第六章:2

やはり雪歌は、そこに居た。
首から下げた朱の勾玉を握り締め、和政の為に祈っている。泣いている様にも見えた。
「…一正君。来て、くれたのね」
すっくと立ち上がり、一正を見てその儚げな微笑みを漏らす。手の甲で目尻を拭っていたから、雪歌は本当に泣いていたのかも知れない。
「兄さん…和政の事、思い出してくれたのね?」
残酷な天使にも似た笑みで、冷たい聖女は罪人にその咎の是非を尋ねる。氷の様な憎悪が、二人の間の空気を凍らせる。
「ねえ、一正君。思い出したなら、私が怖くは無いの?」
例えば、私が一正君を殺すかも知れない…そうは、思わなかったの?雪歌は重ねて問う。
「ああ、思ったよ。けど…雪歌になら、殺されたって良い。そう、思えた」
一正は雪歌の目を見据える。思ったよりすんなりと、その言葉を口にする事が出来た。
「俺を殺したいか、雪歌」
「…私には、一正君を憎む理由も、その権利も、十分にある」
雪歌の足元、墓石が鈍く光った気がした。
「けれど、殺さない。嘘じゃ無いわよ、だって…一正君を殺したところで、和政は生き返らない。それにね、私が一正君を殺したい程憎んでいるとして、一正君を殺した程度では、私の気が済まないわ。だから、安心して良いわよ、一正君」
頭を力一杯殴りつけられたかの様なショックだった。一瞬、雪歌が何を言ったのかが理解出来なくなる。身体から力が抜けていくのが、よく分かる。それの支えになろうとしたつもりでは無いだろうが…雪歌はそっと、一正の手を握った。
「一正君、殺さないから。だから…だから、私を信じて」
手を握る雪歌の力は思ったよりずっと弱々しくて。
掌に舞い降りた一片の淡雪を髣髴とさせる程に儚くて、それでいて、温かかった。
「雪歌…」
雪歌はそっとその瞳を閉じ、少年の胸に顔を埋めた。案外、小さな身体だった。
雪歌が一正の背に手を回し、精一杯の力で抱き締める。一正も同様に、雪歌を抱いた。
「一正君…信じて、くれるの?」
潤んだ瞳、濡れた様に艶やかな唇。ぞっとする程の暗黒を纏った少女が、少年の腕の中に居た。
「雪歌…疑って、悪かった。俺、雪歌の事信じてやれなくて…」
「いいのよ、一正君。説明して、最初に誤解を解いておけば良かったのだけれど…下手な説明で、余計に疑われるのが嫌だったの」
いやいやをする幼子の様に、頭を振る雪歌。
一正は、そんな雪歌を心の底から愛しく思った。遅まきながら、この境地に至って終に、一正は己が恋心をはっきりと自覚した。麗らかな今日の日差しが自分達の上に降り注ぎ、祝福してくれる。そう疑い無く思える程に、一正は雪歌への想いに胸を焦がしていた。

雪歌に覆い被さるかの様に、一正は彼女を抱いていた。
首の後ろが、チクリと痛む。
鋭く冷たい何かが、首筋にまっすぐ押し当てられていた。
「何だ、雪歌」
一正は雪歌を抱く両の腕を緩めもせず、強く強く抱き締めたまま言った。
「お前、やっぱり俺を殺したいんじゃないか」
目の前には、人形の様に凍りついた雪歌の顔。鋭く澄んだ、迷いの欠片も無い瞳は、上等のビスクドールを思わせた。
「驚いたわ。抵抗しないのね、一正君」
「もう少し、雪歌を抱き締めていたいからな」
心から、そう言えた。雪歌は珍しい動物でも見る様に一正の顔を見上げ…口の端を、軽く歪めた。
「ねえ、最後に一つだけ質問しても良いかしら?」
「ああ。何だ、雪歌」
一正は優しく尋ねる。雪歌は一瞬の空白の後、ゆっくりと言った。紅い唇が、白い肌の上を舞う。

「私の事、愛してくれた?」

「過去形じゃなく現在形…いや、現在進行形でなら、愛している。当然の事を聞くなよ、雪歌」
雪歌は力無く笑い、あからさまな嘲笑と共に言い放った。
「そう、良かった…私は、一正君が、大嫌いよ」

古傷と交差し十字を成す様に、左手の甲を冷たい何かが通り過ぎる。一瞬の冷たさの後、燃える様な熱がこみ上げてきた。それが小刀で斬りつけられた痛みと気付いたのは、雪歌に突き飛ばされてからだった。
不意を突かれてバランスを崩した俺は、雪原の上に尻餅をついた。そして、次の攻撃に備えて身構えた俺の視界に飛び込んで来たのは…
自らの胸を手にした小刀で貫いた、愛しい雪歌の姿だった。
「え―――」
鮮血が、雪歌の胸を朱に染める。
「せ、雪歌ぁっ!」
俺が雪歌に駆け寄るよりも早く、彼女の腕が地面に落ちた。
「雪歌!雪歌っ!」
雪歌を抱き上げる。胸に刺さったその小刀は何処か、聳え立つ墓標に似ていた。
思ったよりも軽くて、それこそ雪の様な儚さだった。
けれど、その身体からは今も尚、どくどくと…無限に続くかの様に、雪歌の胸からは大量の血が溢れ出していた。

三十六度の冷たい水が、雪歌の身体から流れ出す。
まるで、消え往く命の灯火の様に。

「ふふ…ふふふ……ふふふふ…」
雪歌は笑っている。もう、何も訳が分からなかった。
「雪歌、何故、何故っ…!」
「言ったでしょう、一正君…貴方を殺した程度では、私の気が済まないって…」
「だからって、何故お前が死ぬ必要があるんだっ…」
雪歌は忌々しそうに、そして軽蔑しきった瞳で俺を見る。
「分からないの、一正君…?私と、あの日の私と、同じ目に逢わせたかったのよ…」
「な…に…?」
「気分はどう、一正君…最愛の人が、目の前で殺される気分は…」
終に、雪歌は血を吐いた。べっとりとした血液が、俺の顔に身体に、満遍無く降り注ぐ。雪歌の血塗れの口が、にやりと大きく横に裂けた。
「雪歌、お前…真逆…そんな…」
「辛いでしょう…悲しいでしょう…悔しいでしょう…ふふ、一正君も苦しめば良いのよ…」
ごぼごぼと、泡立った血が雪歌の美しい顔を汚していく。
「あの時、私がどんな思いだったか…一正君も、思い知れば良い…」
俺は目の前が真っ暗になった。
血塗れの俺の左手。和政の思い出となった、俺の傷跡。それと直交する新たな傷は、雪歌の思い出になってしまうのか。
最愛の雪歌の胸は、あの時以上に朱く美しい。
「どうやって…一正君に恨みを晴らすか、ずっと考えていたのよ…」
「雪歌…馬鹿…雪歌、雪歌っ…」
「どうやら…私の復讐は、成功したみたいね…」
雪歌は勝ち誇った様に笑った。
笑ったまま、俺を睨んだ。
そして雪歌は大きく息を吸い、今一度吐血すると…
「さよなら、一正君。愛…して…る…」
それきり、雪歌は動かなくなった。
「雪―――」
俺はついさっきまで雪歌だった、今や物言わぬ肉の塊を抱き締め、無言で慟哭した。

(第六章/終劇)

第六章:1     第七章

戻る