第七章/前略――オメデトウ。

願わくは、この先の物語を読むのは八月にして戴きたい。
遠くから盆踊りの音がそっと耳朶に響いた時。そっと、その続きを知って欲しい。

そして、出来るならば。
グラス一杯の酒を、そこに用意して貰いたい。
呑みながら読んでも良い。
読み終えて一気に呷っても良い。
けれど、絶対に忘れないで欲しい。
宮下雪歌という少女を。
彼女の見た夢を。
彼女の望んだ未来を。
彼女が拒んだ世界を。
彼女が居た事を。

宮下雪歌、享年十六歳。
彼女は、氷で出来ていた。
底の無い優しさと。
限り無い憎しみと。
狂おしい悲しみと。
頼もしい愛しさで。

人は二度死ぬという。
一回目は、肉体の死。
二回目は記憶からの死。
同じ人を、俺は二度も殺したくは無い。
だから、俺は。せめて死ぬまで、雪歌を愛し続けよう。

―――Curtain rises, again.



蝉の声が五月蝿い、そんな夏の夕暮れの事だった。


俺は一人、あいつの墓の裏にある山に来ていた。生い茂る樹木が、俺の上に冷たい影を落とす。俯いた俺の表情は、自分でも驚く位凍り付いていた。
今日は祝の神社で夏祭りだが、そんな気分じゃなかった。あの日から既に半年以上が経過していたが、俺はあの日から完全に凍り付いたままだった。
適当な樹を見つけ、その下に座り込む。首から下げた二つの勾玉がぶつかりあって、澄んだ音を響かせた。
「…馬鹿…」
呟く俺の後方、土を踏みしめる音がした。
「ねえ、一正君。横、良いかしら?」
最低だな、俺。
幻まで見るなんて。都合の良い空想で、自分自身を慰めようなんて。虫が良すぎる、虫唾が走る。だが、答えも聞かず、あいつは俺の隣に座った。その白いワンピースと、白い帽子が眩しかった。
「…尻、汚れるぞ」
俺はポケットからハンカチを取り出し、あいつに渡した。あいつはそれを地面に広げると、その上に座って、言った。
「優しいのね、一正君は。でも、大丈夫。だって私は、一正君の見る幻なのでしょう?」
幻のくせに、夢のくせに、あいつは美しく微笑んだ。
「ねえ一正君。皆は元気?」
「…ああ、元気さ。少なくとも、お前よりは」
あいつは目を細めて笑うと、そう、よかった。なんて、のんびりと言った。
「幻のくせに、あいつと同じ顔で笑うな。消えてくれ」
出来るだけあいつの顔を見ないように言う。もしあいつの顔をはっきりと見てしまったら、俺は涙を堪える自信が無かった。
「あら、心外ね。この身が例え幻だったとしても、私の意志くらいは尊重してくれても良いと思わない?」
ふふ、とからかう様な笑い声を上げる。それは幻と思えない程の愛しさでありながら、やはり、どこか不出来な幻でしかなかった。
「―――ねえ、少し呑まない?」
突然、予想だにしなかった誘いを受ける。目の前に差し出される、氷のように冷ややかなクリスタルガラスのグラス。
「何言ってる。お前は関係無くても、俺は未成年なんだ」
「あら、幻なんでしょう?なら、一正君にも関係無いわ」
俺は深い溜息をつく。そして、グラスを受け取った。
「注いであげる。零さないように、ね」
とくとくと注がれる、澄み切った透明の日本酒。俺は瓶を取ると、あいつのグラスにも注いでやった。
「ありがとう、一正君」
俺の持つグラスに、あいつがグラスをぶつけてくる。カチン、と鈴の音にも似た響きがし、そしてそのまま夏の風に溶けていく。
俺は、一息に酒を呷った。
「…不味い、酒だな」
喉を灼く様な、強い酒だった。涙が出そうな程、悲しい味の酒だった。
「あら、美味しくなかった?ごめんなさい、私はこの位が好みなんだけど」
あいつはゆっくりと、ひどく悩ましげにグラスを傾ける。小刻みに動く喉が、煽情的な程の官能を見せ付けていた。
「ねえ、一正君。私が居なくなって―――どう、思った?」
「一言で済む。ただ、虚しかっただけだ」
当然だろう。愛した人が、目の前で殺されたのだから。
「そう…良かった」
あいつは俺から目を背ける様に言った。その横顔は、あの日の小刀にも似た鋭利さで俺の胸に突き刺さる。
「安心しろ。お前の企みは、一から十まで…全部、上手くいったよ」
「ありがとう、一正君」
さっきも聞いた台詞を、壊れたレコードの様に繰り返す。俺のグラスに酒を注ぐと、あいつは木々の隙間から僅かに見える空を眺めて、こう言った。
「冬子は、どうしてる?一正君の彼女になれた?」
俺は頭を横に振って応える。手にしたグラスに映る、歪んだ笑みがリアルだった。
「冬子も俺も、独り身だよ。俺は、お前以外―――」
言いかけた言葉を飲み込み、歯噛みする。
俺は、何を、言っている。
幻のくせに、夢のくせに…俺に、あいつと混同させるな。
身勝手な妄想で許しを請おうなんて、俺はなんて愚かなんだ。
「私以外―――何?」
あいつの幻は、悪戯っぽい笑みを浮かべて俺に迫る。
「…消えろよ、幻のくせに」
「私の幻を見ているのは、一正君でしょう?」
幻でも、あいつは俺より一枚上手だった。俺は観念すると、一旦飲み込んだ言葉を吐き出した。
「俺は、お前以外は愛さない」
「…嬉しい事を言うのね、一正君は」
ああ、なんて出来の悪い幻なんだ。あいつは、こんな嬉しそうな表情を浮かべる奴じゃなかったのに。
そしてあいつは、こんな事を言う奴では、断じて無かった。
「私も、愛してる」
優しさと冷たさと寂しさとの入り混じった、複雑な表情。
「ただそれは、私だけじゃなく…冬子も、きっと。ああ、清美さんはどうなの?」
あいつに、一人一人の今を尋ねられる。
一人一人の今に、あいつは一つ一つ笑ったり、悲しんだりした。

「じゃあ、最後に」
あいつの幻は立ち上がり、俺を見下ろして尋ねた。
「私の事、愛してくれた?」
「―――過去形じゃなく現在形…いや、現在進行形でなら、愛している。当然の事を聞くなよ、雪歌」
あいつは力無く笑った、様に見えた。
視界が、だんだん霞んでいく。
「そう…良かった」
あいつはくるりと後ろを向くと、あいつらしい歩調で歩き出した。
あいつの背中が、小さくなる。
指の間から零れる砂の様に、あいつはまた居なくなる。
「行かないでくれ…」
それだけ、喉から絞り出す。
あいつは、立ち止まった。
「私は、幻なんでしょう?幻は、消えるものよ」
振り返らず、あいつは冷たく押し殺した、震える声でそう言った。
「行かないでくれ…」
積み上げた砂の城を浚う波に両手を広げて。
「さようなら、一正君。愛しています。これからも、ずっと…」
あいつはそれだけ言い残し、夜の迫る夕闇の中に溶けた。
「行かないでくれ、雪歌…」
必死に抑えてきた涙が、頬を濡らす。不鮮明な視界の中、かすかに光る物があった。
「雪歌…」
握り締めた光は、立った二つの勾玉で。
それはユメの様な、アイの終わり。
俺は、無言で慟哭した。


何という事は無い、全ては夢か幻だ。
俺は立ち上がり、十字の傷が刻まれた左手の甲で涙を拭った。夏祭りに、行こう。 視界の隅、瓶と二つのグラスが寄り添う様に残されていた。

―――Curtain falls.

第六章:2

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