◆問題編A


その日は文化祭前日だった。
多くの部活は各自の展示や模擬店の準備を完全に終え、最終調整、もしくはクラスごとに行う合唱の練習や学年での展示などの準備に取り掛かっていた。が、あくまでもそれは多くの部活で、の話。学報部(文芸部のような物と考えてよい)の面々は、今年はコスプレ喫茶“華笛”という模擬店を行う事になっているのだが…その準備は、まだ完全とは言い難いものがあった。数人で数時間も作業すればどうにかなる程度だったが、それでも学報部の面々は喫茶に使われる教室に朝早くから集まっていた。

「この赤の袋がレイチェルの、青い袋がヴェイチェルの衣装。司の衣装はこっちの緑の袋だから。ごめんね、私のこだわりのせいで衣装の完成が遅れちゃって」
山名さくらは頭を下げる。今回のコスプレ喫茶、陰の功労者と言えるのがこのさくらだった。元々裁縫が得意という事もあり、部員の衣装は全てこのさくらの手製。細かい細工にちょっとしたこだわりがあった為に三人分は完成が遅れたものの、短期間で部員七人分の衣装を完成させた手腕は称賛に値する。
「いやいや、構わないって。それより、私はヴェイチェルがどんな風になるのかが早く見たいな!ねぇねぇ、さっそく着て見せてよ!」
目をキラキラと輝かせながら、小原レイチェルはヴェイチェルに迫る。ヴェイチェルはやや引きつった笑顔で姉を制しながらも、子供の様にはしゃぐその姿に微笑ましさを感じていた。
「後で、後でちゃんと見せてあげるから。それにほら、更衣室で着替えないと。いくらクラブの仲間だって言っても、みんなの前で脱ぐとかは出来ないよ」
約束だよ、絶対だからね、嘘吐き拳万針千本だからね、と鼻息荒く詰め寄るレイチェルに辟易するヴェイチェルは、ふと疑問を抱いた。
「あれ、六条君…光永君は?部長なのに、まだ来てないの?」
「ああ、少なくとも僕が来た時にはまだだったと思う。靴箱に一正の上履きが入ったままだったからね」
副部長、六条司が答える。クラスも違う、しかも男の靴箱を毎朝チェックするのは変態的な気がしないでもないが、彼は部長である光永一正とは小学校時代からの親友であり、日常的にマンガやゲームを貸し借りする仲だった。親友がすでに学校に来ているかどうかチェックするのはまあ、許される範囲内だろう。
「あー、やっぱ一正まだなの?せっかく新作のデッキ作ったから、作業とかするまでに一勝負したかったんだけどな」
トレーディングカードの束をチェックしながら呟くのは酒木秀人。秀人は「アクエリアンシルバー」というカードゲームをやっており、部室でもよく対戦したりデッキを組んだりと遊んでいた。秀人いわく『美少女を洗脳して殴り合わせるゲーム』であり、「祝☆儀☆王」や「Medic : The Gathering」に比べて圧倒的にマイナーなカードゲームなのだが、その反面コアなファンは多く、学報部では秀人、司、そして一正がプレイヤーだった。
「朝ちゃんは一正見てないか?」
水を向けられ、一人だけ一年生の泉野朝はいいえ、と短く答えた。
「けれど、昨日の今日で風邪をひいたとも考えられませんし…ちょっと遅れているだけじゃないですか?」
そう朝が言い終わったかどうか。教室の扉が勢い良く開かれ、満面の笑みを浮かべた光永一正が飛び込んできた。どうやらここまで走って来たらしく、肩が激しく上下している。
「遅いぞ、一正…それにしてもどうしたんだ、その笑顔。何か嬉しい事でもあったか?」
呆れ顔の司に、一正は異常なほど元気に親指を立てた。
「嬉しい事も何も、これ見てくれよ、これ!昨日買ったら当たったんだよ!」
ごそごそとカバンをあさり、差し出されたのは一枚のカード。よほど大切にしたいのか、スリーブで厳重に保護されている。
「はいはい、アクエリアンシルバーのレアカードか?いったい何が…おい、一正!これ本物か、コピーとかじゃないのか!?」
いきなり動揺する司に興味をひかれたのか、秀人が司の持つカードを見る。そして、司と同様に身も世も無く慌て始めた。
「マジかよ、写真撮っていいか!?まさか、本物にお目にかかれる日が来るなんて!」
いきなり恐慌状態に陥った男三人組に困惑しつつ、さくらは司の持つカードを取り上げた。トレーディングカードである以上、大きさはテレホンカード程度、スリーブに入っているとは言っても、知らない人間からすればただのカードにすぎない。ホロ加工がキラキラ光って綺麗だな、とは思ったが、何故こんなにも大騒ぎするのか。さくらには、その理由が一切分からなかった。
「ねえ一正、これ、そんなに珍しいカードなの?」
「ああ、山名はアクシル(略称)やらないから知らないか。この『エンジェルアドヴァイズ“高島ざくろ”』って、ものすごいレアカードでな。オークションなんかじゃ十万単位で取引されたりするカードなんだ。まあ、売るつもりなんてこれっぽっちも無いけどな」
「十万!?」
素っ頓狂な声をあげ、さくらは手元のカードを眺めた。ルール自体よく知らないので、書いてあるテキストの意味は一切分からない。ただ、書いてある単語の意味を知らずとも諭吉さんは一万円札。単なる紙切れにしか見えずとも、さくらは『エンジェルアドヴァイズ“高島ざくろ”』を恭しく一正に返した。
「いやあ、カード一枚で十万円も稼げるなんて…すごいね、このゲーム。私も買って転売して、儲けられないかな?ヴェイチェル、今月のお小遣い、どれだけ残ってる?」
「レイチェル、転売はやめた方がいいぞ。高値で取引されるカードもあるけど、それを手に入れるためにかかる金の方が絶対多い。俺だって小遣いをつぎ込みまくって…えっと、ここ2年はバイトの給料の半分くらいアクシル買ってたから…三十万くらいは使ったと思う。で、今持ってるレアカード全部売って、上手くいっても二十万なるかならないか、って所だぜ?」
一正は自虐的な笑みを漏らす。往々にして趣味人にはよくある事だが、コレクション性を持つ類の趣味で使った金の多さは、振り返るまで気にならないものなのだ。そして振り返った瞬間、その金額に驚くのもよくある事。

「…部長、カードの話も良いんですけど、そろそろ仕事にかからないと。もう8時前ですよ?」
「ああ、悪いな泉野」
カード一枚をあたかもトップアイドルであるかのように下へも置かぬ扱いで崇め奉っていた三人組を正気に戻したのは、朝の一言だった。一正は左手の腕時計をみると、確かに8時前。そろそろ作業にかかるべき時間だった。
「ん、じゃあまずは役割分担な。レイチェルとヴェイチェルの衣装は…ああ、もう出来てるな、OK。お前たちは衣装合わせして、何か不都合があったらさくらに言って直してもらってくれ。さくらは二人の着付け、頼めるな?司と秀人は俺と一緒に印刷室まで頼んでた喫茶の宣伝ポスター取りに行って、その後はポスター貼りに行こう。司と秀人も時間見つけて、ちゃんと衣装合わせもやっとけよ。泉野は…一人で出来る作業は特に無いな、クラスの展示とか他のクラブの友達手伝うとか、やる事あったら、そっち行ってくれていいぞ」
てきぱきと指示を出す一正だったが、司は少し困った顔で右手を挙げた。
「一正、悪い。僕と秀人はクラスの合唱、その練習が8時5分からなんだ。10分もしないと思うんだが、ポスターを取りに行くのには付き合えないな」
「なら、私が部長と一緒にポスターを取りに行きましょうか?私は特に、これといった用事もありませんし」
「それなら泉野は俺と一緒にポスター取りに行こう。じゃ、いったん解散。9時くらいにもう一回集合って事で、よろしく!」


ヴェイチェルはレイチェル、さくらと一緒に更衣室へ向かった。その胸には衣装が入った青い袋がしっかりと抱えられていた。本当は一人で着替えられれば良いのだが、細かい部分のチェックも含めてさくらが着替えさせると言いだした。幼い頃から姉に等身大着せ替え人形として遊ばれてきた経験から、他人に服を着替えさせられたり衣装を披露したりするのは苦手とするヴェイチェルなのだが、クラブの企画とあっては仕方がない。
「ところでレイチェル、ちょっと質問なんだけど。一緒に更衣室に入るなんて、言わないよね?いくらお姉ちゃんでも、着替えをじろじろ見られたら恥ずかしいし」
「むう、にべもなく拒否するとは残念至極、地獄の鬼も赤子に見える所業…と言いたい所だけど、我慢する。その代わり、更衣室前で待たせてもらうからね!」
まあその辺で妥協しておこう。ヴェイチェルは曖昧に笑うと、更衣室の外にレイチェルを残し、さくらと一緒に更衣室へ入った。
「じゃ、とりあえず脱いで…あー、やっぱヴェイチェル、ムカつくくらいに肌綺麗よね…石鹸とか、何使ってるの?」
「ヴェイチェルの使ってる石鹸?私と一緒で、牛乳石鹸だよ」
「それでこれ!?なんなの、やっぱり肌の白さではイエローモンキーはアメリカ人に勝てない仕様なの?」
「いや、アメリカ人なのは半分だよ。私たちはハーフなんだから…」
などとかしましく会話しながら、ヴェイチェルはさくらの手によって着替えさせられていく。ついでに慣れない化粧も施され、更衣室から出たのは8時15分だった。
「は…ハラショー!ハラショー!」
ロシア語で雄叫びを上げる姉にビビりながらも、ヴェイチェルはくるりと一回転。フリルの多いスカートがふわりと持ち上がり、ウィッグの毛先が風になびく。
「ヴェイチェル良いよ、それ、すっごく可愛い!」
今にも鼻血を吹きだしそうなほどに興奮し、目をキラキラと輝かせてレイチェルはヴェイチェルを抱きしめた。
「お、ここにいたか」
振り向けば、そこには紙袋にビームサーベルを大量に詰め込んだ一正と朝。一正や司が描いた萌えキャラの顔が覗いている所を見るに、印刷室へと取りに行ったポスターらしい。
「いやあ、参った参った。印刷室が他のクラブでもごった返しててさ、ポスター受け取るだけで今までかかったよ。で、さくら。悪いんだけど、ポスター貼りに行くの手伝ってくれないか?司と秀人はいつ帰って来るか分からないし、ヴェイチェルはその格好でウロウロして衣装を汚したら困るだろ?」
拝むように手を合わせながら、一正はさくらにだけ聞こえる声で囁いた。
「レイチェルは今、ヴェイチェルから離れてくれそうにないしさ…」
さくらが双子の方を見ると、レイチェルはヴェイチェルに激しく頬ずりをしていた。どうやら人類初の頬ずりによる発火実験でも行うつもりらしく、離れる気配は一切ない。
「おっけ、分かった。でも10分か15分しか無理だよ、8時半くらいから私とレイチェルはクラス展示のミーティングの予定だから」
「ありがとう、さくら。泉野、お前ももうちょっと手伝ってくれるか?」
「はい、部長。私は構いませんよ」
こうして一正、さくら、朝の三人は更衣室前から動こうとしない(動けない)双子をその場に残し、ポスターを貼りに出発した。

一正たちがその場を離れた直後。ミステリ研究会の和菓子屋“和寂”の横を通って“華笛”に戻ろうと、秀人は階段を上りかけていた。だが、一人で折りたたみ式の長机を半ば引きずるようにして運んでいる本山葵を見つけて立ち止まる。学年こそ違うものの、家が近所で家族ぐるみの付き合いがあったため、秀人にとって葵は妹のような存在だったからだ。
「おい、葵。どうした、その長机。手伝ってやろうか?」
「秀さんが手伝ってくれるならありがたいけど…そっちの、学報部の仕事は?」
「ちょっとくらい大丈夫だろ。副部長の司も『喉が渇いた』とか言って食堂にジュース飲みに行っちまうし、ヒラ部員の俺が少しくらい居なくなって問題ないさ。大体だな、妹分が苦労してるのを見過ごしちゃ、兄貴分として立つ瀬がないんだよ」
言うが早いか、秀人は葵の抱えていた長机の端を持ち上げる。そして葵を急かして階段を上りはじめた。
「これはミステリ研究会の所に持ってけば良いんだな?他に手伝える事があったら言えよ、お前、腕力無いんだから」
軽口をたたきながら、秀人は“和寂”に長机を運び込んだ。そして、その内装を見て絶句する。最低限の装飾はされているので一応体裁は整っているのだが…それでも非力な葵一人では荷が重かったのだろう。普段は教室として使われている場所のため、多くの机が教室の隅に残っていた。ある程度は和菓子を食べる机として使うだろうが、廊下に出さねばならない机もある。店内の装飾も材料が部屋の隅に置かれている所を見れば完全ではないのだろう。一つ小さなため息を漏らし、秀人は“和寂”の机を廊下に出し始めた。

秀人が何の考えも無く机を出したせいか、廊下には通行に支障は無いが見通すには支障がある、そんな程度にバリケードが完成していた。そのバリケードを黙々と増築し続ける秀人に、姉と一緒に通りかかったヴェイチェルは声をかけた。
「酒木君。どうしたの、ここミステリ研でしょ?」
その問いに、秀人は中で装飾作業をしている葵を顎で指した。
「あの子は…確か、酒木君の幼馴染の子だったっけ。その手伝い?」
「ああ。それより、お前たちはどこ行くんだ?」
「ちょっと校舎裏に。お姉ちゃんが山名さんとクラスの用事に行くから、その間に明日やるショーの練習をね?9時には“華笛”に戻るから、皆にもそう伝えといてくれると嬉しいな」
「私は今ヴェイチェルが言ったように、さくらとクラス展示のミーティング。その後で衣装合わせするけど、私も9時には戻るよ」
階段を下りていく双子を見送ってから、秀人は腕をぐるぐると回し、自分の肩と腰を拳で叩いた。趣味がカードゲームである事からも分かる通りに彼は根っからのインドア派であり、体育の成績は良くない。それでも机を運ぶくらいは楽勝だと高を括っていたのだが、慣れない運動で疲れてしまった。いったん作業を中断する上手い口実は無いだろうか?そう考えながらも次の机を運ぼうと、秀人は“和寂”の中へ戻った。
「秀さん、さっき話してたあの綺麗な人、誰?」
じとっとした目で尋ねる葵から、ただならぬ威圧感。秀人は掌にじわりと浮かんだ汗をズボンで拭って平静を装い、それでも葵と直接目を合わせる事に怯えながら机に手をかけた。
「誰って、葵も知ってるだろ。学報部の小原だよ」
「違うよ、レイチェルさんなら見ればわかる。レイチェルさんじゃない方を聞いてるの」
「ああ、あれはヴェイチェル」
「嘘だね。ヴェイチェルさんはあんなに胸大きくないもん」
即答だった。必要以上に早く成長期が終わり、胸がさりげない葵。彼女はそのコンプレックスを原動力に、胸の大きさで他人を識別できるという特殊なスキルを習得しているのだった。
「思春期中学生男子じゃあるまいし、胸で他人を見分けるのはやめろ。それに、あれは正真正銘ヴェイチェルだよ。胸に詰め物でもしてたんだろう。衣装着てたから気付かなかったのか?」
「何、本当にヴェイチェルさんなの?全然分からなかった…衣装ってすごいね」
秀人はこれだ、と直感した。
「何なら俺の着る衣装も見てみるか?一正には衣装合わせもやっとけって言われてるし、一度は着てみないと駄目だからな」
こう言えば、次に葵は衣装を見たいと言う。長年の経験から秀人はそう確信し、事実その確信が裏切られる事は無かった。葵を連れて更衣室へと向かう事にした秀人がふと時計を見ると、針はちょうど8時半を指していた。

「さて、成海さん、赤城さん…私たちはここの…ミステリ研横の廊下でしたよね?」
文化祭実行委員、本条宮子は色セロハンと画用紙の束が詰まった段ボールを抱えた成海英雄に確認する。英雄は段ボールを床に下ろすとポケットから折りたたまれたプリントを取り出し、頷いた。
「ああ、俺たちの担当するステンドグラスはここの廊下を隅から隅まで、だな。赤城、ガムテープとカッター出してくれ」
「いや、そこはセロテープ。ガムテープは最後に使うんだよ。手順、聞いてなかったのか?」
道具の入ったビニール袋からカッターを出して英雄に渡しながら、赤城行人は作業手順を再確認して説明する。
こうして三人が廊下に陣取って作業を始めたのは、8時半の事だった。

「あれ、更衣室が開かない…」
秀人は力任せにガタガタと扉を引くが、びくともしない。当然の事ながら更衣室はカーテンが閉め切られている為、中の様子を確認する事は出来ない。秀人の衣装は先日さくらに渡されて以来更衣室に置きっぱなしになっているので、更衣室が使えない以上は葵に衣装を見せる事は諦めて“和寂”の作業に戻るほかない。正直言って少しは休憩しないとこれ以上机運びをするのは少し辛いが、辛いと素直に告白する事は、秀人の兄貴分としてのプライドが許さなかった。
「おーい、誰か入ってるのか?ちょっと開けてくれよ、着替えたいんだけど」
扉をノック、中に居るであろう誰かに声をかける。
「その声、秀人か?えっと、こっちがインナーでこれはジャケット…」
「司か。何だ、着替え中か?」
「ああ。衣装のチェックをしてもう一度制服に着替えるまで、少し待ってくれないかな。5分か10分、長くても15分あれば終わるよ。衣装がごてごてしててね、下手に動くと破ったりしそうで怖いんだ」
いつの間にか食堂から戻って来ていたらしい司。仕方ないな、と秀人は廊下に腰を下ろした。葵は壁にもたれると、ポケットから携帯電話を取り出した。
「どうした葵、メールか?」
「んー、秀さんのコスプレを写メで残しておこうかなって思ってさ。今朝見た時にバッテリー少なめだったから、まだ残ってるか確認…ああっ!」
ぶるる、と葵の手に断末魔の振動を残して彼女の携帯は完全に沈黙する。電源ボタンを押してみるが、うんともすんとも反応しない。完全な電池切れだった。
「ああもう、ここぞって時に!」
がっくりと肩を落とし、葵はそのままぺたんと床に座り込む。秀人は自分の携帯を取り出し、葵に見せた。
「俺の携帯、使うか?後でメールに添付して送ればいいだろ」
「いい。秀さんの携帯、旧型だもん。私のは秀さんのより良いカメラだから、それで撮りたかったのに…」
しょんぼりとうなだれる葵。その会話が聞こえていたのか、更衣室から司が声をかけた。
「秀人、その子の携帯、メーカーはどこだ?鏡セラだったら、僕が持ってる急速充電器が使えるはずだ」
葵は自分の携帯を調べ、顔を明るくして答えた。
「鏡セラ!」
「そうか、じゃあちょっと待っててくれるかな?鞄の中に入れてるんだ、着替え終わったら貸してあげるから」
ありがとう、と葵は見えない司に頭を下げる。秀人は途端に元気を取り戻した葵を眺めながら、帰りに家電量販店へ寄って急速充電器を買おうと考えるのだった。そこへ、一正が姿を現した。
「なあ秀人、司がどこに居るか知らないか?」
「僕なら更衣室の中だよ、一正。どうした、何か用事か?」
「ああ、そこか。いや何、実行委員に言われてたんだが、各クラブの部長と副部長は最後の確認をするから、50分までに会議室に集合だっての伝えてなかったなって。連絡事項だけらしいから、10分かそこらで終わるみたいだけど…まあとにかく来てくれよ」
腕時計を確認すると、現在時刻は8時40分。いつもギリギリで行動する親友に多少は腹を立てながらも、司は着替え終わった衣装を緑の袋に詰め込んだ。直接顔を合わせる前に締め切った扉の前で一度だけ肩を落として小さな溜息を漏らすと、司は普段と変わらぬ表情を作ってから鍵を開けた。
「秀人、お待たせ。更衣室、使うんだろ?それと、えーっと、秀人の後輩の…本山さん、だったかな。悪いけど、充電器は少し待ってもらえるかな。秀人が着替えている間に用事も終わるだろうし、それから渡すよ」
「ありがとうございます、六条先輩!」
クールな仕草で手を振りながら、司は一正と一緒に廊下を歩く。“和寂”の前に並べられた机の壁にその姿が消えるまで、秀人と葵は二人を見送った。
「じゃあ俺、着替えるよ。ただ、お前も一人で待ってるのは退屈だろ、着替え終わったら“和寂”まで行ってやるし、向こうで待ってて良いぜ?」
「あ、うん…秀さんがそう言うなら。じゃあ“和寂”で待ってるから」
ん、と短い返事を残し、秀人は更衣室へと入った。カチャ、と錠前の回る音が廊下に小さく響いた数秒後、秀人が上着を脱ぐ衣擦れの音が聞こえてきた。このままその音を楽しみたい、という欲望が鎌首をもたげないでもない葵だったが、さすがにそこまでやっては変態すぎる。後ろ髪を引かれながら、彼女は“和寂”へと戻った。

「葵、どこ行ってたの?」
“和寂”前の机の山。その一角を器用に切り崩して一人の人間がスッポリと収まるだけの空間を作り、そこに腰かけながら朝は級友に問いかけた。
「ちょっと更衣室前まで。秀さんが衣装を見せてくれるっていうから行ったんだけど、色々あって今着替えてるとこ。それより、朝はいつから、何でここに?」
「ついさっき、部長と別れてから。部長とポスター貼ったりしてる間に思い出したんだけど、ほら、ミステリ研って葵しかいないでしょう?少し手伝おうかな、と思って来たけれど…これだけ机を運び出している所を見るに、愛しの酒木先輩に手伝って貰ったのかな?」
くすくす、と含み笑いを漏らして朝は葵の表情を窺う。普段より確かに紅潮した己の頬を恥じながら、葵は小さく頷いた。
「私が手伝うと、葵が酒木先輩と過ごす時間が減っちゃうし…酒木先輩が来るまで、話でもしてようか?」
そんなんじゃない、と無意味な抵抗を続けながらも、葵は友人の気遣いに感謝しつつ世間話に花を咲かせ始めた。

「ったくもー、分かり切った事を一々と…うちの担任はアレだね、話が長すぎる!いま何時だと思っての、もう45分だよ!?」
虚空に鋭い拳を叩きこみながら、さくらが吠えた。クラス展示のミーティング自体に問題は無かったのだが、その後で始まった担任の注意事項が長引いた事に腹を立てているのだ。
「仕方ないよ、先生は先生で私たちの事を心配してくれてるんだから…」
レイチェルはそんな彼女をなだめながら階段を上る。その手にはずっと持ち歩いていた赤い袋。さくらが作った、ヴェイチェルとお揃いの衣装である。
「優しいねえ、レイチェルは…まあいいや、過ぎた事をうだうだ言っても意味無いしね。それより、レイチェルも衣装合わせしようか。ヴェイチェルとほとんど同じ服なんだから問題無いとは思うけど、一応私が着替えさせてチェックするから」
「うん、ありがと、さくら」
二人は積み上げられた机に座って談笑する後輩たちを横目に、更衣室へと向かおうとした。二人の後輩は男子更衣室の方を向いて話していたが、気配を感じたのか朝が振り向いた。
「あ、小原先輩、山名先輩。今から着替えですか?」
「うん、朝ちゃん。朝ちゃんは昨日、衣装合わせしたんだっけ?」
レイチェルが傍らのさくらに問いかけると、彼女はうん、と短く答えた。
「それじゃ、また後でね。9時にはチェックも終わって“華笛”にいると思うから、その辺には朝も戻っとくようにね?」
そうして二人は文化祭実行委員の三人組が作業する横を通り、更衣室へと向かう。その中で着替えつつ、やはり牛乳石鹸しか使っていないというレイチェルの肌にさくらが嫉妬の炎を燃やした事は、もはや言うまでも無い事だった。

「いや、悪いな司。いつもギリギリで物頼んでばっかりでさ」
「構わないよ、一正。お前が時間にルーズなのはもう慣れたし、部長はちょっと頼りないくらいの方が副部長として退屈しない」
手厳しい苦言を呈しながら、司は時計を見る。9時を僅かに過ぎた程度だが、他の部員より先に“華笛”に戻っておきたいと、司は副部長の責任から僅かに足を速めた。
「しかし、『エンジェルアドヴァイズ“高島ざくろ”』が当たるとはなー。俺、これからアクシル買う時は絶対あの店にするよ」
「そりゃカード屋も喜ぶだろうな。お前の事だ、“高島ざくろ”が一枚当たったくらいで熱が冷めるなんて在り得ないだろ?」
「もちろん、これからもカード買いまくるぜ!ま、バイト代の範囲でだけどな」
一正は“華笛”の扉に手をかけながら笑う。司はつられて苦笑を漏らしながら、一正の後に続いて“華笛”へと入った。そのまま自分の鞄まで向かうと、葵と約束した急速充電器を取り出そうとした。その瞬間。
「“高島ざくろ”が無い…?」
せっかく手に入れたレアカードが無くなった。そんな目の前の光景が信じられない様子で一正は呟いた。床に落としたのか、別のカードの間に挟まってはいないか、机の中も鞄の中も、全部探しても“高島ざくろ”は見つからない。


これが、「高揚学園レアカード盗難事件」発覚の瞬間だった。


出題編A