真実の瞳

その女性が屋敷の門を叩いたのは、朝から激しい雨の続いている夜の事だった。
鳴らされたインターホンを受けたメイドがモニター越しに目にしたのは、まだ秋口だというのに墨汁で染めたように真っ黒なコートを着込み、同じ色の中折れ帽の下で微苦笑を浮かべる女性の姿。
「夜分に失礼します、道に迷ってしまいまして。よろしければ、鳥飼までの道をお尋ねしたいのですが…」
地方都市の名を挙げ、道を尋ねる見知らぬ女。さて、これは主人に知らせるべきかどうか。メイドは唇に人差し指を添え、少しばかり思案に暮れる。その背後から、若い男の声がした。
「沙耶さん、こんな時間にお客さんかい?」
沙耶と呼ばれたメイドが振り返ると、そこにはサングラスをかけて白い杖を携えた、年若い青年が立っていた。
「はい、幸人さん。何でも道に迷ってしまい、鳥飼までの道を尋ねたいとの事でして」
「鳥飼まで?ここからだと、車でも何時間かかかる場所じゃないか…うん、袖すりあうも多生の縁、お客さんが良ければだけど、今晩は泊ってもらったらどうかな?」
心優しい盲目の主人に一礼すると、沙耶は黒服の女性にその旨を伝える為に扉を開けた。女性は腰まで伸ばした髪も右手に提げた大きなトランクも、何もかもを夜闇に溶け込ませながらコートの襟を左手でしっかりと合わせていた。
「泊めていただける?それは助かる、何分この天気ですからね。宿を探すにも遅くなりすぎてしまったし、野宿も覚悟していた所でして」
心底ほっとした笑顔で頭を下げる彼女を屋敷の中へ誘いながら、沙耶はゾクリとした。白磁で出来た西洋の骨董人形にも似て真っ白な肌、その反対に日本人形に似て真っ黒で艶やかな髪。その中でただ一点、そこだけが血の色で生を主張する唇。喪服じみた色合いの服装と鋭い視線のせいで美しさよりは暗さや冷たさが印象に残る顔だが、美人である事に変わりはない。沙耶は少し、顔をそむけた。
「どうも、はじめまして。月島幸人といいます。彼女は住み込みで使用人をしてくれている、小越沙耶さんです」
にこやかに笑う幸人に帽子を脱ぎ、深々とお辞儀をする。気障な仕草ではあるが、不思議と黒服の女性にはそんな芝居がかった大仰な動作が似合っていた。
「はじめまして、私は森下和代。行商人です。本日はお招き、大変感謝します」
「いえいえ、困った時はお互い様ですよ。さあ沙耶さん、来客用の寝室にご案内を」
沙耶は頷き、和代を伴って屋敷の廊下を歩き始める。
床に敷かれたペルシャ絨毯には細微な刺繍が施され、頑丈な樫の扉が並ぶ長い廊下を照らすのはガス灯にも似た風情で柔らかな光を放つ電灯。明治期の洋館をそっくりそのまま蘇らせたような屋敷を歩きながら、和代は幸人の姿が見えなくなった頃に口を開いた。
「月島さん、ですか。失礼な事を尋ねますが、彼はその…盲目、なのかな?」
「はい、ちょうど一年ほど前に自動車事故に遭われて…ああ、こちらです」
口ごもりながら来客用寝室の扉を開ける沙耶に、和代は無言で頭を下げる。扉の脇にドスンと重たい音を響かせてトランクを置くと、彼女は部屋の中央で肩を回した。コキコキと、骨が鳴る軽快な音。あれだけ重そうなトランクを持って歩けば、さぞ肩もこる事だろう。
「御夕食は、お済みですか?お済みでないようでしたら、すぐにご用意いたしますが」
「いえいえ、そんな。泊めていただけるだけでも十分です」
両手をひらひらさせて固辞する和代。その意外に可愛らしい姿に、沙耶は思わず微笑んだ。
「二人分も三人分も、手間は変わりませんから。どうぞ、召し上がってください」

「どうでしょう、森下さん。お口に合えば幸いですが」
食卓の向かいからいかにも人が良さそうな笑みを浮かべて話しかける幸人に、和代はグリーンペッパーのソースがたっぷりとかかった牛ロースのグリエを切り分けるナイフを止めて答えた。
「ええ、とても美味しいです。泊めていただけるばかりか、こんなに素晴らしい料理まで御馳走になってしまって…恐縮です」
「はは、成金小僧の道楽に付き合っていると思って、どうかお気になさらず。この屋敷には僕と沙耶さんの二人だけですから、時にはお客様を招いてお話を伺いたくなるんですよ」
ほう、と和代は驚きのため息を漏らす。グラスの水で唇を湿すと、彼女は顎に手を当てた。幸人の眼には映らないが、その姿勢はオーギュスト・ロダンによって生み出された、地獄の門を覗きこむ男の彫像とよく似ていた。
「では、私の話でよろしければお聞かせ致しましょう。とは言っても、何をお話ししたものか。私の恋愛遍歴など語った所で面白くも無いでしょうし。職業柄、商談や交渉は得意なんですがね、人様に聞かせる話というのは苦手でして」
むう、と唸るその声は、幸人の目にもありありとその困り顔が見えるほどに深刻な物だった。見かね、幸人は助け船を出した。
「なら、そのお仕事の話を聞かせて頂けませんか?」
「私の仕事、ですか…最初に申し上げた通り、一言で言うなら行商人です。顧客がいたり訪問販売をしたりする訳ではないので、露天商と言った方が正確かもしれませんね。扱う品は様々ですが、私が面白いと思った品物だけです」
二人がグリエを食べ終わった皿を下げるため、沙耶が食堂に姿を現す。和代は彼女に美味しかったと微笑みかけると、続きを話し始めた。
「私が興味を持つのは、基本的には曰くつきの品物、オカルト紛いの道具です。例えば今トランクに入れている品物には、『身に付けるだけで幸せになれるブレスレット』や『時間を止められる時計』、『透明人間になる薬』に『真実の瞳』なんて物がありますね。無論、効果は保証しますよ」
下世話な雑誌の広告に書いてありそうなブレスレットはとにかく、余りにも突拍子が無いその他の品物。その効果を保証すると言い切った露天商に、主人とメイドは耳を疑った。
凍りついた空気を意にも介さず、和代は沙耶を褒めた笑顔のままで言葉を失した二人を眺めている。冗談だと笑い飛ばさない無言が、空気を動かす。幾千万の言葉よりも雄弁に、漆黒の瞳は物語る。この言葉が、真実なのだと。
「…御冗談、ですよね?」
最初にその沈黙に音をあげたのは、幸人だった。冗談だと言って欲しい、そんな願いが透けて見える言葉。けれど、その期待は無慈悲に踏み躙られるだけだった。
「月島さん、私は一宿一飯の恩義がある相手にこんな悪辣な冗句を言って平然としているほど、分厚い面の皮を被っているつもりはありませんよ」
和代は苦笑を漏らしながら肩をすくめる。その仕草は見えずとも、傍らに控えた沙耶の息遣いは聞こえる。圧倒的なまでに和代が支配した場の雰囲気が、幸人を呑み込んだ。
「…なら、お伺いしたい事があります。失明した眼を治す、そんな品物はありますか?」
和代は唇の端をほんのわずかに吊り上げた。獲物が罠にかかった狩人の様な、ある種の底意地の悪さを湛えた笑み。しかし沙耶にも幸人にもその笑みを気付かせる事無く、和代はその表情から暗さだけを排斥し、人懐っこさだけを残して答えた。
「ええ、偶然にも。先ほど申し上げた『真実の瞳』。健常者のそれと全く同じとは言えませんが、一応、物を見る事だけは可能になります…ですが、結論を急ぐ事はありません。一晩、じっくりとお考えになってから決めた方が良いでしょう」
和代は御馳走様と頭を下げると席を立ち、食堂から姿を消した。
「…ねえ、沙耶さん。森下さんの言っている事は、本当だろうか。僕の目は、見えるようになるかな?」
「ええ、きっと見えるようになります。そう信じましょう」
沙耶の答えに満足げに頷くと、彼は脇に立てかけていた杖を取って椅子から立ち上がる。沙耶に背中を向けて歩きながら、幸人は一つ質問を投げた。
「沙耶さん、僕の目が見えるようになって、最初に見たい物は何だと思う?」
嬉しそうに尋ねる幸人に、沙耶は小首をかしげた。答えが見つからない様子を察したのか、幸人は振り向いて答える。
「君の顔だよ、沙耶さん。僕は、大好きな君の顔が見たいんだ」

『失礼します。少々、よろしいでしょうか』
「はい、どうぞ」
沙耶が重い樫の扉を押すと、和代はベッドの上にトランクの中身を広げている所だった。古びたラベルの貼られた小さな薬瓶、革で表装された上に金糸で飾られた豪華な本、趣味が悪い髑髏のブレスレット、錆びついた銀色の懐中時計、今着ている物とまったく同じデザインの鴉に似たスーツ。売り物なのか私物なのか、雑多な道具がベッドの上に並んでいる。
「ああ、小越さん。どのようなご用件で?」
「お願いがあります。幸人さんの目を、治さないで下さい」
真剣な顔で不可思議なお願いをする沙耶に、和代は唖然とした。口をポカンと開けたまま、思わずまじまじと沙耶の顔を見つめてしまう。しかし、長く伸ばした前髪の下で沙耶の顔を斜めに切り裂く大きな傷跡と火傷の跡が動く事は無かった。
「…一年ほど前の事です。私の乗っていた自転車のブレーキが故障して止まれず、私は車道へ飛び出しました」
沙耶は静かに遠くを見つめながら、しかしどこか自嘲的な様子で語り始める。和代は腕を組み、無言のまま話の続きを促した。
「その事故で私は自動車とぶつかり、ハンドルを切ったその車は電柱に激突。運転席と助手席にいた、幸人さんのご両親が亡くなられました。幸人さんはお命こそ助かったものの、眼球破裂の重症で視力を失われました。私は責任を感じ、このお屋敷に住み込みで使用人をさせていただく事にしたのです」
「その顔の傷も、その事故で?」
和代の問いに、沙耶は無言で頷いた。そして、その頬を一筋の涙がつたう。
「幸人さんは、私を好きだと言ってくれました。けれど、こんな顔を見られたら嫌われてしまう。幸人さんに嫌われるくらいなら、私、私…っ!」
堰を切ったように泣きだした沙耶を、和代は冷ややかな目で見つめる。深い溜息をつきながら頭を掻き、ベッドの縁に腰掛ける。
「申し訳無いが、その頼みは聞けません。私は商売人、客が望むのならばその望みを叶える義務がある」
「そう、ですよね。ごめんなさい、見苦しい所をお見せしてしまって…」
エプロンドレスのすそで涙を拭き、沙耶はそそくさと客室を出て行こうとする。樫の扉がゆっくりと閉まりかけた瞬間、壁を見ながら黒服の露天商は唇を開いた。
「ただ、うん。小越さんが作ってくれた今日の夕食は、とっても美味しかった。だから、せめてその程度の恩は返させて貰おうかな、とは思う」
果たしてその呟き声は沙耶に届いたのだろうか。それを確かめようと振り向く和代の視界を遮るように、扉はゆっくりと閉まった。

「おはようございます、月島さん。結論は、出ましたか?」
まだしとしとと雨の降り続く朝、漆黒のスーツに身を包んだ露天商は問いかける。幸人は頷き、手を差しのべた。どこか遠くに雷が落ちたのだろう、一瞬の閃光が二人を照らす。
「ええ、森下さん。僕に、『真実の瞳』を売って下さい」
やっと聞こえた雷鳴が、和代が漏らした笑みの音を掻き消した。
「では、これが『真実の瞳』です。使い方は通常の義眼と同様、眼窩に入れるだけ。泊めていただいた恩義もありますからね、料金は特別サービス、タダで結構ですよ」
和代はビロード張りの、結婚指輪でも入っていそうな箱を手渡す。重くもなく軽くもない、確かな手ごたえ。幸人は、唾を飲んだ。
「それでは、『真実の瞳』を使ってみて頂けますか?万に一つも無いと信じてはいますが、もしも効果が発揮されなかった場合は代替品を用意しなければなりませんので」
「ええ。でも、それは沙耶さんの前ではいけませんか?この目で、愛する人の顔を最初に見たいんです」
瞬間、和代は屋敷を覆う曇天を吹き飛ばすかのようにからからと快活に笑った。
「月島さんはロマンチストですね。良いでしょう、小越さんのいる所で試して下さい。いやはや、同じ女として、ここまで想って貰える小越さんに嫉妬してしまいそうですよ」
そんな二人の会話を物陰で聞きながら、沙耶の心は揺れていた。本当に幸人の目が治るのなら、それに越した事はない。だが、その結果としてこの顔を見られれば、嫌われてしまう。二律背反に揺れる沙耶の思いも空しく、幸人と和代の話声は無慈悲に近付く。いっそ全てを捨てて逃げ出してしまいたい。大好きな人に嫌われるくらいなら、いっそ…!
「沙耶さん、ここにいたのか」
思わず振り向いた彼女が見たのは、サングラスを外して義眼を付け替える、愛する幸人の姿だった。沙耶の表情が恐怖と絶望に染まる、その瞬間。幸人は彼の愛する女性に、満面の笑みを見せた。
「やっぱり、僕が想像していた通り…沙耶さん、君は、なんて綺麗な人なんだ!」
二人は強く、互いの想い人を抱き締める。その視界の隅で、黒服の露天商が帽子で視線を隠しながら、小さく笑う。彼女は無言で一礼すると、大きなトランクを右手に提げてコートの裾を翻す。

「さて、と。鳥飼はこっちか…」
雨に濡れる道路標識を見上げながら呟く和代は、息を切らせて走り寄った沙耶に気付く。大きく上下する自分の肩が鎮まるのを待ってから、沙耶は問いかけた。
「幸人さんが、私の顔を綺麗と言うなんて…あれは、どういう事なんですか?」
和代は頭を掻きながら小さな溜息をつく。手品の種をばらすのは好みじゃないんだけれど、と前置きしながら、彼女は答えた。
「あの『真実の瞳』は心の美しさを姿の美しさに変換する、そんな道具なんですよ。幸人さんが貴女を綺麗だと言うかどうか、その辺はちょっとした賭けでしたがね。まあ結局、貴方の心は綺麗だった、と。そういう事ですよ」
唖然とする沙耶。しかしすぐに感謝の言葉を紡ごうとした…その唇に気障な仕草で人差し指を当て、和代はニヤリと笑う。
「けれど、うん。幸人さんは、あまり町には出ない方が良い。あの屋敷で貴方と二人ならば綺麗な恋人と一緒に過ごせるでしょうが…果たして、この世界にどれだけの怪物が棲んでいる事やら。では、ごきげんよう」
悠々と雨の中を歩き去る黒服の露天商。傘もささずに濡れながら歩く彼女の後姿に沙耶は深くお辞儀をし、そして踵を返した。世界が例え悪意に満ちていても、それから愛すべき人を護る事こそ自分の役目と、そう信じて。


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