「久助兄さん。犯人は……寺沢さんだと思う」
突然の告発に、久助は顔を上げる。その動きだけでフケが舞い散り、粉雪のように机に積もった。葵は注意深く息を吸うと、自分の考えを話し始める。
「まず、凛の事件より先に相山さんの事件から話す。相山さんを毒が仕込まれた席へ誘導する方法、それが二つの事件を解く鍵だと思うから」
葵は立ち上がると椅子を持ち、久助の右隣へ移動する。横並びに座る事に何の意味があるのか。久助は訝しげに従姉妹を見つめた。
「久助兄さん。ちょっと、お箸で何か食べるふりしてみてくれる?」
何をさせたいのかさっぱり分からない。そんな表情を浮かべつつ、彼はボールペンを2本持って食事の真似をした。葵も食事をするふりを始めるが、久助の右腕に葵の左ひじが当たって食べにくい事この上ない。
「葵ちゃん、何してるのさ。俺が食べる邪魔をして、何が楽しい事でもあるのかい?」
何故こんなにひじをぶつけるのかと疑問を抱いた久助が見たのは、左手に箸を持つふりをする葵の姿だった。葵は淡々と食事のふりを続け、久助の腕にひじをぶつけ続けた。
「別に楽しくはない。ただ、この実演で分かったと思うけど……右利きの人間の右に左利きの人間が座って食事をすると、互いに邪魔になるよね?」
「まあそりゃ、利き手で箸を持つのが普通だからね。食事の時は右手で箸を持つって左利きもいるけど、それがどうかしたのかい?」
葵は呆れ顔を浮かべる。前々からそれほど出来の良い従兄弟ではないと思っていたが、これほどまでとは思ってもみなかった。
「久助兄さん、本当に分からないの? これが相山さんを誘導したトリックなんだけど」
美穂は右手でベースのネックを持った。ピックは左手に持った。これは彼女が左利きだった事を意味している。ギターやベースのピックは、利き手で持つものだ。そして今日も彼女は右手にグラス、左手に箸を持っていた。彼女は左手で箸を持つ人間であった事は間違いない。
「左利きだった相山さんは最初に部室で会った時も今日も、常に左端の席に座ってた。今回の事件の場合、『左端の席』は相山さんの席と寺沢さんの席の二か所。相山さんにとっては50%のギャンブルだけど、犯人が先に安全な席に座っていたら?」
「なるほど、毒の仕込まれた席に座らざるを得ないわけか。しかし、偶然って可能性を否定しない事には犯人扱いはできない。その辺を考えないとね」
葵は頷き、椅子を元の場所に戻す。再び向き合う形になって座り、久助の指摘通りに他の人間が犯人である場合を考察する。
「仮に小吹さんが犯人だった場合、わざわざ私たちとトイレに行く意味が無い。犯人にとって相山さんがトイレへ行ったのは毒を仕込む千載一遇のチャンスだったはずだもの。トイレが我慢できないほど切羽詰まっていたならとにかく、結局小吹さんは前で待っているだけだった。という事は、小吹さんは犯人から除外しても良いと思う」
「確かに。そもそもアリバイ工作に葵ちゃんを使おうと企んでいたとしても、トイレにどれだけ時間がかかるかなんて不確定だしね。そんな危ない橋を渡るくらいなら、別の機会を狙った方がいい」
葵は指先で唇に触れ、淡々と話し続ける。自分の推理を口に出すたび、思考の温度が低下する。凍えていく脳髄が、次の解を導いた。
「次に、野中さんが犯人だった場合。相山さんが座る時、野中さんはジュースを貰いに席をはずしていた。残ったのは寺沢さんだけど、彼女は20%の確率で毒がある席を選んでしまう。テーブルに着く時は端から座るのが普通だし、25%と言っても良いかも知れない。戻って来てから寺沢さんの位置を見て毒を仕込む事は不可能だったわけで、ジュースを貰いに行く前に毒を仕込んだら寺沢さんをロシアンルーレットに巻き込んでしまう以上、これは避けると思う。どうしてもジュースが欲しかったのなら、全員が席に着いた後で貰いに行けば良い」
「仮に寺沢さんや小吹さんも死んでいいと思っていたなら、もっと綿密な計画を立てただろうしね。正直言って、連続で毒殺するなんてのはずさんな計画だよ。別の毒を使って複数犯に見せかけるならとにかく、同じ毒じゃ意味が無い……まあ今日の事件はこれで良いにしても、昨日の田中さんの事件はどう説明するつもりだい? 寺沢さん、あえて犯人を寺沢さんと言っちまうけど……は、どうやって田中さんだけを狙ったと思う?」
久助は腕を組み、人差し指だけを立てた。中々キザな仕草ではあるのだが、いかんせんくたびれたコートの上にフケまみれの頭を乗せた冴えない従兄弟である。葵の心は微動だにしなかった。そんな従姉妹の心情を知ってか知らずか、久助は話し始める。
「問題点は、どうやって田中さんに毒を塗ったカップを渡したのかという事だよな。田中さんがカップを配った、その時点で彼女に特定のカップを選ばせる工夫が必要なわけだ」
葵はゆっくりと頭を振った。なるほど確かに、毒を塗ったカップが一つだけならばその工夫が必要だろう。だが、全てのカップに毒が塗ってあったとすればどうだろうか。必要な工夫は『どうすれば特定のカップを選ばせられるか』から『どうすれば特定の人物以外の毒を無効化するか』に変化する。
「久助兄さん、発想が間違ってる。カップは全て、毒が塗られていた……左手でカップを持った時、口が当たる位置に。寺沢さんと野中さんは二人とも左手でギターのネックを持っていたし、小吹さんは左手に腕時計をしていた。相山さん以外、右利きだった」
「田中さんはどうなのさ、葵ちゃん」
葵は久助の事を昔から阿呆だ阿呆だとは思っていたが、考えを改める事にした。阿呆の上にドをつける必要がある。もっとも、そんな事を思っても本人に直接言う人間はクズだ。だが葵は自身がクズだと知っているので、素直に言った。
「久助兄さんのド阿呆。凛の利き腕は右だったけど、そんな事は問題じゃない。凛は右腕を骨折していたんだから、左手でティーカップを持つしか無かったんだよ」
「ああ、そう言えば……という事はつまり、田中さんは怪我さえしていなければ毒殺される事は無かった。本来は相山さんを狙ったのに、葵ちゃんと一緒に相山さんが席を外したから田中さんだけが毒を飲んでしまった、と」
「最初から凛も殺すつもりだったのか、それとも相山さんだけを殺すつもりだったのか……それは分からないけれど、寺沢さんにとって凛しか殺せなかった事、もしくは凛を殺してしまった事、これは予想外の事態だった。だからこそ、ずさんだと分かっていても相山さんの殺害を今日実行せざるを得なかったんだと思う」
その時、再び扉がノックされた。相手は先ほど鑑識の書類を持って来てくれた人物らしい。久助は再び会話を交わすと、葵の所へ戻って来た。
「葵ちゃんの推理通りだった。つい今しがた昨日のカップの鑑定が終わったんだが、やはり毒は全員分、葵ちゃんが言った通りの場所に塗られていたそうだ……俺は葵ちゃんの推理を報告書にして、寺沢さんの逮捕状を請求する仕事に入るよ。葵ちゃんはどうする?」
調書をまとめながら問いかける久助に、葵は少しだけ考えてから答えた。
「帰って寝る。昨日と今日は色々ありすぎて、少し疲れた」

葵は自分の部屋へ戻るとベッドに横になり、天井を見上げた。蛍光灯が一本だけ切れた部屋はほのかに暗かったが、起き上って取り変える気分にはなれなかった。そのままの姿勢で2時間ほど無気力に過ごし、やがて瞼を閉じる。凛がもうこの世にいない事を実感し、葵が泣いたのは……目を覚まし、しばらくしてからの事だった。


その後、葵は久助経由で事件の顛末を知った。
犯人は寺沢弓、殺害方法は葵が推理した通り。動機は痴情のもつれ。相山美穂に告白したが既に恋人のいた彼女にその思いは届かず、思い余って美穂、そしてその恋人であった凛を殺害する計画を立てたらしい。亜ヒ酸は大学から盗み出したと供述している。工業大学である以上、様々な薬品が保管されていたそうだ。
五人中の二人を喪い、そして一人を失った「お茶会アフタースクール」、ひいては小吹睦月と野中安曇がこの先どうするのか。興味が無いと言えば嘘になる。けれど、葵は彼女達について詮索しなかった。結局彼女の手元に残ったのは、凛から貰った数枚の楽譜だけだった。

問題編
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