それは夕焼けが山の稜線を照らし、その影が町に色濃く映る……そんな時間の事だった。本山邸のインターホンが鳴る。居間のソファで寝転がって段一知のホラー小説を読んでいた葵は本に栞をはさむと、玄関へ向かった。
「なんだ、凛か……その右手、どうしたの?」
玄関先に立っていたのは、カチューシャをつけた茶髪の女性。近所に住んでいる葵の友人で、名を田中凛といった。大雑把ながらも元気のよい性格で、別の大学に通っているものの休日にはよく一緒に遊ぶ仲だった……が、今日は普段の元気が見られない。その原因はおそらく、右腕にはめられたギプス、そしてそれを吊るす三角巾の存在だろう。
「いやあ、今朝ちょっとバイクとぶつかっちゃってさ……右手、折れちゃったんだよね。で、葵!お願いがあるんだけど!」
無理に両手を合わせて拝もうとする凛を落ちつかせ、葵はその“お願い”の内容を尋ねた。
「あたしがバンドやってるのは知ってるだろ?そのライブが一週間後にあるんだけど、この通りドラム叩くなんて出来なくなっちゃったから、代わりにやって欲しいんだ。ほら葵、ゲーセンのドラムマニア上手いし、多少はドラム叩けるって前に言ってたから……他に頼める人もいないんだ、お願い!」
「んー、まあ別にいいけど。でも、上手に演奏できるなんて保証はしないよ?それでも良いなら、やってみる」
葵はぽりぽりと頬をかきながら答える。
「ありがとう!そのさ、急で悪いんだけど明日の土曜も練習するんだ……来てくれる?」
嬉し涙を目尻に浮かべ、凛は葵の手を握り締める。葵は翌日の待ち合わせ場所などを決めると、いつまでもありがとうと繰り返す友人を見送った。
この時はまだ、翌日に凛が死ぬ事になるとは誰一人思っていなかった。

翌日。
葵は駅前で凛と待ち合わせると、昼下がりの電車で凛が通う大学へと向かった。なんでも凛の所属するバンド「お茶会アフタースクール」は大学の軽音楽サークルでもあり、サークル棟が練習場所なのだという。葵は自分の所属するミステリ小説研究会の汚い部室を思い浮かべたが、凛が通う大学のサークル棟は小さいながらも水道やコンロが用意された部屋だという。
「練習が終わった後は、そこでお茶したりもするんだ。キーボード担当の小吹睦月って子の家が金持ちでさ、凄く美味いお茶とかケーキとか持ってきてくれるんだよ」
目を輝かせて語る凛の話を聞きながら、葵は凛からもらった楽譜に目を通していた。簡単とまでは言わないが、一週間練習できるなら何とかなるレベルだろうか。そんな風に考えていると、電車が目的の駅へ着いたらしい。立ち上がる凛に促され、葵は楽譜を握り締めたまま電車を降りた。
改札に切符を通し、大学までの道を二人で歩く。川面に反射する光の眩しい橋、木漏れ日の並木道……凛は前日骨折したばかりとは思えない元気の良さで葵を引っ張る。そんな彼女が無茶をしないかとはらはらしつつ、葵は凛が通う佐倉工業大学へ到着した。
「こっちこっち。ここ曲がって正面、あれがサークル棟。部屋は208、二階の一番奥なんだ」
何も悪い事をしているわけではないのに、文化祭でも何でもない日に他大学に入るというのはどこか勇気がいる。葵は凛の陰に隠れるようにしながら、こそこそとサークル棟へ向かった。真っ白い壁に曇り一つないリノリウムの廊下、高い天井には明るい電灯が輝いている。自分が通う大学のサークル棟、そのくすんだ壁にギシギシ鳴る木造の床、夜には蛾がバシバシぶつかる電球しか照明が無い低い天井を思い出し、葵はげんなりした。嫉妬で人が殺せるのなら、凛は既に何度か死んでいた事だろう。
「ここ、か」
葵は凛のために扉を開け、彼女の後に続いて部室へと入った。部室は扉から見て左に広く、そちら側にはドラムセット、そして楽譜が収められているらしいキャビネットが置いてある。部屋の中央にドラムセット側を向いてソファが置かれており、それがパーティション代わりらしい。正面におかれたテーブルの向こうの壁際には、ティーセットや紅茶の缶が入った棚と水道、コンロが並んでいる。椅子はテーブルを挟んで三脚ずつ向い合せに並んでおり、そこには部員なのだろう4人の女性が座っていた。もっとも、高校で使われるような学生机を寄せ集めただけのテーブル上には何も広がっていない。お茶会を始めたりしているわけではないようだ。
「あ、凛ちゃんおはよ〜」
扉からみて右側手前の椅子に座っているのは、どこがぼんやりした笑顔を見せるセミロングの女性。近頃芸能ニュースでよく耳にするような危ない薬でもきめているのではないかと疑ったが、どうにもこのぼんやりした具合は生来のものらしい。
「おはよう、凛……その腕、どうしたんだ!?」
そこから空席をを一つ挟んで隣、左側手前の席で血相を変えるのは黒髪ストレート、ロングヘアの女性。吊り目で気が強そうに見えたが、面倒見は良い方であるらしい。凛の右腕にいち早く気付くと、椅子から転がり落ちるようにして駆け寄って来た。
「いや、昨日ちょっと事故っちゃって……それで、代役に友達連れて来たんだ」
左手で後頭部をかいて照れ隠しをしながら、凛はロングヘアの女性に応じる。その向こう側、左奥の席から眉毛が太い茶髪の女性が姿を見せた。
「それなら、この方がそのお友達なんですか?」
何気ない物腰からもどことなく上品さがにじみ出ている気がした。葵はこの眉毛が電車の中で話題に上がった、キーボードの小吹睦月なのだろうと当たりをつける。
「どうも、はじめまして。三洲角大学文学部歴史学科2回生、本山葵です」
「はい、はじめまして。私は小吹睦月、キーボードを担当しています」
予想通り、眉毛が睦月だった。彼女はにっこり微笑むと、右手を差し出す。葵も右手を出すと、彼女はいかにもお嬢様らしい上品な腕時計を巻いた左手も添えて握手を交わした。柔らかな物腰からは想像できない、意外に力強い握り方。思いのほか、力持ちのようだ。
「私は相山美穂、ベース担当だけど、サブのボーカルも兼任してる。よろしく、本山さん」
ロングヘアの女性も続いて手を出す。言葉づかいも顔立ち同様に鋭いが、先ほどの凛を心配する様子からは心根の優しい人間だろうと推測される、そんな女性だった。演奏にも熱心に取り組んでいるのだろう、握手した手は指が固かった。葵は残りの二人にも目を向けた。最初に挨拶をしたぼんやりした女性と、中央奥の席に座っていた髪を二つくくりにした小柄な女性だ。まず、ぼんやりした女性が笑顔を見せる。
「寺沢弓、ギターとボーカル担当。こっちは私のギターのギ太一だよ」
「ぎ、ぎたいち……」
自分の愛用する道具に名前をつけて可愛がる人間がいるという知識はある。事実葵も小さい時にはぬいぐるみに名前を付けたりしていた。だが、それにしてもギターにギ太一とは。葵は弓のセンスを疑わざるを得なかった。どんなリアクションで返すべきかと逡巡する葵にとって助け舟となったのは、小柄なツインテールの女性の挨拶だった。
「私は野中安曇、リズムギターを担当しています。私は1回生ですし、雑用は何でも言ってください」
よろしく、と葵は弓、安曇とも握手を交わす。弓は天然ボケのカテゴリだろうが、安曇は生真面目な性格と見える。多分、この真面目さで貧乏くじを引いているタイプだ。
「じゃ、さっそくで悪いけど……練習、始めても良いか?」
美穂が右手でベースのネックを握る。葵は頷くと、自分の緊張を気取られないように小さく唾を飲んだ。普段は凛が使っているだろうドラムのスティックを両手に握ってスネアドラムやシンバルなどの位置を微調整し……電車の中で確認した通りにドラムを叩く。
弓がギ太一を抱き、ピックを持った右手を高く上げる。それを振り下ろし、勢い良く弦を弾いた。

  血を抜かれるといつもハートDOKI☆DOKI
  揺れる視界は黒服だらけでがく☆ぶる
  いつもツモ切るキミの配牌
  イカサマしてたら気付かれるよね
  卓の前なら二人の点差縮められるのにな
  あぁカミサマお願い
  勝負前のBlood Trasfusionください☆
  お気に入りの役満ロンで今夜もハコテン♪

  ざわ……ざわ……タイム ざわ……ざわ……タイム ざわ……ざわ……タイム

ドラムは一番後ろの中央に配置されている事もあり、後姿ながら全員の動きが良く見てとれた。葵から見て左手前で睦月は滑るような指遣いでキーボードを演奏し、その向こうでは弓がギ太一に激しく指を添わせている。葵から見て一番遠い右前に立っているのは美穂。背の高い彼女がベースを弾く様は同性の葵から見ても格好良く映り、女子校ならばお姉さまなどと呼び慕われていてもおかしくない雰囲気が漂っていた。そんな弓と美穂に挟まれて小柄な安曇が左手で一生懸命にコードを押さえている様子はどこか小動物的な微笑ましさを醸し出す。
ちなみに凛は一人、ソファに座っていた。

「ねえ、そろそろ休憩にしない?私、ちょっとのどが渇いて……」
弓の言葉に腕を止めた。何度か演奏を繰り返し、気付けば練習を始めてから2時間ほど経過している。座ってドラムを叩いている葵はのどの渇きこそ感じていないものの、腕には少々疲れがたまっている。ボーカルとして熱唱もしている弓がのどの渇きを訴えるのもうなずけた。
「じゃあ少し、休憩にしようか」
左手につまんだピックを胸ポケットに入れながら、美穂が応じる。安曇も頷き、ギターをスタンドに立てる。睦月はというと、いそいそとお茶の準備を始めていた。お嬢様という事だったが、甲斐甲斐しく動いている所を見る限り、親しみやすそうな雰囲気が見て取れた。と、そこで葵は小さく肩を震わせた。
「ごめん、ちょっとお手洗いに行きたいんだけど。誰か、案内してくれない?」
「あ、なら私が案内するよ」
美穂が手を挙げる。思った通り、やや険のある顔立ちに反して面倒見の良いタイプであるようだ。
「じゃ、ちょっと行ってきます。先にお茶してて構わないから」
喉が渇いたと訴える弓に待ちぼうけを食わせるのはかわいそうだ。そう考えながら、葵と美穂は部室を後にした。

「本山さんは、凛とはどういった知り合いなんだ?」
部室を出て少し歩いた所で、美穂は正面を向いたまま尋ねる。どことなく険のある声から不穏な空気を感じ取りながら、葵は慎重に言葉を選んだ。
「どういう、って……そうだね、家から歩いて5分の距離に住んでる中学からの友人、かな。妙にウマが合うから、今でも時々遊ぶ仲。それが、どうかした?」
「いや、その、どうってわけじゃないんだけど」
どうにも歯切れの悪い返事。出会ってから数時間だが、どことなく彼女らしくない反応だった。この不穏な空気、そして美穂の不可思議な態度。まさかとは思いつつ、葵は一つの仮説を口にした。
「その、間違ってたらごめんだけど……もしかして相山さん、凛と付き合ってるの?」
ぼん、という爆発音が聞こえた気がした。美穂は耳まで真っ赤になり、口を真一文字に結んでプルプル震えている。そのまま数秒固まっていただろうか。やっと口を開いたかと思うと、その声は異常なほど震えていた。
「な、なななななな、なんで分かったんだ!?凛が喋ったのか!?秘密にしようって言ったのに!」
自分の仮説が正しかった事に驚きながら、葵は照れ隠しに頬をかいた。
「いや、凛からは何も聞いてない。これは本当。さっきの相山さんの態度が、なんて言うか……その、旦那の浮気を心配する奥さん、みたいに思えたから」
そっかー、凛って女の子と付き合ってたんだー。レズビアンと率直に言ってしまって良いのか、それともガールズラブとか百合とかオブラートに包んだ表現の方が良いのか。将来オランダかスウェーデンにでも行って結婚するつもりなんだろうか。ぐるぐると思考が巡る中、二人はトイレに到着した。
「その、行ってきます」
「う、うん、行ってらっしゃい」

エアタオルで手の水気を吹き飛ばしてから、葵はトイレから出る。前で待っていてくれたらしい美穂と二人、部室へと歩き始めた。
「その、本山さん。私達の事、他の皆には秘密にして欲しいんだ。ほら、一応バンド内恋愛は禁止って事になっててさ、安曇ってそういうのに厳しかったりするから……」
「あー、分かるかも。彼女、あんまり融通きくタイプじゃなさそうだし。まあ安心して、私は二人がそういう関係でも気にしない……と言えば嘘になるけど、言いふらすほど悪趣味でもないんで」
微笑みながら、美穂を見る。絹を裂くような睦月の悲鳴が聞こえたのは、その瞬間だった。
「!?」
二人は顔を見合わせ、閑散とした廊下を走る。どうやら他のサークルは活動していないらしく、悲鳴を聞きつけた者はいないようだ。少なくとも、廊下に葵たち以外の人影は無かった。
「どうした!?」
扉を開けるや否や、美穂は叫ぶ。遅れて飛び込んだ葵は、目の前の光景に言葉を失った。
床に倒れ、痙攣する凛の姿。弓、睦月、安曇は顔面蒼白でおろおろするばかり。凛が倒れた時にひっくり返したのだろう、テーブルはバラバラの学生机に姿を変え、その上に置かれていたらしきカップやティーポットは砕け、ケーキ屋のロゴが入った箱とその中身だったらしいケーキは無残に散らばっている。
「凛、凛っ!」
美穂は恋人を抱きかかえ、何度も名前を呼ぶ。葵は震える手で携帯電話を操作し、救急車を呼んだ。もう手遅れだと囁く、どこか冷静な自分の声を無視しながら。


「私たち、同じ紅茶を飲んだのに……どうして凛先輩だけ、こんな事に……」
病院の廊下に置かれたソファに座り、安曇は両手で自分の肩を抱きしめながら嗚咽混じりに声を震わせる。葵は彼女の背中をさすりながら、その言葉を聞き漏らさないように集中していた。どんな動機にせよ、友人を毒殺した人間を簡単に許してやれるほど、葵は出来た人間ではないのだ。
「同じ紅茶って言っても、砂糖とかミルクとかは違うんじゃないの?」
「弓先輩は砂糖とミルク、睦月先輩はミルクだけ、私と凛先輩は砂糖だけ……」
凛と同じく砂糖だけ入れて飲んだ安曇に変わった様子が無いという事は、『砂糖に毒が入っていて、ミルクには解毒剤が入っていた』という様子ではないようだ。とすると、毒が入っていた――もしくは、塗られていた――のは紅茶そのものではなく、カップやティースプーンの方なのか?
「カップやスプーンは、誰が使う物とかって決まってるの?」
安曇は首を左右に振る。彼女のツインテールが力無く揺れた。
「カップもスプーンも、6つでセットになった物を使っていますから……使う時には適当に配るし、もしかしたら、凛先輩以外が毒を飲んだ可能性だって……」
かたかたと震える安曇の肩をそっと抱き締める。と、こちらへ近寄って来る人影が視界に入った。
「あれ、葵ちゃんじゃないか。どうしたんだい、こんな所で」
くたびれたコートにぼさぼさの髪。刑事コロンボをリスペクトしているのでなければ、ただ身嗜みに無頓着な冴えない男にしか見えない格好。だが、葵はその男、道明寺久助の本性を知っていた。彼は刑事コロンボをリスペクトする、身嗜みに無頓着な冴えない男であるという事を。
「私は、友達の付き添い……になるのかな。久助兄さんこそ、どうして?」
「俺は仕事だよ、毒殺事件の。いやまあ、まだ他殺と決まったわけじゃないから、毒殺って断言も出来ないんだけどね……ったく、亡くなったのは葵ちゃんの友達なのかい。遣りきれないねえ」
溜息をつきつつぼさぼさの頭を掻きむしってフケをまき散らしながら、久助は答える。どうやら金田一耕助もリスペクトしているらしい。彼はコートの内ポケットから警察手帳を取り出すと、一同に見せた。
「あー、このたびはご愁傷様です。私はこの事件を担当いたします、刑事課の道明寺と申します。田中さんが亡くなったばかりの所で申し訳ないんですが、署までご同行いただきまして、事情聴取をお願いできませんかね?」

「なるほど、葵ちゃんが相山さんと部屋に戻った時には、田中さんは苦しんでいた、と。部屋を出るまで、ティーカップなんかには触ってないんだね?」
「お茶会アフタースクール」のメンバーに順番に事情聴取を行い、最後に葵の調書を作る久助。彼の質問に、葵は首肯する。
「誰が紅茶を淹れて、誰がカップやティースプーンを配ったのか……その辺は見てないから分からない。私はただお手洗いに行って、帰ってきたら凛が倒れていた。これ以上は何も知らない」
親しい友人が、死んだ。その事実に心は揺れるが、涙は流れない。自分でも淡白な人間だと思う。だから、葵はせめて自分が出来る事は……犯人を見つけ出す事だけは、しっかりやろうと決めていた。
「久助兄さん。守秘義務とかそういうのは分かるけど、他の人、相山さんや寺沢さんとかは、私が居ない間にどうしていたのか教えてくれる?」
久助の目をまっすぐ見つめる。彼は大きなため息をつくと、きょろきょろと周囲を見渡した。誰もいない事を確認してから、彼はもう一度ため息をついた。
「あのねえ、葵ちゃん。情報を漏洩させて怒られるのは俺なんだよ? まあ、どうせ放っておいても葵ちゃんは彼女達に訊くだろうし、彼女達の精神衛生を考えれば、何度も話させるよりは俺が話した方が良いのかねぇ」
やたらと説明臭いというより、自分に言い訳をするような口調。やれやれ、とわざわざ口に出してから、彼は調書の束をめくった。
「葵ちゃんと相山さんがトイレに行ったのを4人が見送った、そこまでは葵ちゃんも見てた通りだ。で、今日は紅茶の用意、カップやスプーンの用意、茶菓子の用意と仕事を分担していたそうだね。紅茶の用意は寺沢さん、カップなんかは小吹さん、茶菓子は野中さんが用意したそうな」
「紅茶はティーバッグ?それとも、葉っぱから?」
「急かすなよ、葵ちゃん。一つずつ詳しく説明するからさ……まず紅茶だけど、普段から茶葉で淹れてたそうな。ポットに茶葉を入れてから電気ポットで湯を入れた、と寺沢さんは証言しているんだが、そこまで詳しく見ていた人はいないな。これは後の二人についても同じ事だけど、互いに互いを詳しく見ていない。まあ各自で用意をしてたわけだし、当たり前っちゃ当たり前だね」
ボールペンの尻でこめかみをゴリゴリ擦り、久助は調書のページをめくる。
「さて、カップやスプーン、砂糖にミルク。その辺を用意したのは小吹さんだな。普段からカップなんかは使った後に洗って、水気を切ってから棚にしまっているそうだ。今日も棚から出して、そのまま机に並べたらしい。あと、ミルクは一人分ずつ小分けにした……ほら、コーヒーゼリーとかについてる小さい奴あるだろ?あれの買い置きから適当に出したそうだよ。砂糖は砂糖壺に入れてカップと一緒の棚にしまっていたらしいね」
「確か、野中さんは誰が砂糖を、誰がミルクを入れたか覚えてたよね?」
「ああ、それも聞いてる。やたら詳しく覚えているからちょっと変だとは思ったんだが、彼女達は普段から砂糖やミルクの分量は全く変えてないからみたいだね。ええと、ちょっと待っておくれよ、野中さんの調書は……ああ、これこれ。寺沢さんは砂糖とミルク両方、小吹さんはミルクだけ、野中さんと田中さんは砂糖だけ。ついでに訊いといたんだが、相山さんは普段、寺沢さんと同じく両方入れて飲んでたそうな」
ふうん、と葵は相槌を打つ。病院でも確認した事だが、茶器は完全にランダムで選ばれた。砂糖やミルクには毒が入っていた様子は無い……安曇と凛の生死を分けるトリックが存在しないとすれば、の話だが。そういえば、昔読んだ漫画で甘くないホットココアに皆が砂糖を入れたがそれは睡眠薬入りで、犯人だけは牛乳の膜で包んで飲まずにやり過ごすトリックがあった、と思いだす。だがこれは紅茶だし、ミルクを入れていない以上はそのトリックも使えないだろう。
「さっき野中さんはお茶菓子の用意をしていたと言ったけど、大学に来る途中で買ってきたケーキを出しただけ、みたいだね。そもそもそのケーキには口をつけた人がいないから、こいつに毒が仕込まれていたとは考えにくいかな」
「じゃあ、毒はカップかスプーンに塗られていた、と考えるべき?鑑識さんの見解は?」
「まだ鑑識からの報告は来てないよ。ただまあ、葵ちゃんの考える通りに毒が塗られていたとすれば、カップかスプーンだろうね。俺は現場写真なんかもまだそんなに見てないし、カップはほとんど粉々で鑑定には時間がかかるって言われてるんだが……どんなカップとかだったんだい?」
葵は眼を閉じると、凛が倒れていた現場を思い出す。苦しむ彼女の周りに散らばっていた、割れたカップやポットの小さな破片……
「これと言って特徴の無い、陶器のカップだったと思う。アラベスクって言うの?唐草模様みたいなデザインの、片方だけに持ち手があるティーカップ。スプーンも普通の金属製のティースプーンだったと思う。野中さんから聞いてるとは思うけど、誰がどのコップとかってのは決まってないらしいね。外部犯だとすれば、メンバーの誰が死んでも良かったって事になるのかな……」
「そうだねえ、毒が塗られていたのが一つだけだとすればね。ただ、一つ塗るのも全部塗るのも手間は一緒なんだし、誰が死んでも構わないって考える外部犯なら、全部に塗るんじゃないかな。ついでに言っておくと部室は毎日施錠され、鍵はメンバー全員が持っていたそうな。そんなに複雑な錠前じゃないから、その気になれば簡単にピッキングもできただろうけれど、その線は考えにくいね」
久助は背もたれに体を預け、椅子にギシギシと耳障りな悲鳴を上げさせつつ天井を見上げた。そして何日前に洗ったのかも分からない頭を掻いた。舞い散るフケを吸いこまないように気をつけながら、葵は深く息をする。感情が出来るだけ避けようとした結論へ、冷静な理性が沈下していく。
「とすると、内部の……寺沢さん、相山さん、小吹さん、野中さん。彼女達4人の誰かが犯人だって言いたいの?」
「あくまでも可能性の話だよ、葵ちゃん。ただ問題として、特定の人物を狙っての犯行だとすればどうやって田中さんに毒付きのカップかスプーンかを渡したのか、という問題になるね。そして当然、カップやらを用意した小吹さんが怪しくなる……と思うんだけど、事はそう簡単に行かなくてね……」
「もったいぶらないでよ、久助兄さん」
「だから焦るなって、葵ちゃん。カップやスプーンを用意したのは小吹さんだ。他の人がやってないって言ってるから、きっと間違いないだろうさ。けどね、それを全員の席に置いたのは田中さんなんだよ。紅茶や茶菓子の用意を終えた寺沢さんと野中さんが見てる前での事だから、こいつもきっと間違いない事実だ」
葵は息を飲んだ。犠牲者である凛がカップなどを配ったとすると、犯人が凛のみを殺したいなら何らかの細工で凛に毒を塗った物を選ばせる必要がある。凛以外に毒を塗った物が配られても良いとすれば、自分にはそれが渡されないようにする必要がある。無論、犯人が自分自身をも対象に含める狂気に満ちたロシアンルーレットを主宰したくないとすれば、の話だが。
「犯人が完全にランダムに選ばれた凶器で田中さんを狙えた理屈は何か。あるいは、全員が毒を塗られた物を使ったのに、田中さん以外が死ななかった理由は何か。さしあたっての疑問は、こんな所かね……とりあえず、今日の事情聴取はこのくらいにしようか」
久助は立ち上がり、葵に退席を促す。知りたい事はまだまだあるが、駄々をこねた所でこれ以上の情報が出てくるとも思えない。葵は素直に従兄弟に従い、帰宅する事にした。

久助に自動車で自宅まで送られた葵は心配そうに迎え出た両親を適当にあしらいつつ、自室のベッドに勢いよく体を預ける。腐ったように両端の黒ずんだ蛍光灯が瞬く中、葵は今日一日の事をゆっくり整理した。けれど、何度考えても凛が死んだ理由が分からない。殺害された方法はもちろん、何故殺害されなければならなかったのかも。いや、動機として思いつく事はある。凛と美穂が恋人だったという事実だ。美穂を愛する誰かが、邪魔になった凛を殺害した。もしくは凛を愛する誰かが思いの深さゆえに暴走し、殺害した。そう考えれば、一応の説明はできる。
しかし、肝心の殺害方法については何も分からない。ずるずると思考の泥沼にはまりながら、いつしか葵は深い眠りに落ちていた。

この時、凛の通夜の席で美穂が命を落とすと予想できたのは犯人だけだった。

翌日。
普段通りの時刻に目が覚めたもののベッドから起き上る気がせず、結局葵は昼前まで横になったまま過ごしていた。昨日から着たままの服は寝汗で肌に張り付いている事、今日は凛の通夜があるだろう事を思い出してからもしばらくは動く気力も起きなかった。けれど、いつまでも不貞腐れているわけにもいかない。葵はベッドから降りると、居間へと向かう。
居間では母親が田中家からの連絡だと言って、通夜の時間を書いたメモを渡してくれた。場所は近所の斎場、午後6時から読経と焼香でその後は通夜ぶるまい。ふと机の上を見ると、どうやら両親が用意してくれたらしい香典袋が置かれている。その心遣いに感謝しながら、葵はシャワーを浴びることにした。

午後5時少し過ぎ。数年前に祖母の葬儀でも使った斎場である上、ちらほらと見える喪服の人間を辿っていけば迷う事も無いのだが、遅刻するよりは早く行きすぎる方が良い。しかし久しぶりに袖を通した喪服は着慣れないためか、どこか窮屈な気がする。もしくはそれは、単に葬儀特有のしめやかで重い雰囲気に起因するものかもしれない。
斎場に入った葵は受付に座る少年に軽く頭を下げる。凛の家に遊びに行った際に何度か見た顔。凛の弟、田中悟だ。
「悟君……このたびはご愁傷さまでした。御霊前にお供えください」
香典袋を差し出しながら型どおりの挨拶をこなし、芳名帳に住所氏名を記入する。悟は涙をこらえているのか、終始うつむき加減で言葉数も少なかった。口下手な自分が下手な慰めの言葉をかけるよりはと、葵はあえて何も語らずに式場へ向かった。
式場にはすでに「お茶会アフタースクール」のメンバーが半分だけ揃っていた。睦月と安曇がいないが、トイレにでも行っているのだろう。祭壇の前に並んだパイプ椅子に座り、美穂は時折ハンカチで目元を拭っている。やはり仲間が、恋人が死んだという事実は彼女の心に重く圧し掛かっているのだろう。葵はそっと彼女の隣に座り、ポケットから取り出した数珠を左手に握りながら僧侶の読経が始まるのを待つことにした。どうやら田中家は特殊な宗教を信仰しているわけではないらしく、祭壇などもいたって普通、仏教式の物だった。そのうち安曇が、続いて睦月も現れ、葵は軽く頭を下げた。

やがて僧侶が入場し、厳かに読経が始まる。色黒で屈強そうなイメージの僧侶だったが、経を読み上げる朗々とした声には確かな知性が感じられた。やがて一人また一人と、親族に続いて「お茶会アフタースクール」のメンバーが焼香をする。葵の番になり、彼女は立ち上がると列に並んだ。
「……大雄猛世尊 雖久遠入滅 無量無数劫 滅度又滅度……不倶隷 目楼那訶 朱誅楼 楼楼隷 阿伽不那瞿利 不多乾……」
親族と僧侶に向かって礼をし、焼香台の前へ進む。遺影に使われている凛の笑顔。その能天気な笑みに胸を痛ませながら黙礼。指三本で抹香をつまんで眉間まで持ち上げてから香炉にくべる。それを三回繰り返した後に合掌し、再び遺影に頭を下げる。親族と僧侶にもう一度黙礼してから、葵は自分の席へ戻った。
「……阿羅弗当知 三千大千世界悉一仏土 仏普出現於世 寒往即暑来 暑往即寒来 今正是其時 諸人合掌一心待……」
僧侶の読経はまだ続いている。凛の親類なのか、それともこの斎場で働いている人や葬儀会社の社員か。幾人かが葵の後にも焼香をし、やがて読経を終えた僧侶は退席した。
「本日はお忙しいなかを、娘凛の通夜にお運びいただきまして、まことにありがとうございました。こんなにたくさんの皆様にお越しくださいまして、故人もさぞかし喜んでいることと存じます。皆様、お疲れのこととは存じますが、ささやかながら食事の用意をさせていただきました。どうぞ、お時間の許すかぎり、亡き娘をしのんでお召し上がりいただければ、何よりの供養になると思います。本日はお忙しいところ、本当にありがとうございました」
凛の父親なのだろう。壮年の男性が涙ぐみながら挨拶をする。正直に言えば食べ物が喉を通る様な気分ではないのだが、通夜ぶるまいは故人の供養でもあり、一口でも箸をつけるのがマナーだ。気は進まないまでも、行かねばなるまい。「お茶会アフタースクール」のメンバーと一緒に椅子から立ち上がろうとした時、ふと足元から寒気のような物を覚えた。
「私、ちょっとトイレに行って来る」
「ごめん、少しお手洗いに」
葵が尿意を訴えたその瞬間、美穂と声が重なった。彼女と一緒にトイレへ行けば良いのだが、どうしても昨日の事が思い返される。葵と美穂、この二人でトイレへ行っている時に凛は死んだ。皆もそれを思い出したのだろう、どことなく嫌な空気が場に立ちこめる。それを吹き払うように、睦月が手を挙げた。
「それじゃあ、私も一緒に行きます。弓ちゃんと安曇ちゃんは先に行ってて」
睦月も一緒にトイレへ行ったところで何の解決にもならないのだが、それでもいくらか心は楽になる。三人は連れだってトイレへ向かい、弓と安曇は通夜ぶるまいの会場となるトイレの隣の部屋へと向かっていった。

トイレはそれなりに混雑していた。年輩の方が多いので、恐らくは凛の親戚や近所の御夫人といったところだろう。もしかしたら同じ斎場、別の場所で行われている葬儀の参列者かもしれない。用を済ませてハンカチで手を拭きながら廊下に出ると、睦月は壁際で立っていた。
「あ、本山さん、こっちですよ。美穂ちゃんはまだみたいです」
睦月の隣で壁にもたれ、美穂が出てくるのを待つ。寒いくらいの空調で冷え切った壁はどこか心地よかった。
「お待たせ、二人とも」
しばらくして出てきた美穂と一緒に、通夜ぶるまいの会場へ向かう。当然ながら日本酒やビールもふるまわれているのだろう、アルコールの匂いが廊下にまで漂っている。少し眉を寄せながら隣を見ると、美穂も似た表情を作っていた。どうやら彼女も葵と同じく酒が苦手な部類らしい。
扉を開けると、テーブルの一つに弓が座っていた。弓の側に二人、その向かい側に三人が並ぶ形となっている。弓は一番左に座っていて、その右隣に食事の用意。そのもう一つ右にはビールや日本酒の瓶、急須といった飲み物が並んでいた。安曇はどこかと見やれば、斎場の職員からジュースの瓶を受け取っている。酒が苦手な美穂の為なのか、それとも自分の為なのか。まあそんな事は詮索する意味も無い。美穂は迷う事無く弓の対角線上に、睦月はその隣に座り、葵は弓の隣に座ることにした。弓の正面が空席だったが、ほどなくそこには安曇が座った。
周囲を見れば、もう食べ始めている人もいる。凛の父親らしい男性も悟の横で箸を動かしていた。自分達がトイレに行っている間にもう通夜ぶるまいが始まっていたらしい事に気付き、葵はそそくさと割り箸を取った。様々な料理が並んでいるが、葵はとりあえず好物の寿司に箸を伸ばした。胸がつかえて食事が出来る気分ではなくとも、好物ならば少しくらいは食べられるのではないか……そう判断しての事だ。その判断が正解だったのか、はたまたその寿司が美味かったからか、もしくは単に本山葵が薄情な女だったのか、寿司はすんなりと喉を通った。程良くきいたワサビがつんと鼻に抜け、葵は涙を浮かべながらグラスに注いだジュースを飲み干した。
その時。葵と同じくジュースを飲んだ美穂が立ち上がった。目を見開き、何かを訴えるように周囲を見渡す。右手から滑り落ちたグラスが砕け、その後を追うように美穂は床へと倒れ伏した。ゴトンと重い音が響く。それが美穂の頭蓋骨が床に激突した音だと気付いても、葵は目の前で人が死のうとしているとは信じられなかった。まるでマンガかアニメの中の出来事のように、それが現実だと受け入れられない。連続殺人事件だとしても、あまりに急すぎる。美穂を今日殺さねばならない理由でもあったのか。それとも、焦っているのだろうか。焦っているとすれば、その理由は何なのか。犯人にとって予想外の出来事でもあったのか。
箸を握ったまま倒れ悶える美穂の姿に様々な疑問が浮かんでは消える。混乱が加速し、現実が思考に振り切られる。それでも葵は、震える声で救急車を呼んだ。


昨日と同じ部屋、昨日と同じ組み合わせ。葵は久助と共に取調室で向かい合っていた。パイプ椅子の冷たさも、机の上の電球の熱も、そのどちらもが遠く感じる。久助はどこかやりきれない表情を浮かべたまま、ボールペンのキャップを外した。
「葵ちゃん、昨日に引き続きで悪いんだけど……相山さんの事件について、事情聴取させてもらうよ。相山さんが倒れたのはジュースを飲んだ時だったんだね?」
「そうだと思う。ジュースに直接毒が入っていたのか、それともたまたまジュースを飲んだ時に毒が回ったのかまでは分からないけど、倒れた時にはグラスを持ってたはず」
「そのジュース自体は葵ちゃんも同じ瓶で飲んでたんだし、毒が入っていたとすればグラスの方だね。鑑識から情報が来るまでは明言できないけどさ」
昨日の事件で学習したのだろう、言われる前から久助は葵の推理の手助けになるような情報を話す。
「一応確認しておくけど、相山さんはアルコール類は飲んでないんだったね?寺沢さん達からは飲んでなかったと聞いてるけど、葵ちゃんだけが見てたとかいう可能性もあるからね」
葵は記憶を手繰り、美穂の行動を確認する。彼女が席に着いてからずっと見ていたわけではないが、ビールや日本酒の類は全てが葵の隣に置かれていた。それに手を伸ばした様子は無かったし、よもや自前でスキットルに用意してきた酒を飲んでいたという事も無いだろう。そんな目立つ行動をすれば嫌でも葵の視界に入るだろうし、他の人も証言しているはずだ。
「相山さんはお酒の類は飲んでなかったと思う。けど、どうして?死因が急性アルコール中毒だったとかいう鑑識結果でも出たの?」
「いや、まだ鑑識からの報告は受けてないよ。アルコールを飲んだかどうか確認したのは、彼女が昼にドリアンとかヒトヨタケ、ホテイシメジの類を食べていた場合の事を考えての事でね。葵ちゃん、コプリンって言葉は知ってるかい?」
コプリン。聞き覚えのない言葉だった。葵は首を横に振ると、視線で説明を促した。久助は頭を掻いてフケを撒き散らしながら講釈をたれ始める。
「コプリンってのはさっき言ったヒトヨタケ、ホテイシメジとかのキノコに含まれる成分でね。このコプリンってのは単体では何の毒素も無いし、ヒトヨタケは食用のキノコだ。ただ、このコプリンの代謝生成物がエタノール代謝酵素の作用を阻害して、アセトアルデヒドが血中に蓄積される。つまり、アルコールを分解できなくなって血圧が急低下、最悪の場合は死に至る」
「通夜ぶるまいの料理にキノコは入ってなかったし、そんなキノコをわざわざお通夜の前に食べはしないと思う。それと、ドリアンの方の説明は?」
「ドリアンもアルコールと一緒に食べると急激な高血糖を起こすとかガスで内臓が破裂するとか、そういう説がある。こっちはコプリンとは違って俗説と言われてるけどね。ただまあ、アルコールを摂取してない以上は考えても無駄か」
久助が大きく息を吐いた時、扉がノックされた。葵にそのまま座っているように指示すると、久助は扉へ向かう。細く開けた扉越しに何枚かの書類を渡され、ぼそぼそと言葉を交わす。おそらく鑑識の結果か何かを受け取っているのだろうが、事によると葵の為に手配してくれたのかもしれない。親切な従兄弟に感謝しながら、葵は彼が戻ってくるのを待った。
「お待たせ、葵ちゃん。鑑識からある程度情報が届いてね……捜査上の機密漏洩になるんだが、葵ちゃんにも見せておくよ」
手元の書類を葵の方に投げる。バサバサとやかましく宙を舞った書類は葵の目の前でぐしゃりと不格好に着地した。それを拾い上げ、じっくりと目を通す。久助はその間に調書を見返し、「お茶会アフタースクール」のメンバーの証言を再確認していた。
「……一通り見終わったよ、久助兄さん。証言とかを一つずつ確認したいんだけど、良い?」
「それで葵ちゃんの気が済むんなら、いくらでも付き合うよ。まずは昨日と今日、両方の事件で使われた毒物からにしようか」
久助は葵の持っていた書類を取ると、机の上に置く。その中から目的の一枚を探すと、見やすいように机に広げた。毒物について書かれているのだが、それがどのような効果を持つ毒物なのかまでは歴史学科の葵には分かりかねた。それは久助にも分かっているのだろう、彼は丁寧な解説を始める。
「使われたのはどちらの事件も同じ亜ヒ酸みたいだね。正確には三酸化二砒素、石見銀山ネズミ捕りとか言われる有名な毒物だ。摂取した際の症状としては吐き気や嘔吐、激しい腹痛や下痢……ショック症状から死に至る事もある。無味無臭で水溶性、水溶液の状態でも毒性はある。つまり、器に直接塗っても粉末を飲み物に溶かしても効果があるって事。今回は相山さんが使ったグラスの縁にぐるっと塗られていた。他のグラスには毒は塗られていなかったそうだ」
「じゃあ、犯人はどうやって相山さんだけを狙えたの?通夜ぶるまいの時に誰がどこに座るかは完全にランダムだった以上、相山さんを誘導するトリックが使われたって事になるんじゃないの?」
久助は調書を開き、その点についての証言を探す。そして携帯電話を取り出し、操作を始めた。電話でもかけるのかと思ったが、目の前に差し出された画面を見る限りはメモ帳ツールを使いたかったようだ。着席した様子を分かりやすく示すには、確かに便利なツールだった。
「誰がどう座ったか、順番に確認しよう。まず寺沢さんと野中さんが先に通夜ぶるまいの部屋に入ったわけだけど、野中さんはアルコールが苦手な相山さんの為にジュースを貰いに行った。つまり、最初に席に座ったのは寺沢さんだ。あ、酒ってのはお酒があった場所、×印は空席だと思ってくれ」
  酒×寺
  ×××
「その次に相山さん」
  酒×寺
  相××
「そして小吹さん、葵ちゃんの順番だったね」
  酒葵寺
  相小×
「最後に野中さんが座った、と」
  酒葵寺
  相小野
「一応確認するけど、誰かが誰かの座る席を指定したりはしてないね?」
「私が見てる前ではそういう事は無かった。そりゃ、サークルで席に着く時の癖で座ったとかはあったかも知れないけど」
だが、サークルでの癖などは知るすべがない。葵が「お茶会アフタースクール」のメンバーがテーブルを囲んでいるのを見たのはただ一度、凛と一緒に部室を訪れた時だけだ。昨日のお茶会はトイレから戻った時には凛が倒れ、残る全員は立ち上がっていた。そもそも友人が倒れている状況で詳しくお茶会の様子を聞く事も出来なかったのだし、そこは諦めるほかない。
「犯人はどうやって田中さんだけを毒殺出来たのか。犯人はどうやって相山さんを左端の席に誘導したのか。これが分かれば、捜査もぐっと進展すると思うんだけどね……毒を混入できる人物って線で捜査を進めようかと思ったんだけど、通夜ぶるまいの前は何かと混雑するだろ? 寺沢さんも野中さんも確実なアリバイは無いし、トイレも通夜ぶるまいの部屋の隣である以上は小吹さんがこっそり部屋に入って毒を塗ったってな可能性も捨てきれない。誰なら毒を入れられるかという方面からは犯人が特定できないんだ。同じ毒物を利用したって点で、同一犯なのは確定なんだけどね……」
フケだらけの頭を机に伏せ、久助は弱音を吐く。葵は人差し指で唇に触れながら、美穂の行動を思い返していた。彼女が席を選ぶ際、一切迷うことなく左端の席に着いた。既に弓が座っていた席は除くとしても、二番目に座った彼女は最も多くの選択肢を持っていたはずなのに。
その時、葵ははたと閃いた。その考えを吟味するにつれ、それ以外の可能性が否定されていく。
犯人は美穂を誘導する必要など無かった。美穂は最初から最後まで、完全に自分の意思で席を選んだのだから。催眠術などといった、そんなチャチなものでは断じてない。犯人はもっと恐ろしく、そして狡猾な方法で美穂の殺害に成功したのだ。その方法を利用して美穂を殺したとすれば、応用によって凛の殺害トリックも明らかになる。この結論が間違いであればと願いつつ、葵は犯人の名を告げた。
「久助兄さん。犯人は……」


†作者の保障するルール†
・全ての登場人物は、犯人を除いて意図的な嘘をついていない。
・本山葵は犯人ではない。もちろん、道明寺久助も犯人ではない。
・犯人は単独犯であり、いかなる形でも共犯は存在しない。

解決編