第一章/月いよいよ明なり

常世市、雪歌町。時は冬、所は常世駅。夜行列車が一両、止まっていた。
積もる雪の上、足跡が残る。少年と少女の二人組だった。
「…えらく冷えるな。昔もこんなだったか?」
吐く息すら、白く霧散。光永一正は、古い故郷に帰ってきた。
「あまり覚えていないけど、そうだったんじゃないの?」
双子の妹、清美は凍える両手に息を吐く。淡い月の光が、二人を照らす。
「ま、とにかく伯母さんの所行こうぜ。今日はもう寝たい」
妹の手を引き、歩き出す一正。そのポケットから、翡翠色に鈍く煌めく勾玉のキーホルダーが零れ落ちた。
「お兄ちゃん、大事な物なんじゃないの?」
拾い、手渡してくれた清美に頭を下げる。何故かは覚えていないけれど、とても気に入っている一品だ。所々汚れてはいるが、その全体的な美しさは変わらない。それを握り締め、ポケットに突っ込んだ。
「さ、行くぞ清美」
照れ隠しに力強く言うと、一正はまた歩き始めた。

―――光永一正、十七歳、男。
   体力、学力、共に大して良くはない。
   特徴といえそうなものは、その左手の甲に刻まれた、手の甲半分程度の傷跡。
   何時、何故、そこに出来たかは覚えていない。

白く染まり、寒い町を二人は歩く。冷たい月光が二人を濡らすが、街に灯は無かった。
「清美、寒くないか?お前、体弱いんだから」
心配性でシスコンのきらいさえ有りそうな兄に、清美は微笑みで応える。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんこそ、寒くないの?」
「ああ、俺、我慢する事には自信あるから」
くすくすと目を細めて笑う清美を見ながら、一正は空を見上げた。白く浮かぶ、月だけがあった。妹との、平和な一時。親が交通事故で死んで、伯母に引き取られる事になった事を除けば。
「お、見えてきた。伯母さん、待ってるだろうな」
そして、二人は小走りになった。

温泉旅館、『十六夜』。
一正たちの伯母が経営する、小さな旅館。もっとも、こんな寂れた地方都市には観光資源も無く、客がつく事はそう無いらしい。
「こんばんは、叔母さん。お世話になります」
「いらっしゃい、一正君、清美ちゃん。疲れたでしょう?」
ねぎらいの言葉を投げかける、着物の女性。一正の伯母、美樹原芳野である。
「いえ、俺は大丈夫です」
「ええ、私も疲れていませんから。心配しないで下さい」
答える二人に微笑を漏らし、芳野は二人を部屋に案内した。
「あっちにお風呂があるわ。まずは、旅の垢を落としていらっしゃいな」
二人はいそいそと鞄からタオルなどを取り出し、芳野に連れられて風呂場へ向かった。
「清美、俺、ゆっくり入るつもりだから。先に出るなら出といてくれ」
「うん、分かった」
そして、二人は男湯と女湯に分かれた。

「く〜、温泉は良いよな」
広々とした温泉につかり、左手の傷跡も消えていきそうな充足感に見舞われる。
「風呂は良い、日本の文化が生み出した芸術の極みだ」
謎の独り言をもらしながら広い湯船を泳ぐ。当然の事だが、風呂場の壁には『湯船で泳がないで下さい』とある。しかし、彼はそんな事に注意は払わなかった。やるなと言われれば余計やりたくなるのが人情なのである。
「たしか、露天風呂も有ったよな。五年前は確か…」
ガラス戸を見つけ、外を見る。雪。一面の、雪。
「…やめよ、寒そうだ」
一人呟き、一正はぼんやりと天井を見上げた。五年前、この町で生きていた時の記憶を回帰させる。
いつも一緒に遊んでいた幼馴染。明日から通う学校に居るのだろうか?
名前は確か…フユコ、ハフリ、アリス、セツカ…それと、キヨミにカズマサ。
…カズマサ?それは、俺の名前だろうが。
一正は苦笑すると、湯を掬って顔をたたいた。どうでもいい、そんな事は。どうせ、明日になれば分かる事だ。タオルを手に取り、一正は湯船から出る。纏わりつく湯気を払う様に、身体を拭いた。
ドライヤーで髪を乾かしながら、鏡に映る自分の顔を見る。かなり平凡で特徴の無い顔と身体がそこにあった。
「なんか、つくづく一般的な男だよな、俺って…」
風呂場の天井から一滴、水滴が湯船に落ちた。

部屋に帰ると、清美は自分の鞄を隣の部屋に運んでいるところだった。
「お兄ちゃん、伯母さんがもう一部屋空けてくれたの。お兄ちゃんはこっちの部屋で良いよね?」
「ああ、構わない。俺はもう寝るけど、清美も早く寝ろよ?明日から学校なんだから」
清美は微笑み、言った。
「うん、分かってるよ。お休み、お兄ちゃん」
一正は片手を挙げてそれに応えると、自分にあてがわれた部屋の中に入っていった。

そして、
夢に、
堕ちていく。

「(泣き声)」
セツカ?
「(泣き声)」
セツカ、何で泣いてるんだ?
「だって、死んじゃったもの」
死んだって、誰が?
「…カズマサが」
…え?
「(泣き声)」
セツ…カ…?
「(泣き声)」
セツカ、おい、セツカ!
「カズマサが、死んじゃったもの…」
目の前には、一つの墓石。
それには、「KAZUMASA」と彫られていた。

「うわあああっ!」
自分の叫び声で目が醒めた。汗でぐっしょりと濡れたパジャマが気持ち悪い。
「畜生、なんて嫌な夢だ…」
カズマサの墓?冗談じゃない。一正は生きているって言うのに。不吉な夢だ。第一、何故セツカなんだ?せめて清美が出てくるべきだろう、俺の墓参りなのならば。
まだ夜明けだって言うのに、目が冴えて眠れなくなった。
一正は不平をぶつぶつ呟きながら、閉めていた障子を開け放った。
一面の白。眼の眩みそうな、冬が支配する世界。そんな中に、一点の黒が在った。
否、在った、ではなく、居た、だ。黒い長髪の、美しい少女が。白い肌の上、紅色の唇。切れ長の瞳は、潤んだ様な暗さを醸し出していた。一見彫像めいたその美しさは、一正の心と目を奪うには、十分すぎるものだった。
「おはよう、一正君。久しぶり」
澄んだ声、優しげで静かな微笑。少女は白いマフラーとコートに包まれ、雪女の様な妖しささえも見せていた。
「えっと…その…」
口篭る一正に、少女は笑った。
「あれ、忘れた?私、宮下雪歌よ」
くすりと笑いかける雪歌。その笑い方が、一正の古い記憶を刺激した。
「雪歌…?お前、何でここに?」
「朝の散歩。楽しいわよ、一正君も一緒にどう?」
一正はしばし考える。先ほどの夢の事もあり、何か嫌な予感はした。けれど、その誘いを断るには、あまりに彼女は美しすぎた。
「わかった、俺も行く。少し待っててくれ」
障子を閉め、奥に去った一正に向けて、雪歌はそっと呟いた。
「ええ、待っていてあげる。今までも、今も、これからだって…」
雪歌は笑う。
優しく、美しく、そして何よりも切なく。
宮下雪歌、十六の冬のことだった。

「うわ、寒いな」
「冬だから、当然でしょう?」
一正と雪歌の二人は、ゆっくりと街を歩いていた。もっとも、昔住んでいたとは言えこの町には不案内な一正は、雪歌の後に付いて行っているだけなのだが。
「ねえ、この川覚えてる?夏はよくここで遊んだわね」
いかにも田舎、といった風情の小さな川。確かに夏は涼しくて楽しそうだが、冬の今はただ寒そうなだけだ。
「あまり覚えてないな。俺、この町に居たときの記憶がほとんど無いんだよ。何かショックな事でもあったらしくて、一種の自己防衛本能だって、精神科のお医者は言ってたけど。都合のいい、局地的な記憶喪失なんだってさ」
「…そう、それは残念ね…」
少しだけ淋しそうに目を伏せる雪歌。一正の心が、ちくりと痛む。左手の古傷さえ疼き始めた。ただ、雪歌と一緒に居るだけだと言うのに。
「あら、もうこんな時間。帰りましょう、一正君。朝食はまだなんでしょう?」
手首の内側にまいた腕時計を見て、雪歌が言った。女性らしい、細身のデザインだ。
「あ、ならまた学校でな」
雪歌に別れを告げ、『十六夜』に帰る。彼女と別れてから気づいた事だが、寒さは予想以上に一正の体力を奪っていた。
「あー、やば、腹減った…朝飯食わないと、マジで死ぬかも…」
呟き、それによって空腹感はますます確かなものとなった。一正は自分の部屋まで帰りつくと、敷きっぱなしだった布団にぐったりと倒れこんだ。
「朝飯、まだでしょうか…親愛なる清美、お兄ちゃんはそろそろ逝きそうだよ…」
得体の知れない独り言。一正のダメージは案外深刻だった。やばい。本気と書いてマジでやばい。そんな折、一正に天使の声が聞こえた。
「お兄ちゃん、起きてる?朝ご飯だよ」
「…おう、せんきゅうべりまっち…」
一正はずりずりと布団から這い出て食卓に向かうと、眼にも止まらぬ速さで朝食をかき込み始めた。
「は…速い…」
清美は驚きつつも、兄の差し出した茶碗にお代わりを入れてあげるのだった。
「伯母さんは仕事があるから、先に食べててって言ってたよ」
焼き魚を解しながら話す清美。手先が余り器用ではないので、ちまちまとした動きでしかない。そんな妹に構う素振りも無く、一正は適当に返事をしながらがっついていた。喉に卵焼きが詰まる。
「ほらお兄ちゃん、急いだら危ないよ?」
お茶を差し出す妹を、将来いい嫁になる、と思う一正であった。

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