その死霊が一体如何なる存在であるのかを確かめなかった事も、過ちの一つに挙げられよう。否、それがただの死霊であったならば、死火山から出る事叶わず海底に幽閉されている存在だとは雖も、邪神の一角たるガタノソアの敵になる事など、断じて在り得ない。曲がりなりにも、ガタノソアは神なのだ。
だが、今回は勝手が違った。
その死霊は半ば実体を持ち、全身を黒いローブで被っていた。体系や性別の判断さえ不可能であり、顔は白い仮面で表情を殺していた。無論、実体を伴っていようがいまいが、所詮は死霊だ。寧ろ、実体を伴っているが故に幽体のみを喰らう以上に邪神の飢えを満たす筈だった。
故にガタノソアはそれを己が糧にしようと触腕を伸ばし、喰らった。
だが次の瞬間、ガタノソアは己が間違いを悟る。“海中火山”と讃えられた邪神は、手を出してはならない存在に手を出してしまった。
不幸の始まりは、ここ。悠久の微睡みに沈んでいた邪神は、『奴』の存在を知る由も無かった。
否、仮に知っていたとしても躊躇いなどしなかっただろう。
邪神は邪神、何者かに畏れられても、邪神が何かを畏れる事など己より上位の邪神以外には在ってはならない。そして無論、“海中火山”ガタノソアが高位の邪神である以上、より上位の邪神…例えば“ルルイエの主”クトゥルー、“千の仔を孕みし森の黒山羊”シュブ=ニグラス…と遭遇する事など盲亀浮木、優曇華の華。天文学的という言葉でさえ生温い、低確率の事象。
故に、こう言いきる事も出来よう。『邪神は、何者をも畏れない』、と。

故に、ガタノソアは立ち向かう。『奴』に勝てるか勝てざるか、そんな事は問題では無い。懸念するべき案件は唯一つ。行うか、行わざるか。そして当然ながら、ガタノソアの導く結論は『行う』以外には存在し得ない。

「我は旧支配者、ぐれーとおーるどわんず、我が名は“海中火山”ガタノソア!我と対峙する貴君よ、是非とも貴君の名を聞かせては戴けまいか!例えこの身朽ち果てようと、貴君の名を知らずに散るは恥である!」
邪神の言葉が発する瘴気に、偶然近隣を通りかかった鳥や魚の一部が死んだ。ガタノソアと対峙する、言葉を投げかけられた『奴』でさえその一部が消滅した。
しかし、ここで問題となるのは邪神たるガタノソアが自ら名乗ったという事実である。邪神とさえ称される存在が、礼を尽くして名乗り、かつ、相手の名を尋ねた。
『奴』がそれに対して如何なる心情を抱いたのかは定かでは無いが、しかし『奴』は邪神に返礼した。
『我々の名は、レギオン。我々は、大勢であるが故に』
老若男女、そのどれとも判別出来ない声が…そして逆に、そのどれもが合わさった様な不可思議な声が…ガタノソアの住処たるこの地に響き渡った。顕現するのは地を、海を、空を、尽く埋める黒衣の白面。それは無限とさえ思える悪霊の群れ。それら全てを総じて、レギオンと呼ぶ。
レギオンは淡々と続ける。
『“海中火山”ガタノソア。我々は、貴公の言を宣戦布告と判断する。仔細無かろうか?』
ガタノソアは一笑に付す。
「何たる失態か!我の言葉が貴君にとって宣戦布告と解釈されなかったとは、これに優る哀しみはかつて無い!」
レギオンは…確かに、笑った。それは苦笑であったか、嘲笑であったか。そして、『奴』は冷徹に答える。
『仔細承知。では、我々と貴公の戦いを始めよう』

ここに戦いの幕は上がり、二つの怪異は激突する。
ガタノソアは無数の触腕と牙を駆使し、数限り無い悪霊の軍勢を討ち滅ぼす。それは瘴気を撒き散らし、あらゆる生命を否定する邪神の猛攻であった。
対するレギオンは、無限の統率で邪神を攻める。その軍勢を邪神に削り取られながらも、無限に湧き出す悪意と怨讐が悪霊の群れを駆り立てる。
単騎の強者と、弱者の軍勢。それは一種千日手にも見えるが、事実は異なる。
強者とて、永久の戦乱には疲れを見せる。軍勢に対抗出来なくなれば、その身を終焉が待つ。
軍勢とて、率いる数には限界が存在する。強者に討ち滅ぼされたなら、その身を終焉が待つ。
先に底を見せたモノの敗北。至極単純な、けれど覆される事の無い真理である筈だった。
だが、時として真理は覆される。そして、今がまさにその時だった。
海上に轟音が響いた。隆起した地殻は今再び脈動し、されど今回は沈んで行く。己が住処たる死火山から動く事が叶わぬ邪神は、己を幽閉する城と共に海底へ引き戻されて行く。
「レギオン!貴君、真逆!」
『“海中火山”ガタノソア。貴公は確かに、我らが世界を脅かす旧支配者であろう。我々は、貴公を滅ぼさねばならない』
レギオンは海底へ没するガタノソアに、その無限の瞳で憐憫を投げかける。だがその瞳には、同時に自嘲も含まれていた。
ガタノソアはしかし、最後の瞬間までレギオンに怨嗟の声を投げ続けた。その怨嗟の声に秘められた怨讐と瘴気が近辺を満たし、生物の一部は死に、レギオンもその一部が葬られた。
「貴君なれば、我を滅ぼす事も可能であろう!何故、かくも茶番の如き終結を執り行う!」

『…貴公は、我々を誤解している。我々は、世界の敵を屠る為に存在しているのでは無い。我々は、世界を護る為に存在しているのだ』
それが、ガタノソアが最後に聞いたレギオンの言葉だった。

『…』
ガタノソアが没した海面を眺め、レギオンは静かに佇んでいた。
海面に浮かぶ鳥と魚の死骸。それを眺めたレギオンは、その中に人間の死骸が数人分混じっているのを見つけた。恐らく、不運にもこの界隈で漁でもしていた者だろう。滅多に人も寄り付かぬこの海、もしかすれば漂流者であったかも知れない。だが、そんな事は瑣末な問題だ。何故なら、その人間は既に息絶えているのだから。レギオンは、不運な犠牲者達を己が同胞として迎え入れた。
『…』
邪神との戦に喪われた同胞に哀悼の意を表するでもなく、新たに組み込まれた同胞を歓迎するでもなく…レギオンはその場を立ち去ろうとした。元より目的も存在しない身、何処へ向かうも、何をするも自由である。その先で、己が存在理由を全うするのならば。

「“群集”。お前も、存外心優しいのだな」
声を掛けたのは、ゴシックロリータを着た幼女だった。純白のリボンで飾った黒い帽子、白いフリルを簡素にあしらった漆黒のドレス。帽子の鍔の所為でその表情は窺い知れない。
『お久しぶりです、“唯一絶対”』
周囲に散らばる同胞と結合し、一つになった悪霊の群れは一礼した。
「お前なら、“海中火山”を葬る事も出来ただろう。あの程度の邪神、お前ならば労無く滅ぼせただろうに」
今は漣が揺れるばかりとなった海面を見ながら、幼女は言う。
レギオンは小さく笑い、彼女の言葉を優しく否定した。
『“唯一絶対”、我々を買いかぶり過ぎています。我々は悪霊の群れに過ぎず、対するあれは邪神。敵う筈が御座いません。我々が、貴女に敵う筈が無い様に』
「…“群集”。私がお前を買いかぶっているのならば、お前は私を侮っているのか?ここに居るお前は半数にも満たない。私がそう見抜けないとでも思ったのか。お前を全て呼び集めれば、深手は被ったとしても“海中火山”に負ける事は無いだろう?」
つまらなそうに幼女は言う。レギオンは何も言い返さなかった。レギオンが言うべき事は全て、彼女は既に知っている。そう、確かに全ての同胞が集えばガタノソアに負ける事は無い。ならば、何故同胞を呼ばなかったのか。
「わざわざ口に出すのも悪趣味ではあるが…お前の、この世界を護ろうとする意志は立派な物だ。同志として、私はそれを嬉しく思う」
ガタノソアと戦えば、最終的にレギオンが勝利を収めたとしても、戦いの間に少なからずこの世界に瘴気が漏れる。だが、奴を海底に送り返せば、それだけで瘴気は封じられる。だからこそレギオンはある程度の軍勢でガタノソアと戦いながら、残りの軍勢で地殻を動かして浮上した死火山を再び沈めたのだ。
レギオンは、この世界を護るという観点から見た最善の選択を執り行った。それが、“群集”が世界を愛する方法だった。
『…』
「さて、では私はそろそろ行くとしよう。再び見える日が在らん事を、“群集”レギオン」
“唯一絶対”は去って行く。その背中を見送ったレギオンは、彼女に踵を返し…水平線を彩る茜色の中へ姿を消した。

戻る