恋文

古びてくすんだ窓ガラスから西日が差し込む小さな部室。一人の少年が、錆が浮いて畳めなくなったパイプ椅子に腰掛け、原稿用紙を前にしている。時折シャープペンシルで何かを書くのだが、遅々として筆は進んでいなかった。
「あら夏石君、どうしたの?さっきから全然進んでないじゃない。スランプかしら?」
夏石と呼ばれた少年は顔を上げる。その時に原稿用紙の上に手を置き、内容を読ませないようにする工夫も忘れない。
机を挟んだ夏石の向かい側には少女がやはり錆の浮いた、だが夏石が使っている物よりは幾分かマシなパイプ椅子に座って彼の顔を覗き込んでいた。夏石がシャープペンシルを置くと、少女は読んでいた文庫本を机の上に置いて彼に優しく微笑んだ。ドイツ人クォーターとの事だが、その白磁のような肌は曇り一つ無く、それこそマイセンで焼き上げたかの様な上等のビスクドールを思わせた。鴉の濡羽色をした艶やかな長い髪を三つ編みにして胸元に下げている。その様はどこか明治や大正の時代の女学生を想起させ、華美とは程遠い印象だ。だが、少女の素朴さを端的に表現してもいる。
夏石個人が彼女に惚れているという事から来る贔屓目を差し引いても、少女は麗人と呼ぶに値する容貌を備えていた。
「夏石君、それは今度の『学報』の原稿?」
なお、『学報』とは、この文芸部が学期毎に一冊発行している校内雑誌の事である。
夏石は自然に見えるように装いながら原稿用紙を揃え、少女の視線からその内容をひた隠しに隠す。その動作に慣れが見られる辺り、何度も繰り返してきた行為なのだろう。
「ええ、まあそんな所です、エリス先輩」
「ねえ、夏石君。先輩って呼んでくれるのは嬉しいけれど、どうせなら名字で鴎森先輩って呼んで欲しいな。それとも、私が敬君って呼んであげる方が良いのかな?」
むくれる少女、鴎森エリスに夏石敬は曖昧に笑うだけで答えなかった。
彼にとっては自分の呼ばれ方、エリス先輩の呼び方云々よりもこの狭い部室に二人きりであるという状況の方が優先して考えるべき事項だったのである。
薄く埃の臭いが漂う文芸部室は、現在は部室棟として使われる旧校舎の二階端の小部屋であり、南向きの窓は無い。かつては倉庫として使われていた為に居住性について一切考慮されておらず、立地条件としては最悪に近い場所である。これがマンションならば、確実に家賃が他の部屋よりワンランク低い事だろう。
しかし、そんな寂れた場所も普段の様に部の仲間が数人も集まれば賑やかな空間へ一変し、鴎森エリス個人を意識する事も少なくなる。だが、今日に限って夏石とエリス先輩以外の仲間が揃って部活を休むと申し出たのである。同じクラスの清水英貴は眼医者の予約があると言い出し、隣のクラスの高野鏡花は作家のサイン会に出向いて学校をサボり、朝から居ない。そして部室に来てからエリス先輩に聞いたのだが、他の先輩もエリス先輩を除いて今日は全員が休むそうだ。偶然というものは恐ろしい。『世の中には三つの坂があり、それは上り坂と下り坂とまさかの坂だ』と、どこかで聞いた言葉を夏石は思い出していた。
「そう言えば、先輩は何を読んでるんですか。最近、ずっとその本を読んでるみたいですけど」
原稿を書いている間は黙っていても良かったのだが、話しかけられてしまった。そうなった以上何か話さなければ、という焦燥が夏石を衝き動かす。だがしかし、その口から出たのは彼自身呆れるほど月並みな言葉でしかなかった。
「ああ、この本?ウィトゲンシュタイン先生の『論理哲学論考』。難しい本だけれど、読んでみたらなかなか面白くって」
本にかけられていた、書店の名が記された紙のカバーを外し、その表紙を見せるエリス先輩。夏石は失礼します、と断りを入れてから先輩から本を受け取ると、パラパラと数ページ捲ってみた。
先ほど聞いた『論理哲学論考』というタイトルから推察するに、哲学の本なのだろう。だが、何かの図形や計算式のような物も書かれている。先輩も言うとおり、難解な本の様だ。裏表紙に書かれた値段は700円。小遣いを遣り繰りすれば無理する事無く買える値段だ。
エリス先輩が面白いと言った本だから購入する。ただそれだけのシンプルで理由にもならない理由だったが、夏石にとってはそれで十分だった。恋は盲目、そういう事である。
夏石がそんな思いで熱心に本を見ているとは露知らぬエリス先輩は、彼に柔らかな微笑みを見せた。
「夏石君、興味があるなら貸してあげようか?後少しだから、多分今日中に読み終われると思うわ」
夏石は自分の心臓が跳ねるのを確かに感じた。興奮に震える手を必死で押し隠しながら、先輩に本を手渡して返す。
「良いんですか?それなら、お願いします」
「でもね、一つだけ条件があるの。今夏石君が書いてるその原稿、ちょっとだけで良いから読ませてくれないかな?」
エリス先輩は悪戯っぽく片目を瞑り、夏石の原稿を指差しながら可愛らしい笑顔を見せる。
夏石は狼狽した。
今ここで原稿を見せさえすれば、ただそれだけでエリス先輩に本を貸して貰える。だがしかし、それには当然ながら『原稿を読まれる事』が必要。この原稿だけは、今先輩に見せる訳にはいかないのだ。
しばし逡巡した夏石だったが、結局彼は自分の矜持を選んだ。
「あの、悪いんですが先輩、この原稿だけはちょっと。ほら、まだ書いてる途中ですし」
そそくさと手元の原稿をまとめる夏石。エリス先輩は僅かに眉を寄せ、残念、とだけ呟いた。けれどそれ以上追求する事も無く、彼女は文庫本の続きを読み始める。

「さて、と」
しばらく後、本を閉じたエリス先輩は左手に巻いた腕時計を見ながら呟く。夏石もつられて自分の腕時計を見ると、もうそろそろ下校しなければいけない時刻だった。
二人は帰り支度を始める。とは言え、本を読んでいただけのエリス先輩は鞄に本を入れるだけ。夏石が筆箱にシャープペンシルを放り込み、原稿と一緒に鞄へしまうのを彼女は黙って待っていた。
一緒に部室を出、施錠する。鍵を顧問の先生に返却する為に職員室へ向かう廊下で、エリス先輩は口を開いた。
「ねえ、夏石君。さっき書いてた原稿、小説?」
「はい。一応、恋愛小説です」
そう、それは恋愛小説だ。文芸部に所属する少年が同じ部の先輩である少女に告白するまでの顛末を描いた、他愛も無い恋愛小説。
そしてそれは、夏石敬から鴎森エリスに贈るラブレターでもあった。
面と向かって告白する勇気も無く、けれどありきたりなラブレターは書きたくない。夏石のそんな葛藤の末に導かれた結論が、小説で告白するという手段だった。
エリス先輩はふと立ち止まると、鞄を開けた。夏石も立ち止まり、先輩の行動を見守る。
「はい、夏石君。返すのはいつでも良いよ、私が卒業しちゃうまでなら、ね?」
目の前に差し出されたのは、先ほどの文庫本。呆気にとられた夏石に、エリス先輩はいつもと変わらぬ優しい微笑みを見せた。
「でも、お願いがあるの。さっきの小説が完成したら、私にも読ませてね?」
夏石は本を受け取りながら、しっかりと答えた。
「はい、もちろん。完成したら、最初に読んで貰います」
その答えを聞いたエリス先輩は満足そうに頷き、小指を立てた右手を差し出す。
「じゃあ約束よ、夏石君」
夕闇に染められた微笑みを向ける先輩の、その手折れそうな細い指に自分の指を絡ませながら、夏石も笑った。
「はい、エリス先輩」



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