第42話:大望―Ambition―

軽くコンクリートの床を蹴り、後ろに下がる。もとより何もない屋上、蜘蛛と距離を置いたところでさしたる意味はない。それでも俺が蜘蛛をにらみながら円弧を描いて動くのは、俺と蜘蛛を結ぶ直線状から先輩を外すためだ。それにしたってどれほどの意味があるかは分からないが、自分に出来ることは可能な限りやっておきたかった。
腰を沈め、上体を下げる。クラウチングスタートにも近い姿勢から、一気にブースターを解き放つ。ただ一撃に全てを込めて、速度を極限まで高めた上で全質量をぶつけるしかない。
禍々しい右腕を構える蜘蛛に向かって、一直線。エクリプス・ブレイズとの激突に合わせ、彼女は大きく腕を振りかぶった。魔術で牽制だの何だのやってはいるが、蜘蛛は基本的に正面切っての殴り合いを好んでいる。だから、俺たちが突進すればそれに合わせてカウンターを仕掛けようとするだろう。先ほど地面に突き刺さるほどの踵落としを放ったことから考えるに、蜘蛛は俺が回避した場合の事を考えずにとにかく重い一撃を放とうとしてくる。ならば、それを空振りさせれば一瞬の隙程度は作れるはずだ。
右腕を引き絞り、殴りつける。ただしそれは蜘蛛ではなく、屋上をだ。
『右上腕部装甲および骨格基部に甚大な損傷、リカバリはしないでいいな!?』
『当たり前だろ、そっちに回す力があるならブースターに回せ!』
地面に打ち込んだ右腕で無理やり減速し、その瞬間地面を蹴って斜め上に飛び出す。振り下ろされつつあった蜘蛛の右腕を蹴り、地面に押し込むようにして彼女の背後、空へ舞う。
空中で体をひねり、右足を突き出す。左手は軽く曲げて胸元へ、砕けた右腕は拳を握る。小さい時から何度も真似をしてきた、仮面のヒーローの必殺技。そんな時、つまらない事を思い出した。
『なあナイン、知ってるか?』
『京司、何をだ』
『蜘蛛の怪人ってのは大概、序盤に倒されるそんなに強くない怪人なんだよ』
ブースターに点火。地面に右腕が刺さったままの蜘蛛は顔だけこちらを見ているが、その顔には諦観なのか憐みなのか、薄い笑みが浮かんでいた。
『喰らえ――』
最高出力で全身の筋力とエーテルを叩き込む。結合の維持に必要なエーテルの残量など、知った事か。俺とナインの全てを燃やし尽くして、それでなお届くかどうか。そんな状況で、後のことまで考えている余裕なんてあるはずがない。
『――ライダー、キック!』
右足が蜘蛛に刺さり、次の瞬間に爆発を起こす。自分で生み出した爆風に吹き飛ばされながら屋上を転がり、それでも視線だけは蜘蛛の方へ向ける。爆炎と砕けたコンクリートの煙幕が収まった時、そこに見えたのは血にまみれた蜘蛛の姿だった。右腕は消し飛び、その抉れた傷は腹にまで達して肋骨を外気にさらしていた。人間だったなら即死、死んでいないならむしろその方が残酷……それだけの重傷を与えている。けれど、相手は人間ではない。本当に、これだけの傷で死んでくれるのだろうか。ボロボロの姿で、立っているというよりは倒れていないだけという風体の蜘蛛を目の前にして、それでも俺は不安がぬぐえなかった。俺の右腕は動かない。視界もかすむ。それでも立ち上がって、せめてもう一撃。そう思って地面についた左腕から、装甲が崩れ落ちていく。
「当たり前だろう、先ほどエーテルを全て消費したのはお前の判断だぞ」
いつの間にか俺の隣に倒れているナインが、苦しげな声を漏らす。全身傷だらけ、特に右腕は肉が裂けているのか真っ赤に染まっている。自分の右腕を見れば、大体こっちも同じような状況だった。麻痺しているのか何なのか、痛みはそれほど感じない。まだ右腕よりはまともに動く左腕を頼りに、ゆっくりと体を持ち上げる。
立ち上がりたい。蜘蛛はまだ倒れていない。正義の味方になるのなら、敵より先に倒れるなんて許されない。そんな思いだけが空回りして、それでも体は泥濘にはまったように遅々として動かない。震える膝を気力だけで支え、ともすれば途切れそうになる意識を必死につなぎとめる。
立ち上がり、一歩ずつ蜘蛛へ近寄る。ナインの苦しげな息遣いを背中に、目を伏せる先輩を蜘蛛の向こうに、一歩、また一歩。血まみれの右拳にわずかに残った力を込め、体を捻った。エクリプスに変身してもいない、瀕死の高校生男子のパンチ一発が蜘蛛にどれほど通用するかなんて、気にする余裕はない。出来るか出来ないかなんて些細な事はもう、どうだっていい。そんな全力の拳はしかし、蜘蛛の左手に受け止められた。
「カートゥーンじみた結末よね、巽京司君。愛と勇気のヒーローが、巨悪を倒す。囚われのお姫様を取り返し、ハッピーエンド……」
俺の拳を受け止めた左手に、力がこもる。饒舌に語りながら、蜘蛛はその焼け爛れた顔で凄絶な笑みを浮かべた。
「侮っていなかった、と言えば嘘になる。所詮子供とイルサイブだと高をくくっていたことは認める。でもね、巽京司君」
拳を引こうとしても、蜘蛛の左手はからみついて離れない。それは俺に力が残っていないからか、それとも蜘蛛が強く掴んでいるからか、それすらもわからなかった。
「邪神を、舐めるな」
視界が急速に動く。蜘蛛が俺を投げたのだと理解したのは、ナインにぶつかって一塊になったまま屋上を転がってからだった。
声も出せず、口から出るのは血反吐だけ。今度こそ、立ち上がる力は残っていなかった。ぼたぼたと鮮血を零しながら歩み寄る蜘蛛から、ナインを少しでも遠ざけたいと首を動かす。それでも何一つ事態は好転しない。この期に及んで、俺はやっと自分が勝てないのだと悟った。そして、悟った事実に自嘲する。俺が悟ったのは勝てないという事だけ。敗北はまだ、認めていない。最悪の往生際だ。それでもただ、負けたくなかった。自分が無力だと思い知っても、それでも戦いたかった。
「個人的にはね、巽京司君。君みたいな往生際が悪い人って、嫌いじゃない。むしろ同情するし、好感すら覚える。でもね、私の邪魔をするのなら……」
俺とナインを見下ろす蜘蛛の左手が毒々しい黒と黄色に染まっていく。鋭い爪と眼光が、俺たちの戦いの終わりを告げていた。ああ、勝てなかった。いっそ清々しくさえある気持ちが俺の胸を満たす。その結果がこれだというのなら、悔しくはあるけれど受け入れるしかない。俺は歯を食いしばり、目を閉じた。

「もう、やめましょう」

そっと開いた目の前、蜘蛛の左手には後楽先輩が抱きついていた。顔を伏せているので、表情は見えない。けれど、その声だけで彼女が泣いていることは明らかだった。
「巽さんには過剰防衛はしないって、約束したじゃないですか。その約束が守れないのなら、雨宮さんを生贄にする手伝いをするって約束も、守りません」
先輩は強く蜘蛛の左手を抱きしめる。蜘蛛は呆れたような声で、しかし冷たい目で先輩を突き放した。
「後楽さん。私は――」
「だから、ここからは新しい約束です」
先輩の毅然とした声に、蜘蛛は乱暴に振りほどこうとした腕を止めた。
「蜘蛛。あなたが寂しくて、昔いた世界に帰りたいというのなら。それなら、私がずっとそばにいます。人間の寿命だからせいぜい残り八十年くらいだと思いますけど、それでもずっとそばにいます。だから、この世界から、私の愛した人と、彼が愛した人を奪わないで下さい」
それは、本当に虫のいい話だった。蜘蛛にとって、ここで先輩を切り捨てるほうが正しい選択だ。先輩を見捨て、俺とナインを殺し、そして蜘蛛は昔いたという世界に帰る。それが一番筋の通る道理だ。
けれど、無理が通って道理が引っ込む事も、この世の中にはままあるのだろう。そしてそれが、今この瞬間だった。
「……そう。それが、貴女の決めた事ならば」
蜘蛛は呆れた声はそのままに、けれど優しげな微笑みで先輩を見つめる。先輩は泣き笑いの顔を上げ、俺とナインにそっと近寄った。
「こういう訳なので、さよならですね、巽さん、雨宮さん。私は、彼女と一緒に生きていきます。いろいろご迷惑をおかけしましたが、本当に……本当に、ありがとうございました」
先輩は深々と頭を下げると、返事も待たずに蜘蛛の元へ駆ける。蜘蛛は左手だけで先輩を抱きしめ、俺たちには一瞥もくれずに先輩と一緒に消えていった。

「……終わってみれば、あっけないもんだな」
どれだけ時間がたったのだろう。空が白くなってから、俺は小さく呟いた。ナインはそれに答えず、ゆるゆるとした動きで立ち上がると大きく息を吐いた。
「帰るぞ、京司」
「そうだな、そうするか」
傷だらけの体を引きずって、俺たちは屋上を後にした。

その後のことは、俺が関与しないままに終わっていった。傷だらけになった屋上や一晩中魔と戦ったせいで壊れた街並みは、全部埋葬機関が処理したらしい。物的被害をどうこうするのは意外と簡単なものだ、とホワイトさんは笑っていた。
後楽茶名の失踪は、しばらく学校を騒がせていた。学校や警察から何か知らないか、というような全校生徒への調査はあったが、俺は何も知らないと嘘をついた。知っていることを正直に書いたって信じてはもらえないだろうし、何より蜘蛛と生きていくという先輩の選択を邪魔したくなかった。全国的には女子高生の失踪などそこまで珍しくもなかったのだろう、マスコミが大々的に騒ぐことも無く、先輩の失踪事件はひっそりと人口に膾炙しなくなっていった。俺はそれが、少しだけ嬉しい。

後は、細かい事だ。
祐二や水流、太宰先生やゲシュタルト、アルカナに硝子さん……仲間たちは俺が蜘蛛に勝てなかったことを告げると、責めもせず、しかし過剰に労りもせず、そういう事もあると受け入れた。少なくとも、表面上は受け入れてくれたように見えた。
ホワイトさんや黒騎士、酒木さんたち埋葬機関は事後処理の後、気づけば連絡が取れなくなっていた。一度ゆっくりお礼を言いたかったのにとは思ったけれど、きっとどこかでまたひょっこり顔を合わせるかも知れない。ホワイトさんが俺を助けて、その十年後の今、また出会ったように。
俺とナインは、変身能力を失った事を除けば何も変わっていない。変身能力、即ちイルサイブとしての能力を失った以上はナインが魔に狙われることも無くなったし、離れすぎると俺が死ぬという話も嘘だった以上、俺がナインと同居している理由は無くなった。けれど、理由がないからと言って家族を放り出すほど俺は薄情じゃないし、もしそんな事を言おうものならまず間違いなく硝子さんに殺されていただろう。

そして最後に、後楽先輩の事。
先輩失踪のほとぼりも冷めたころ、俺とナイン宛てに手紙も無く、ただ一葉の写真だけを納めた封筒が届いた。どこか見知らぬ街で、傷が癒えたらしい蜘蛛と並んで先輩が立っていた。どこか緊張した面持ちで、けれど心から笑っているように見える先輩は幸せそうだった。それが俺の無力が招いた結果、先輩の優しさに救われたという証拠だったとしても、先輩が笑顔でいるという事は、やはり嬉しかった。
ナインはその写真を見ると、小さく微笑んだ後で俺の肩に体を預けた。
「あの自分勝手なバカを、またいつか助けに行こう。例え変身できなくたって、何か方法はある。方法が無くたって、諦める理由になりはしない」
嘯くナインに苦笑いしながら、俺は彼女の肩を抱いた。
「そうだな、それも良いな。過程はどうあれ、一度やるって決めたことは貫き通すのが正義の味方だもんな」
それが現実的には不可能な、ただの虚勢なのは重々承知だ。けれど、俺たちは正義の味方になるって、ただ、そう決めたんだ。

第四十一話

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