断章:19 藍玉と妖精の歌

――――――雨の降る夜の事だった。
         拾ったのはただの気紛れで。
         だから、捨てても良い筈だった。
         モノに拘るなんて事は、
         とうの昔に諦めたのだから。

<むかし・1>

それは、圧倒的な敗北だった。最早指の一本さえも動かす事の叶わぬ身体となった事は分かっている。けれど、彼女は必死になってもがき続けた。一秒でも早く。一ミリでも遠く。彼女から、離れなくては。既に下半身は失い、顔の半分は崩れ、右の腕は半分の長さで、左の指もバラバラの方向を指している。それでも、その女はもがき続けた。動かぬ身体と薄れる心に絶望しつつも、彼女はただ、もがき続けていた。紅色に染まる視界には、降りしきる雨が映されている。
「…×××」
声無き声で、彼女の名を呟く。ずるり、ずるりと。少しでも遠くに離れようともがき続けた彼女は…
結局、それが最後の言葉となった。

ザザッ。砂嵐に似た雑音に混ぜて、仲間の安否を問い掛ける。
「…(無言)」
返事は無かった。それは、彼女が最後の一人である事しか意味しない。けれど、彼女は表情一つ変えなかった。こんな事は、分かりきった結末だった。何故なら、初めから彼女とその仲間とは、別のシステムに生きていたのだから。彼女は小さく溜息を吐くと、その場を後に…しようと、した。
「…(無言)」
彼女は耳の拾った小さな音だけを頼りに、降りしきる雨の中を歩いた。雪にも似た純白のドレスも、流れる様な金髪も、べっとりと鮮血に汚れている。その汚れを洗い流すかの様に、彼女は歩いた。
音の源まで辿り着くと、彼女はそれを抱き上げた、それは、先程彼女が埋葬した女とよく似た、深紅と黄金の瞳を持った赤子だった。
「…(無言)」
彼女は左手でその赤子を抱えたまま、右手を大きく振り被った。
「…父と子と聖霊の御名において…」
埋葬を、始める。
彼女はそう言おうとして、言えなかった。赤子が笑ったからだった。もう自分はとうの昔に失ってしまった純真を、もう二度と手に入れられない純真を、その笑みの中に見出してしまったら。
埋葬機関十二幹部第七席、天秤宮。ジョセフィーン=ホワイトは降りしきる雨の中に立ち尽くす。彼女はぎゅ、と赤子を抱き締めると、その子が濡れない様に気を配りながら歩き始めた。
拾ったのは、ただの気紛れで。それには、何の意味も無い筈だった。

ジョセフィーンは赤子を弓塚砂緒と名付けた。彼女…恐らくは、赤子の母親…が最後に呟いた語に適当な漢字を当て、その名にしただけの事だ。姓も、埋葬した彼女の姓をそのまま付けた。そしてジョセフィーンは赤子、砂緒を育てる事にした。
最初の間違いは、ここ。たった一度の気紛れが、静かに心を蝕んでゆく。
けれど、それでも。そう、分かっていても。ジョセフィーンは、砂緒を捨てられはしなかった。
愛情ではない。そんな物、生まれる前から持っていなかった。
責任ではない。そんな物、拾った時ですら感じなかった。
ならば、それは何故なのか。多分、それは自責なのだろう。あの時、無くした純真を羨んでしまった自分への、決して解けない呪詛の類が、それだけが、ジョセフィーンと砂緒の絆だった。

<いま・1>

「鍛冶屋の大鎚?」
ジョセフィーンは、彼の言葉を繰り返した。彼、宝瓶宮の王公清(ワン=クンシン)は満足げに頷いた。
「そう、スレッジハマー。そう呼ばれる魔が居てね、ボクの部下がもう八人も殺されている。ボクも人の子だ、恨みや仇討ちといった物を考えてしまう。しかし、ボク自身が行きたいのもやまやまだけれど、生憎別の仕事で忙しい。分かるだろう?」
軽薄な笑みを貼り付けて話す公清。ジョセフィーンはその顔に心の中で唾を吐いた。公清、お前は恨みや仇討ちとは無縁の男だ。必要とあらば、親だろうが恋人だろうが、平気で切り捨てるくせに。遠回しに、嫌いな私を殺したいだけだろう?そうは思ったが、口にはしなかった。そんな事は無意味だと知っているし、自分が何処で死のうが、そんな事に興味は持てなかったからだ。
「で、アクエリアス。仕事の内容を、詳しく教えてくれる?」
「仇討ち、行ってくれるのかい?嬉しいね、恩に着るよ、ライブラ。持つべきはやはり、良い友人だね?」
ジョセフィーンは答えず、公清もそれ以上無駄口はたたかなかった。

個別呼称:スレッジハマー。名の由来は手にした巨大なハンマーから。生息地は日本。一般部隊の者とは言え、八人もの埋葬機関構成員を殺したのだから、その強さは推して知るべし。何度も資料を読み返し、頭に入れた情報を反復する。ジョセフィーンは飛行機の座席に深く腰掛け、呟いた。
「日本、か…」
「どうしたの、ジョセフィーン?」
砂緒が尋ねる。スレッジハマー討伐にあたり人員を募ったのだが、ジョセフィーンに付いて行く事に賛同したのは砂緒だけだった。つまり、今回の任務に当たってお互いだけが味方なのだと言える。
「別に。何でも無いわ、砂緒」
ジョセフィーンは答える。自分で育てたのだとは言え、無条件に懐いてくる砂緒をジョセフィーンは苦手としていた。それは、かつて彼女の母親を殺めた事に起因する後ろめたさなのかも知れない。彼女の母は、何をした訳でも無い。ただ人間を知り、人間に憧れ、人間との間に子をなしただけの事だった。彼女だって、そのまま平和に生きられたのならば、どんなに良かっただろう。しかし、埋葬機関との偶発的な戦闘がその可能性を壊した。埋葬機関とて、人の害とならない魔や人の役に立つ魔は埋葬しない。ジョセフィーンはそう考えて行動しているのだが、そうは思わない者も居る、という事だ。あの公清が、好例だ。彼は、あらゆる魔は埋葬されて然るべき存在だと考えている。例外無く、全ての魔を。それには、半人半魔である砂緒も含まれている。
「砂緒」
「何、ジョセフィーン」
一点の曇りも無い、深紅と黄金の瞳。日本人にしては白く、西欧人にしては黄色い肌。仄暗い宵闇を連想させる、黒い髪。ジョセフィーンはそんな砂緒に声を掛けた理由が、自分でも分からなかった。
「砂緒、少し眠っておくと良いわ。時差を甘く見てはいけないわよ」
瞳を閉じる。視覚は封じられていても、彼女が首を楯に振ったことは分かった。伊達に、十五年間育ててきた訳ではない。真面目で冷静な様に見えて、茶目っ気も遊び心もある砂緒。可愛い娘だ、とは思う。しかし、今一つジョセフィーンは彼女に対して素直になれなかい。
ジョセフィーンは考える。私は何故、砂緒を拾ってしまったのか、と。

<むかし・2>

ある冬の日の事だった。ジョセフィーンは、一人の老人と喫茶店で話をしていた。
「ねえ、ご老体」
「何かな、ホワイト君」
ジョセフィーンは黒いドレスを着ている。対する老人は、あまりにも場違いなローブ姿だった。
「私、埋葬機関に入ろうかと思うんだけど」
ふむ、と頷きながら、老人は紅茶のカップに口をつける。しばし黙考し、老人は膝ほどまでも伸びた髭を撫でながら言った。
「まあ、君らしい判断だと言えるね、ホワイト君。儂は、反対しないよ」
けれど、と老人は続ける。髭を撫でる手は、止まっていない。
「ホワイト君、君、童話を読むかね?」
「アンデルセンの蝙蝠とでも言いたいの?」
退屈な話の予感に、うんざりした声で答えるジョセフィーン。老人はイソップだよ、と彼女の言葉を訂正してから話し始めた。
「ホワイト君、君は確かにイソップの蝙蝠となるだろう。それについては、儂は何も言うまい。君もしっかり考えて結論を出したのだろうからね。ただ、問題は君が優しい女だという点だよ。優しい事は良い事だ、儂も、君の優しさは好ましく感じている」
老人は微笑する。ジョセフィーンは話を聞きながら紅茶を飲み、カップをそっとソーサーに戻した。
「で、ご老体。言いたい事はさっさと言って」
ひらひらと手を振り、話を促した。老人は苦笑すると、話を続ける。
「儂はね、君の優しさが君自身を苦しめるのでは、と思っている。蝙蝠の悲劇の原因は、鳥でも獣でもなかった事ではない。鳥でありながら、獣であった事なのだよ」
そんな事、言われなくても知っている。ジョセフィーンはそう言って、老人の顔も見なかった。そんな彼女を見ながら老人はゆっくりと立ち上がり、伝票を持って席を離れた。
「ではさようなら、ホワイト君。縁があれば、また会えるだろう。今日は儂が払っておくよ、ホワイト君の新たな門出の祝いだと思ってくれたまえ」
ほっほ、と老人は短く笑う。
「だとすると、ご老体。随分と安く済ませたものね」
ジョセフィーンは軽い皮肉を言い、ニヤリと笑って紅茶を飲み干す。そして彼女は、老人と一緒に店を出た。
「今日はありがとう、ご老体。感謝する。どうか、死ぬまで長生きしてね」
「うむ、ホワイト君も元気でな」
こうして十六世紀の錬金術師と、冷たく輝く蛇の眼を持った女は別れ、歩き始めた。その後女は埋葬機関に入り、老人の言の正しさを知る事となる。

<いま・2>

日本、如月市。時刻はじきに、十二時をまわる。
「行くわよ、砂緒」
ジョセフィーンの言葉に、砂緒は無言で彼女の武器である剣を握った。
ジョセフィーンはあえて魔力を漏らし、スレッジハマーを呼び寄せる餌とする。それと同時に魔力を紡ぎ、己の武器を創造する。
魔術系統選択開始。魔術系統『呪法兵葬』選択。確定。
形式選択開始。形式『術式魔砲』選択。確定。
解凍開始。完了。魔力回路接続、問題無し。最終確認。完了。ハイパーボリアシステム、作動確認。言霊を暗号化。呪法兵葬、『我、―――

「ジョセフィーン!」

ドン、と何か重い物の激突音。どさ、と何かが倒れる音がして。生温かい液体が、ジョセフィーンの顔を濡らしていた。ふと思う。何故、視界が傾いているのだろう?
「ふむ。埋葬機関が来たかと思ったが、どうやら読みは外れなかった様だな」
耳障りな声がする。目の前に立つ、大きなハンマーを抱えた牛頭鬼の声だろうか。そして私は、奴の鎚の一撃を喰らったのか。一瞬凍っていた思考が冴えてくる。ジョセフィーンは、自分の損害を確認した。
驚いた。一撃で右腕と右足の機能が停止している。回復までは時間が必要だ。だが、スレッジハマーはそれだけの時間を許すだろうか?ジョセフィーンは振り上げられた大鎚を見つつ、冷静に考えていた。

ガアアァン。
鐘を衝くかの様な轟音が、深夜の如月市に木霊する。
「くうっ…!」
砂緒が歯を食い縛る。剣を握った少女は、どう贔屓目に見ても大鎚を振るう牛頭鬼に見劣りしていた。
「砂緒…何故…?」
ジョセフィーンは呟く。
何故自分を守ろうとするのか、何故敵わぬ敵に立ち向かうのか。
一人だけ逃げれば助かるのに、何故助かろうとしないのか。
だがしかし、これは好機でもある。砂緒が囮となっていれば、右半身を回復させる時間が手に入る可能性が見えてくる。醒めた頭で、ジョセフィーンはそう考えていた。
「ジョセフィーンは…殺させない…」
砂緒が小さく叫び、スレッジハマーの大鎚を器用に払い除ける。
「ジョセフィーン…?そうか、貴様があのジョセフィーン=ホワイトか!」
砂緒から数歩の距離に立ち、スレッジハマーは得心した様に頷いた。名状し難い、嫌な予感がジョセフィーンを襲う。あれは良くないモノだ。あれは埋葬しなければならない。そう思っても、彼女の身体は動かない。ふと、砂緒の母を思い出した。
「砂緒、と言ったな。貴様は自分の出自を知っているか?」
相手は半死人と小娘が一人ずつ。優勢と見たか、スレッジハマーが喋り始めた。砂緒は、両手で剣を握り締める。

<むかし・3>

蛇の眼を持つ女が居た。彼女の名を知る物は居らず、皆は彼女に畏敬の念を込めて、こう呼んだ。
“背信者”。彼女自身もそう呼ばれている事は知っていたし、また、それに対して不満も無かった。そして、彼女は常に独りだった。知り合いは居た。仲間も居た。しかし、家族は居なかった。でも、それで良かった。彼女は背信者だった。彼女は自由だった。だから、家族なんて要らないと思っていた。でも、それで良かった。

彼女は魔だった。彼女は人間を学んでみたくなった。だから、殺した。自分とよく似た女を探し出して、それを殺して入れ替わった。大学進学の為に地方から出てきたばかりの女だったので、知り合いも少なかった。誰一人、入れ替わりに気付かなかった。
彼女は、殺した女の代わりに人生を過ごした。殺した女――ジョセフィーン=ホワイトという名だった――の代わりに、彼女の通う筈だった大学、ミスカトニック大学で学んだ。彼女の住む筈だった町、アーカムで生活した。友人に恵まれ、街に守られ、彼女は人間を学んでいった。
人間としての生活は、なかなか退屈しない物だった。ジョセフィーンは魔だった。それでも、彼女は思った。
ここは、なんて居心地が良いのだろう。
ここは、なんて幸せな世界なのだろう。
それは結局、温い馴れ合いなのかも知れない。ジョセフィーンの本性とは対極に位置するのかも知れない。けれど、だからこそ。守れるものなら、守っていきたかった。それは、ジョセフィーンがこの世界に誕生して初めて感じた、優しい感情でもあった。

そして、それ故に。それを壊した者が、憎かった。

数分前までは人間だったモノを抱えた、食人鬼。食人鬼は最後の獲物に語りかけた。
「サア…今カラ、殺シテヤロウ。覚悟ヲ、決メロ」
血塗れのジョセフィーンは答えた。すっくと立ち上がり、食人鬼を眺めたままで。
「殺す…この、私を?」
そして、ジョセフィーンは哄笑する。他の誰をでも無く、他の何をでも無く。
「良いだろう、食人鬼。私を殺してみるが良い。だが、食人鬼。ほら―――今夜は、こんなにも月が綺麗だ。流血沙汰は、止めにしない?」
食人鬼は口の端を歪める。
「無理ナ話ダ、女」
そう、ならば――ジョセフィーンは、手で顔を被った。迫る食人鬼を前に、ただの一歩も退かず、指の間に見えるその眼を深紅に染める。ああ、今夜は本当に月が綺麗だ。鮮血の紅が、月光の蒼によく映える事だろう。だから、彼女はその手を振るう。
「さよなら、食人鬼。本当に佳い夜だった」
一瞬にして微塵に分割される食人鬼。そこには一片の迷いも見えない。
「貴方に感謝を、Rest in Peace」

こうしてジョセフィーンは埋葬機関となる道を選んだ。魔でありながら、魔を狩る者として生きる道を。それもまた、背信者らしくて良い。ジョセフィーンは、そう考えた。

ジョセフィーンは独り、カテドラルの中心で呟く。
「我が名はジョセフィーン=ホワイト」
「我が名は罪深き古い蛇」
彼女が魔であるか、人であるか。彼女にとって、そんな事は悩みの種ではあっても、そう重要な問題ではなかった。現象は結果が全てなのであり、過程は、それ程大切ではないのだから。
ジョセフィーンは、そう考えていた。

<いま・3>

「その女、ジョセフィーン=ホワイトは魔だ。それも、知らぬ者無き“背信者”。それが埋葬機関に入った上、半人半魔の娘を拾った、という噂があったが…どうやら、事実の様だ」
スレッジハマーはそう言うと、砂緒を見て眼を細めた。彼女は微動だにせず、剣をただ真っ直ぐに構えている。
「実に感動的な話だとは思わんか、砂緒とやら」
「五月蝿い!私は自分が半人半魔である事も、ジョセフィーンが私を拾ってくれたという事も知っている!」
少女は叫ぶ。ジョセフィーンには本当に感謝しているし、自分が純粋な人間ではない事だって、今更何が出来ようか。だから、砂緒にとって、スレッジハマーの一言は強烈だった。
「そうだな、育ての親には感謝すべきだ。例えそれが、産みの親を殺した女だったとしても、な」
「な―――」
絶句。砂緒はちら、とジョセフィーンを見た。
お願いだから、否定して。ただ一言違う、とさえ言ってくれれば、スレッジハマーの言葉を信じないでも済むから。しかし、ジョセフィーンは黙って顔を伏せている。砂緒にとって、その沈黙は何よりも耐え難い肯定だった。
そして、砂緒の動きは一瞬、ほんの一瞬停止する。スレッジハマーには、その一瞬で十分だった。

ガアアァン。
辛うじて剣で受け止めるが、スレッジハマーの素早い攻撃に、砂緒は防戦一方となってゆく。受け止める剣も次第に傷が増え、崩壊するのも時間の問題だった。
「どうした、小娘。悩んでいるのか?まあ仕方あるまい、命の恩人が、親の仇だったのだからな!」
迷いは刃を鈍らせる。怒りは瞳を曇らせる。怯えは歩みを遅らせる。
そう教えた筈なのに、とジョセフィーンは溜息を吐く。無茶をすれば、腕を動かせる程度には回復してきた。だが、それだけだ。一撃でスレッジハマーを葬るには足りない。そして、それが可能になるまで回復する頃には、砂緒は死んでいる事だろう。砂緒の命か、自分の命か。ジョセフィーンにとって、その二択はとても簡単な問題である筈だった。何よりも、自分を優先。それが、如何なる状況をも生き延びる秘訣。
そう、思っていた筈だったのに。
ガードが遅れ、殺されそうになる砂緒。殺そうとするスレッジハマー。それを目にした刹那、ジョセフィーンは満足に動かない腕で魔術を紡いでいた。
「術式選択、魔銃陣」
壊れかけた魔術回路に魔力を流す。全身を激痛が駆け巡り、この世に創り出された魔術は一閃の光となって空を駆ける。狙い違わず、魔弾はスレッジハマーの腕を貫いた。
「ぐ…貴様!」
忌々しげにジョセフィーンを見据えるスレッジハマー。そして、砂緒にとってはその一瞬で十分だった。
「うわああああああああああっ!」
獣の雄叫び。少女は手にした剣で、幾度も幾度も斬りつける。何度でも、ただ、相手が息絶えるまで。

血に濡れた剣を片手に、砂緒がジョセフィーンの下へ歩み寄る。
「ジョセフィーン…」
ジョセフィーンは無言のまま、眼を閉じて微笑んだ。十五年。長い様で、束の間の優しい夢だった。
砂緒が初めて歩いた日。砂緒が初めて喋った日。風邪をひいた砂緒を抱いて、病院へ走った日。十五年間の思い出が、走馬灯の如く思い出される。
「砂緒。埋葬機関を出るなら、今よ。今の私なら、貴女でも楽に殺せ―――」
ぱん、と頬を打たれた。
驚いて眼を開くと、目の前では砂緒が涙を堪えて立っていた。
「何で…なんで、そんな悲しい事を言うの…?私は、私はジョセフィーンを殺そうなんて考えた事も無いのに…」
ぐす、としゃくり上げる。ジョセフィーンは呆然と、砂緒を見た。そして彼女は手を伸ばし、自分の娘を抱き寄せる。
「例えジョセフィーンが私の親を殺したのだとしても、ジョセフィーンは私を拾ってくれた!私を育ててくれた!」
母の胸に顔を埋め、砂緒は叫ぶ。ジョセフィーンは、そんな砂緒を強く強く抱き締めた。
「砂緒…私たちの、埋葬機関いえに帰ろう」
娘は頷き、その母を抱き締めた。

<みらい・0>

弓塚砂緒は、スレッジハマー討伐の功績によって十二幹部第四席、巨蟹宮の地位を得る。癌細胞の名は、埋葬機関に属する半人半魔である砂緒にとって皮肉なものだったが、彼女自身は気にもとめなかった。
また、ジョセフィーンは今も砂緒と暮らしている。砂緒との間にあったわだかまりも消え、今はただ、良き母、良き姉、良き友人として砂緒を支えている。
埋葬機関を出よう。そう二人が考えなかった訳ではない。けれど、それは決して実行されなかった。結局二人は埋葬機関自体が消えて無くなってしまうまで、その古巣に帰り続けるのだが…それはまた、別のお話。

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