断章:11 Cocktail

<Side:A Atrach=Nacha>
Dry Ginを30ml。Blue Curacaoを15ml。Lemon Juiceを15ml。マスターがそれらをシェイクし、ゆっくりとカクテルグラスに注いだ。間接照明の照らす薄暗いカウンターに、Blue Devilの鮮やかな蒼が眩しかった。
「貴女がカクテルなんて、珍しいわね」
「あたしにも、飲まずにいられない夜もあるの。どうにも、ワインやビールじゃ酔えない口でね」
現れた懐かしい友人の言葉を聞きながらグラスを傾け、一息で酒を煽る。強い酒ではないものの、アルコールが喉を灼く感覚が心地良かった。
「何か飲む?この店はある程度の酒は揃ってるし、それなりにカクテルも楽しめるわ。つまみも軽いモノから軽食レベルまである。そうねぇ、貴女にはExorcistなんてお似合いじゃない?」
白いドレスの袖をひらひらと振りながら、彼女は苦笑した。白い肌の上で唇と瞳の赤が血の色に似て淫靡な美しさを醸し出していた。
「はは、貴女にしては面白い冗談ね。正直、カクテルにはそんなに詳しくないのだけれど…まあ良いわ、Exorcistだっけ。マスター、それ、貰える?」
彼は頷き、棚からTequilaの瓶を取る。Tequilaを30ml。Blue Curacaoを15ml。Lemon Juiceを15ml。そして、それらをシェイク。出来上がったのはやはり、鮮やかな水色だった。
「どうぞ」
グラスを差し出すマスター。店内に、バリトンヴォイスが渋く響いた。
「あら、美味しい…」
微笑む旧友。あたしは空になったグラスの底を眺めながら、小さな声で呟いた。
「…“海中火山”が沈んだ」
旧友は無言で頷く。
浮上した“海中火山”の居城が再び沈んだのは、つい先日の事だ。恐らく、自然に沈んだのでは無い…我々の中の誰かが、沈めたのだろう。
それは根暗で陰鬱メガネの“海”か、平和主義者な“博士”の爺か、もしかすると骨董品の“黒騎士”かも知れない。
けれど、そんな事はどうでもいい。どうせあの“海中火山”は沈んだし、死んでいる訳では無いのだから、その内またひょっこり顔を出すだろう。
「“海中火山”、ね。確か、貴女の旧いお友達だったかしら?」
「ええ。彼とは、貴女よりも幾分か長い付き合いになるわ」
マスターは目の前でグラスを磨いている。けれど、我々の話は聞いていない…見上げたプロフェッショナルだ。もっとも、聞いていた所であたし達が何を話し合っているのかは半分も分からない事だろう。
「…マスター。Silk Stockingsは出来る?出来るなら、お願い」
マスターは無言で頷き、棚から幾種かの瓶を取り出す。Tequilaを30ml。Creme de Cacao、Grenadine Syrupを10mlずつ。それに60mlの生クリームを加えてシェイクしてカクテルグラスに注ぎ、最後に一つMaraschino Cherryを沈めた。
「彼もあたしも、ずっとこの世界に幽閉されている」
Silk Stockingsを一口。ざくろの甘さが味蕾を刺激する。旧友はゆっくりExorcistを傾けながら、優しく諭す様に語り始めた。
「ねえ、“蜘蛛”。私達と“海中火山”達、そのどちらかを選べと言われたなら、貴女はどうする?」
「…さあ。考えた事も無いし、簡単に答えられる問題でも無いわねぇ」
かつて『この世界』を滅ぼす為に降り立った多くの同胞。
それらの幾許かはあの忌々しい旧神に討ち滅ぼされ、幾許かは銀の鍵の向こうへ逃げ帰り、幾許かは『この世界』から逃げ損ねた。逃げ損ねた者の内、“蜘蛛”は…“深淵の蜘蛛”と称される旧支配者、アトラク=ナクアは…他の連中より、幾分か『この世界』の魔に近しい存在だった。その他にもいくつもの偶然が重なり合い…あたしは、この世界に捕らわれた。
「“蜘蛛”。貴女がどんな選択をしようが、私はそれに口出しする権利は無いわ。仮に貴女が私達を滅ぼすと決めたなら、その時は私も全力で貴女を殺す。けれど、貴女が私たちの仲間でいてくれる限り…私は、貴女の友達よ」
「…偽善者」
呟きに彼女は苦笑し、つまみにとプロシュートのサラダを注文した。
「偽善者で結構。そうでもなければ、こんな仕事やってられないわよ」
右手の人差し指で自分の左鎖骨を軽く叩く。そのドレスの下に何が刻まれているのかは、私も知っている。天秤宮の紋章だ。
あたしは溜息を一つ漏らした。
「“背信者”。あたしはこういう事を言うガラじゃないけれど…ありがとう。それなりに、元気になったわ」
Silk Stockingsを、また一口。横で“背信者”は微かに笑いながら、フォークでプロシュートを突き刺した。
「まあ、私に出来る事はこんな事位だからね。力ずくでどうにかするより、話し合いで解決する方が楽で良いし」
彼女はプロシュートを咀嚼しながら、実に幸せそうな顔をする。数十年前か数百年前か忘れたが、あたしと出会った当初の彼女からは想像も出来ない穏やかさだ。
今の仕事が彼女を変えたのか。それとも、十数年前に出来た彼女の娘が変えたのか。
どちらにせよ、彼女は今の仕事が相当気に入っているのだろう。あたしはそれだけ楽しめる仕事を持っている彼女が、少し羨ましかった。
一瞬だけ、あたしも彼女の組織に入ってみようか、との思いが脳裏を掠めた。しかし、即座に否定する。
例えそれがどれだけ魅力的であろうとも、やって良い事と悪い事がある。あたしは、元の世界へ帰る方法を探し続けなければならない。それが見付かるか否か等、懸念すべき事ではない。やるか、やらないか。そしてあたしは、やると決めたのだ。あたしはSilk Stockingsを一息に飲み干し、Maraschino Cherryを奥歯で噛み締めた。
「さて、と。呼び付けといて悪いけれど、あたしはそろそろ帰るとするわ。マスター、いくら?」
マスターから値段を聞いたあたしは財布から数枚の札を取り出し、机の上にそっと置いた。
「お釣りは要らない。チップだと思っといて」
無言で頷くマスター。客相手に愛想が無いが、それもまた味だ。だからこそ、あたしはこの店を気に入っている。
「じゃあね、“背信者”。また何かあったら、愚痴に付き合ってくれる?」
「勿論、喜んで。私は貴女の友達よ?愚痴どころか、殺し合いにだって付き合ってあげる」
あたしは小さく笑い、バーを後にした。

夜空には満月。地上には暗黒。冷たい明かりが灯る影絵の街には、心地良い夜風が吹いていた。
富豪、貧民。賢者、愚者。聖人、悪人。全て分け隔てなく受け入れ生かし殺す。ウィップアーウィルはけたたましく鳴き叫び、ミスカトニック大学の時計台は時刻を告げ知らせる。
嗚呼、素晴らしきこの街、麗しにして愛しのアーカム。
あたしはゆっくりと、その闇の中へ沈んでいった。


<Side:B Burial Organ>

「…ジョセフィーン。趣味が悪い、トリガーに指をかけっぱなしだったぞ」
黒いロングコートに黒い帽子、銀縁の細いメガネをかけた男が言う。少々線が細すぎる様にも見受けられるが、美男子と言うに値する容貌だった。
ジョセフィーンと呼ばれた“背信者”は首を回す。コキコキと、小気味良い音が聞こえた。
「貴方のトゥーハンドは伊達じゃないでしょう?それに、一応護衛に貴方を呼んではおいたものの、“蜘蛛”から呼び出したのだから殺し合いにはならないわよ。それとももしかして、私を心配してくれていたのかしら、クリス?」
にこやかに言うジョセフィーンに対し、応じる男は無愛想。だが格別気を悪くした素振りも見せないので、無愛想なのは元からだろう。
「俺をクリスと呼ぶな、ジョセフィーン。クリストファー、さもなくばリッパーと呼んでくれと言っただろう?」
肩を竦め、グラスに残ったExorcistを飲み干すジョセフィーン。クリストファーはジョセフィーンの横に座ると、マスターにメニューを要求した。マスターは無言で頷く。
メニューを受け取り、それを眺めたクリストファー。しばらく考えてから、口を開く。
「…そうだな、カレーライスと…ミルクを。ああいや、カルーアミルクではなく」
マスターが注文を伝えに厨房へ向かう。その背中を見送りながら、ジョセフィーンは呆れた声を上げた。
「…クリストファー、貴方、下戸だったの?」
クリストファーは淡々と応じる。
「何か問題でもあるか?何、下戸と言っても全く飲めない訳でもない。嗜む程度にならば飲めるし、ワイン程度ではそれ程酔わない。ミサでも大きな問題を起こした事は無い」
だが、とクリストファーは呟く。真面目な瞳を前に、ジョセフィーンは彼に気付かれない様に唾を飲んだ。
「今日は車でな。飲酒運転は事故の元だ」
ジョセフィーンはがっくりと机に突っ伏す。ドレスを着込んだ麗人がだらしなく伏せた様は、どこか滑稽でもあった。
「真面目ね、クリストファーは。そんなに肩肘張って歩む人生、疲れない?」
「特に。俺は神父だし、昔からこういう風に生きてきたからな。もし疑うなら、グラトニーにでも聞いてみると良い」
マスターの持ってきたカレーライスとミルクを受け取るクリスファー。カクテルを楽しむ美女の横で、美男子が嬉しそうにカレーを食べる。その様は、滑稽を通り越して異様な雰囲気を醸し出していた。
「嫌よ、私。彼女とは相性悪いんだもの。それと後ね、クリストファー。仮にも貴方、今年で26。もう大人なのよ。悪いとは言わないけれど、もう少し外聞ってモノを考えたらどう?」
その上美男子なのだから余計に注目を集めるのに、とは言わないでおく。クリストファーはカレーを食べる手を止め、無表情の中に僅かな怒りを秘めて言い放つ。
「大人がカレーライスを食うなという法は無い」
そして再び手を動かす。カレーライスを食べる事ではなく、それを少年の如く嬉しそうに食べる事が問題だったのだが…ジョセフィーンは小さな溜息を吐き、相互理解を諦めた。昔から、この男はこういう性格だった。

二人は揃って店を出る。クリストファーの骨董品じみた車の助手席に乗り込むと、ジョセフィーンは穏やかな笑みを運転席に向けた。
「どうする?このままホテルにでも行く?ほら私、今酔ってるし」
「冗談ならば笑って断る。本気ならば、全力で断る」
クリストファーは真っ直ぐに前を見ている。彼の珍しい冗談に、ジョセフィーンもくすくすと忍び笑いを漏らして応じた。
「冗談に決まってるでしょ。これでも私、高校生の子持ちなのよ?」
白衣の背信者は、小さく笑った。黒衣の神父は何も答えず、ただアクセルを踏み締めた。
深夜のアーカムを駆け抜ける黒い車。ウィップアーウィルが、静かにそれを見送っていた。

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