透明人間

その怪しげな女が露店を開いていたのは、数日前から原因不明の悪臭が漂っているせいで人通りも疎らな、昼なお薄暗い陸橋の下だった。
おおよそ露天商には似つかわしくない鴉の羽よりも黒いパンツスーツに身を包んだ彼女は客引きの声を上げるでもなく、たった一つだけの商品が置かれた古い机の向こうで俯きながら脚を組んで、錆が浮いたパイプ椅子に座っているだけ。そして、その商品というのが彼女の妖しさをより一層際立たせている。
なにせ、その商品は「透明人間になる薬」というラベルが貼られた、液体の満ちた胡散臭いガラスの小瓶なのだから。
「あの…」
おずおずと声をかけると、彼女は顔を上げ、こちらを見た。切れ長の目と薄い唇が「美人」というよりは「怖そう」という印象を与える事を除けば、鳥肌がたつほど綺麗な人だった。
「これ、何なんですか?」
商品を指差しながらの問いに、彼女は答えた。
「見ての通り、透明人間になる薬、だよ。より正確に言えば、存在感を希薄にして、誰にもそこに居ると思わせなくする薬、だがね」
その言葉の意味よりも、彼女から予想以上に親切な答えが返ってきた事に対して驚いた。そんな青年を尻目に、彼女は話し続ける。
「無論、これは商品だから売ったって良い。値段は応相談。ただし、この薬を使った男の話を少しだけ聞いてもらう。もちろん、話を聞いてから買わないと言ってくれても構わないよ」
そこで露天商は言葉を区切り、唇の端を吊り上げて笑った。
「さて、どうする?」


―――男は不幸だった。
運動神経も仕事の要領も悪く、顔立ちも色男というには程遠い。その癖に自尊心だけは人一倍あり、他罰的な言動が目につく。だが、己の分をわきまえなかった事は彼の致命的な欠点ではあったが、不幸ではない。
彼の不幸は上司にねちねちと嫌みを言われた事でも、会社帰りのパチンコで大負けに負けた事でも、吐き捨てられたガムを踏んだ事でも、とどめとばかりに自販機で買ったホットコーヒーが何故かホットコーラになっていた事でもない。
もちろんそれらも不幸だったが、微々たるもの。彼に降りかかった本当の不幸は、その露天商と出会ってしまった事、そして、その商品に興味を持ってしまった事だった。

「ちくしょう、なんで俺ばっかりこんな目に遭わなきゃならないんだよ!」
悪態と共に思い切り投げ飛ばされた生温いコーラの缶は、陸橋の下に広がる薄闇へ飲み込まれる。コンクリートの壁に激突した、鈍い音。いつも通る道、そこには誰もいないと分かっているからこそ出来る事だ。
しかし、その日はいつもとは勝手が違った。暗がりにいた誰かが、不満げな声を上げる。
「危ないな、いきなり中身の入った缶を投げるなんて。私に当たらなかったから良いようなものの、当たっていれば傷害罪だよ?」
コツコツと、革靴がアスファルトを叩く音。暗がりから歩み出てきたのは、禁酒法時代のギャングのように真っ黒なスーツ姿。もっとも、その人影が持っているのはトンプソン機関銃ではなく先ほどのコーラであり、声も女性のそれ。ヤクザ者に絡まれる恐怖を一瞬でも感じた自分を恥じながら、男は黒服に向き直った。
「悪かったな、そこに居るなんて思わなかったんでな」
「いやいや、幸い怪我も無い事だし、以後気を付けてくだされば。しかし、温かいコーラとは珍しい。これ、どこで買ったんだい?」
チカチカ瞬く街灯のスポットライト。その下で凹んだ缶を器用に片手で弄び、女は社交的な微笑みを浮かべる。憮然とした態度で、男は近くの自販機を指差した。
「そいつでホットコーヒーを買おうとしたんだがな、間違えてコーラを入れられてたんだよ」
「それはまた、運の悪い」
同情と嘲笑をないまぜにした声で男を慰めた女は、今まで顔を覆っていた表情を変える。警戒心を抱かせなかった微笑は唇を半月状に歪めた含み笑いに、柔らかかった態度は研ぎ澄まされた刃先にも似た鋭さに。
「そんな不運な貴方に、お勧めの品物があるんだけれど」
「品物?」
いぶかしむ男をよそに彼女は陸橋下の暗がりへと戻り、そこから怪しげな小瓶を持ってきた。一般的な栄養ドリンクの瓶よりも少々大きい程度、コルクの栓が押し込まれたそれは、小学校の頃に理科室で見た薬瓶を彷彿とさせる。
「透明人間になる薬、とでも言うべきか。とりあえず、私を見ていてくれないかな?」
女は栓を抜き、瓶の中にゆっくりと人差し指を入れる。唇の切れ間から伸ばした真っ赤な舌が、瓶から引き抜かれてぬらりと液体が光る人差し指に触れた。
そして、女の姿が消える。
あまりの事に声も出ない男の肩を、見えない手が優しく叩く。男は思わずその手を探すが、どんなに目を凝らしても黒服の姿は映らない。
「―――さて、薬の効果は信じてもらえたと思う。ああ、一応言っておくけれど、催眠術だとかそういうチャチなオチじゃないからね?」
数分の後、虚空から姿を現した女はチェシャ猫の顔をしていた。男は得体の知れない女に確かな恐怖を抱いた。しかしそれと同時に、抗いがたい誘惑を彼女が持つ薬瓶から受けていた。先程、この女は品物と言った。俺に、この薬を売るつもりなのだ。
「透明人間になる薬、というのが一番分かりやすいけれど、厳密には違う。存在感を希薄にして、誰にもそこに居ると思わせなくする薬だ。簡潔に言えば、この薬を飲んだ者はしばらくの間誰にも見えないし、声も聞こえない。効果は所持品、例えば着ている服や手に持った物にも及ぶよ。五十万円、と少々値が張ってしまうがね」
「買った! すぐにそこのコンビニのATMで金を下ろしてくる、少し待っててくれ!」
思わず叫んでいた。それほど多くの貯金があるわけでもなし、五十万円の出費は確かに痛い。だが、薬の効果は本物だ。透明人間がその気になれば泥棒もやり放題、その程度の金ならすぐに取り返せる!
男はコンビニに走りながら、ポケットから財布を、その中からキャッシュカードを取り出す。コンビニの自動ドアが開く間さえもどかしく、隙間から体をねじ込む様にコンビニへ転がり込んだ。手早くATMにカードを押し込んで五十万円を引き出し、コンビニ強盗よりも手早くその場を後にし、陸橋下へと舞い戻る。
「おかえり、早かったね」
陸橋を通り過ぎる電車の光と轟音を浴びながら、女は腕を組んで立っていた。男は荒い息を整える間もなく、むき出しの五十万円を突き出す。女は札束を受け取ると、指で弾いて数え始めた。
「…チュウ、チュウ、タコ、カイ、ナ。はい確かに、五十万円受け取った。これでこの薬は貴方の物だ」
女の差し出す薬瓶を受け取り、男は笑う。そんな男を眺めつつ、再び腕を組んだ女は右手の人差し指をぴんと立てた。
「さて、使用上の注意をお教えしよう。さっきの私は一滴しか舐めなかったから、ほんの数分で元に戻ったけれど、一口でおおよそ二十四時間程度は効果が続く。ただし、一度に一口以上は飲まない事。もしそれ以上飲めば、効果が切れなくなって一生透明人間だ。無論、その方が良いと言うのなら、話は別だがね?」

一睡も出来ないまま、夜が明けた。六畳一間の万年床、その枕元には薬瓶。ラベルには「透明人間になる薬」という、シンプルだがそれ故に胡散臭い文字が印刷されているのみ。その効果は昨日、自分が身をもって体験している。しかし、それでも、と、時間と共に疑念が鎌首をもたげた。あの女は否定したが、やはりあれは催眠術や手品の類だったのではないか?俺はあの女に五十万円騙し取られたのではないか?
「まあいい、実験してみりゃ済む事だ」
男は呟き、コルクを引き抜く。そして、薬を一口飲んだ。それは軽い吐き気を誘発する生臭さを伴って彼の喉を流れる。
「うげ、不味い!」
小さな不平を漏らし、しかし彼は高揚も覚えていた。この薬が偽物ならあの女をとっちめねばなるまいが、本物なら、ほぼ一日透明人間でいられる。誰にも見えないし、声も聞かれない…やりたい放題の、楽しい時間が始まるのだ。
男はアパートを出ると、人通りの多い駅前へと向かう。途中で例の陸橋下を通ったが、女の姿は無かった。薬はやはり偽物で、あの女はさっさとトンズラしたのか。そんな不安は、駅前の人ごみに紛れた瞬間にかき消えた。
誰かにぶつかっても、ぶつかった相手はきょろきょろと周囲を見回すばかりで自分の存在に気付かない。
「何だ、今誰かにぶつかった気がするんだけど…」
時折このような言葉を聞いた事もあり、男は確信した。今、俺は透明人間なんだ!
男は大声で笑うが、その声を聞く者は無い。彼は今、完全に自由だった。
男は改札脇の柵を乗り越え、ホームへ向かう。改札を堂々と通る事も考えたが、機械にこの薬が通用しなければブザーが鳴り、厄介事に巻き込まれる可能性があるので却下した。
いつもの駅で降り、会社の駐車場へと向かう。いつも自分に小言を言う上司は自動車で出勤している事を知っているからだ。
「ご自慢のピッカピカな車も、今日でサヨナラだぜ。残念だったな、課長!」
男は財布から小銭を取り出し、課長の車を縦横無尽に蹂躙する。数分前までは綺麗だった車体も、今では蜘蛛の巣にも似た傷跡が深く刻まれていた。
その後も彼は悪事を重ねた。女子校の更衣室に真正面から忍び込んで心行くまで覗きを楽しみ、百貨店の宝飾品売り場では店員が客の要望に応えてガラスケースを開けている間に指輪を盗んだ。コンビニのレジが開いた隙に一万円札を何枚も掴み取り、あっという間に五十万円を取り戻す。酒屋から普通は手を出せないような高級酒を持ち出し、瓶に口をつけてラッパ飲みにする。男は、透明人間の生活を楽しんでいた。

だが、丸々一日眠る事も忘れて遊び呆けた彼は、自室で薬瓶を前に悩む事となる。
「さっきぶつかった奴は、俺を睨んでいった…もう薬は切れてる、やっぱり一口で一日分の効果なんだな…」
持ち上げた薬瓶には、あと二口分程度しか薬が残っていない。一口ずつ、透明人間を二日間楽しむか、それとも一気に二口飲んで一生透明人間となるか…
しばらく悩んだが、結局男は一気に薬を飲みほした。
「これから先、ずっと透明人間でいる方が良いに決まってる。いくらでも盗みが出来るんだから金にも食い物にも困らないし、何をやっても誰にも見られないってのは楽しいもんだからな!」
さあ、これで好き勝手に生きられる。
昨日は車を傷付けるだけで止めておいたが、誰にも見咎められないとなれば話は別だ。あの嫌な上司を筆頭に、少しでも気に食わない奴は全員ぶっ殺してやる。男は金物屋から盗み出したナイフを手に、昨日と同じ方法で会社へ向かう。
「まったく、あいつは二日続けて無断欠勤か。まあ、居ても何の役にも立たん奴だがな」
愚痴をこぼす課長は次の瞬間、机を深紅に染めていた。その左胸には、墓標にも似た冷たさで光るナイフ。大騒ぎしながら救急車を呼ぶ同僚を尻目に、男は誰にも聞こえない狂気じみた高笑いを残して会社を去った。
「最高だ、透明人間ってのは最高だ!」
叫びながら道路を渡ろうとした彼がトラックに轢かれたのは、その時だった。男は自分が透明人間になった喜びのあまり、赤信号で道路を渡らない、という根本的なルールが頭から抜け落ちていたのだ。
トラックからは運転手が慌てた様子で降りてきたが、透明人間となった彼の姿を見る事は出来ない。運転手にとっては幸いな事に、そして轢かれた彼にとっては不幸な事に、トラックには目立った傷も残らなかった。
「変な事もあるもんだ、何か轢いちまった様に思ったんだが」
運転手は周囲に猫か何かが居たのか、などと尋ねている。だが、透明人間の姿が見える通行人が存在する筈も無い。結局、運転手は気のせいだったと胸を撫で下ろして再び運転席へ戻った。
「誰か…救急車を…」
男はか細い声で周囲に助けを求める。しかし当然の事ながら、その声は誰に届く事も無く消えるのみ。彼は透明人間だ。誰にも姿が見えず、誰にも声を聞かれない。そうなる事を望んだのは彼自身、誰を責める事も出来ない。
「そうだ、あの女…あの女なら、俺が見えるかも知れない…」
最期の力を振り絞り、男は満足に動かぬ体を引きずり、惨めに道路を這い続けた。もし透明人間の姿を見る事が出来る人が居たならば、その人は陸橋下へと一直線に続く赤いラインを見た事だろう。けれど、陸橋の下に黒服の露天商は店を出していなかった。


「…陸橋下まで辿り着いた男が息を引き取ったのは、それから数時間後の事だった。もちろん死体は腐敗を始める、ただし、透明のまま。彼は大事な事に気が付かなかったんだね、誰にも見られないという事は、好き勝手に生きられる反面、誰にも助けて貰えない、という事に」
くつくつと、小鳥が囀るように笑う露天商。椅子に座ったまま、彼女は顔を上げて青年の目を見た。その瞳には商売人としての大きな誠意、そしてわずかな悪意。青年はその怪しさに眩みそうになりながらも、必死で自我を保ち、問いかけた。
「本当にその男が透明人間になったのなら、男がどうなったかなんて分かる筈が無いじゃないですか…っ!」
「そうだね、普通なら分かる筈が無い。その理屈は、実に正しい…そう、普通なら、ね?」
女は憐れむような微笑むような、左右非対称の表情で言葉を紡いだ。そして、組んだままだった腕を解いて小瓶を持ち上げる。
「さて、とりあえず五十万円から始めようか。それとも、値切り交渉もせずに立ち去るかい?」

結果として、その場を立ち去った事が賢明だったのかどうかは分からない。けれど、あの黒服の露天商とあれ以上の会話をつづける事は、きっと自分のためにならなかった。だから、あそこを立ち去ったのは正解だ。
そう思いながら、青年は街並みへと埋もれていく。ただそこにある、窒息しそうな平穏だけを噛みしめて。


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