三:大庭佳久、伏木奈々と推理する

 今日もまた図書室で奈々と別れ、練習があるちどりも置いて佳久は一人で帰宅した。制服も脱がずに居間のソファでくつろいでいると、悠子が冷蔵庫から紅茶の紙パックを持ってやって来た。
「おかえり、佳くん。佳くんも紅茶飲む?」
「貰うよ。ありがと、姉さん」
 グラスに注がれた紅茶を受け取り、佳久は喉を潤す。悠子は隣に座ってそれをにこにこと見ていた。
「佳くん、最近帰り遅いよね。何か面白いクラブに入ったの?」
「うん、ミステリー研究会。七不思議について詳しそうだったから。ただまあ、今日は図書室でそれとは別の先輩と話してたんだけどね」
 悠子は嬉しそうに紅茶を飲む。過保護気味な姉に辟易しながら、佳久は平静を装って紅茶を飲んだ。悠子にとって自分はいつまでたっても手のかかる小さな佳くんである事は自覚していたが、それでも少々過保護気味な所は否めない。苦手とまでは言わないが、佳久はこの姉が得意ではなかった。
 と、佳久のポケットから低い音が響いた。授業中に着信音が鳴ると困るのでマナーモードに設定していた事を思い出し、取り出して確認してみると、ちどりからのメールだった。

こんばんは、大庭君。
部長は明日の昼休みなら都合がいいとの事なので、よろしくお願いします。
もし大庭君の都合が悪いようならまた部長に相談するので、連絡下さい。

 明日の昼休みに予定は無い。その時間で構わない旨を返信すると、佳久は携帯を閉じた。閉じた瞬間、女子に返信するメールにしてはそっけなかったかも知れないなどと無用な心配が鎌首をもたげ始める。もう送ってしまった物はどうしようもないと気付くまでの数秒、佳久は女々しく悩み続けた。そんな彼を現実に呼び戻したのは、姉の言葉だった。
「お友達からのメール?」
「ああ、うん。黒木さんって言って、バスケ部の部室で幽霊が出るって話の相談に乗っててね」
「よかった、佳くん、ちゃんとお友達も出来てるのね」
 幼稚園に入学したての子供を心配する母親じゃあるまいし、と想いはするが口には出さない。過保護な姉にはもう慣れていた。佳久は携帯をポケットにしまうと立ち上がる。
「じゃ、僕は自分の部屋にいるから」
「うん、夕御飯が出来たら呼ぶね。それまでに宿題、ちゃんとやっとくのよ?」
 佳久は生返事をしながら自室へ向かう。今日は数学の宿題が出ていたが、果たして何問正解できる事やら。溜息を漏らし、彼はドアノブに手をかけた。

 翌朝。今日はちどりと一緒の電車にはならなかったので、佳久は一人で山道を歩いていた。鞄の重みが容赦なく肩に食い込み、一歩ごとに気力を削いでいく。その時、前方を歩く葉月と継隆の姿が見えた。二人は仲良く談笑し、はたから見れば似合いのカップルのようでもあった。もっとも葉月の方が背が高いので、ありふれたカップルとは言い難い所はある。
「……で、先月分の請求書が来たんだがな。パケット多過ぎってお袋が怒るんだよ。普段通りだって言っても信じてくれなくてさ」
「あはは、そりゃ仕方ないだろ。で、実際どうなんだ? 私はメールと電話くらいしかしないから、その辺よく知らないけどさ」
「それがさあ、お袋、俺の請求書と妹のを見間違えてたんだよ。俺、妹のせいで怒られ損だぜ?」
「そりゃあれだ、お兄ちゃんなんだから我慢しなさい、って事だろ」
 仲睦まじく笑う二人の邪魔をするのは忍びない。佳久は少しだけ歩くペースを落とし、葉月達から距離を取った。少しばかりゆっくりした所で遅刻するほどギリギリの時間ではない事は幸いだった。

 教室に入り、遅れてやって来たちどりと談笑する。そうこうするうちに担任がやって来て、普段通りの眠たい声でホームルームが始まった。そのままの流れで午前の授業を消化し、佳久は昨日と同じくちどりと一緒に弁当を食べる事となる。
「バスケ部の部長さん、待たせて良いのかな」
「うん、お弁当食べてから来てくれって言ってたよ。部長もお昼食べてからの方がゆっくり話せるからって」
「あ、そうなんだ。じゃあいいか」
 今日の弁当は悠子が作ったサンドイッチ。昨日の夕食で何をどう錯乱したのか母親が大量に作ったトンカツを再利用した一品だった。食パンに塗られたマスタードの酸味がソースの甘さと組み合わさって美味かった。一昨日のとんでもない中華弁当を作った母に育てられて何故あんな姉が完成するのか。世の中に不思議というものは確実に存在するのだ。
 食事を終え、二人は教室を出る。目指すは女子バスケ部の部長が待つ二年の教室だ。階段を降り、見知らぬ先輩が大勢いる三階へ向かう。ちどりは物怖じしない性格なのかするりと廊下の人々をすり抜けていくのだが、佳久は彼女について行くだけで精いっぱいだった。
「ここここ、C組。大庭君、ちょっと待っててね。私、部長呼んでくるからさ」
 ちどりはそう言い残すとC組の教室へ入って行った。ミス研の先輩が何組なのかは知らないが、むやみに上級生の教室に入るのも躊躇われる。佳久は大人しく廊下で待つことにした。
「お待たせ、大庭君!」
 帰って来たちどりが連れてきたのは、葉月ほどではないが背の高い女性だった。肩口でバッサリと切り揃えられた髪が活動的な印象を持っている。
「君が大庭君? 私は神取玲。黒木から聞いたと思うけど、バスケ部の部長よ。よろしく」
「はじめまして、神取先輩。大庭佳久です」
 差し出された手を握り、握手を交わす。バスケは鉄棒や格闘技と違ってマメが出来にくいスポーツなのかどうか、意外に滑らかな指だった。
「部室で何が起こっているのかは黒木が説明したと思うけれど……音がする方は建物の老朽化、壁からカレンダーが落ちるのは遠くのトラックの振動がたまたま部室で共鳴したとか、無理やり納得はできると思うの。部室棟は防音はしっかりしているとの事だけど、もう何年も前の建物だもの」
「まあ、確かに。実際どうかは別として、その可能性はありますよね」
 今までに多くの超常現象検証番組で取り沙汰されてきた例を挙げる玲。彼女は彼女なりに色々考えているようだ。学生の身で大々的に検証する事は出来ないが、それでも彼女が言うとおりに無理やり納得する事は出来る現象だ。
「でも、床下のうめき声はどうなんですか?」
「そう、それなのよ大庭君。そればっかりはどうにも納得できないわ。だから、部室の床下に入って調べてみようと思うの。ついては、浦にその許可を取る口添えをしてくれないかしら」
 意外な所で葉月の名前を聞く。床下に入りたいなら入れば良い。何故それに葉月の許可が必要なのか、佳久には分からなかった。ちどりは分かるかもしれないと顔を見てみるが、彼女もさっぱり分からないらしい。きょとんとした顔で玲を見つめている。
「……ああ、ごめんなさい。説明が足りなかったわね。顧問の先生に聞いたのだけど、床下に潜るハッチというか、扉と言うか。それ、ミス研か天文部の部室にしか無いのよ」
 なるほど、それならば葉月の名が出てきた事にも合点がいく。佳久が頷くと、玲はなら早速、と呟いて佳久の手を取って歩き始めた。
「確か浦はD組だったかしら。善は急げと言うものね」
 彼女に手を引かれるまま、隣のD組の教室に入る。教室の窓際前方、席替えをしていないのなら出席番号1番の席でミス研の会員が集まって談笑していた。
「あれ、どしたん大庭君。神取さんと一年の子つれて。モテモテやねぇ?」
 いち早く気付いたのは円だった。相変わらず顔の上半分が前髪で見えないのに、目敏さは一番だった。
「いやその、僕が連れてきた訳じゃなくってですね。その、鈴原先輩に昨日話したバスケ部の事で」
「ああ、それか。今ちょうど話してた所だったんだけど……そうか、神取が女子バスケ部の部長だったっけ?」
 継隆と暁は近くの空席から椅子を集めると、佳久達に渡す。全員が座ったのを確認してから、葉月が玲に問いかけた。
「で、神取。わざわざあんたが来たって事は、なんか話があるんだろ?」
 鋭い眼つきも相まってほとんど喧嘩腰の発言に聞こえるが、さすがに同学年だけあって不機嫌が不機嫌でないかの見分けはつくらしい。玲は神妙な顔で頷いた。
「うちの部室の床下を見てみたいと思うの。それで、床下に入るにはミス研の部室からしか入れないじゃない? だから、出入りする許可が欲しいのだけど」
「何だ、そんな事か。部室を交換しろとか面倒臭い事言われるかと思ってひやっとしたじゃんか。その程度なら構わないよな、皆」
 葉月は会員を見回す。誰一人異論をはさまないかと思った時、暁が小さく手を上げた。何を言われるのかと、玲の表情が少しこわばる。
「悪いけど、少し条件を付けさせてほしい。床下に入るのは構わないけれど、せっかくの幽霊騒ぎだ。実地に見てみたいし、僕も一緒に入って良いだろうか」
「あ、それならあたしも見てみたいな。継隆、円はどうだ?」
 幽霊好きな円は一も二も無く頷き、継隆も仲間外れは嫌らしい。ならばついでに自分も立候補して構わないだろう。佳久は僕も、と手を上げた。無論、怖い話が苦手なちどりは青い顔をして首を左右に振って拒絶していた。
「そうね、ミス研の人も調べてくれるなら心強いわ。それじゃあ急で悪いけど、今日の放課後にお邪魔していいかしら」
「おっけ、放課後な。大庭君も遅れるなよ、封印された悪霊との一大スペクタクルに乗り遅れても知らないぜ?」
 からからと快活に笑い、葉月は佳久の肩を叩く。その瞬間に鳴った予鈴を合図に、佳久とちどりは先輩たちに頭を下げると一年生の教室へ戻る事にした。

 午後の授業を耐え抜き、佳久とちどりは二年生の教室へ向かう。何度も何度も床下へは入らないと念を押すちどりをなだめつつ、先輩と合流した佳久は部室棟へ向かった。もちろん職員室で部室の鍵を借りる事は忘れない。部室が近付くにつれ、佳久の胸で期待が高まっていった。陳腐なホラー映画のように床下に白骨や数々の御札が、等とは期待していない。それでも何かあれば、とオカルト好きの血が騒ぐのだ。
「あ、そうそう。男衆はちょっと荷物運び頼むぞ。ほら、床下のハッチの上、ロッカー置いてるしさ」
 先日触るなと言われたロッカーを指さし、葉月はあっけらかんと言い放つ。ロッカー自体は腰程度の高さしかない物だが、その上には雑多に物が積まれている。貴重品が入っていると聞いているし、壊したりすれば大事だ。佳久は継隆と暁のサポートに徹する事にした。
 ウィジャボード、古びたタロット、柄に宝石のはまった短剣。高校の部室にあってはならない類の品物が続々と机の上に移動して行く。最後に空になったロッカーを動かし、床下への道が開かれた。部室も埃臭いが、大きく口を開けた床下の埃臭さも相当だった。
「じゃ、最初にあたしと継隆、暁と円はその次、最後に大庭君と神取な。床下なんて同時に何人もは入れないだろ?」
 佳久も出来れば早く入りたかったが、年功序列に従う事にする。何かあれば触らずにちゃんと見せてくれると約束してくれた事も大きかった。
「じゃ、行こうぜ葉月」
 継隆は携帯を取り出し、ライトを照明代わりに床下へ潜る。それに続き、葉月が下りて行った。ぼんやりと頼りない携帯のライトがバスケ部部室の方へと消えていく。
「どうよ継隆、何か見えるか?」
「いや、こっちには何も。葉月は何か見つけたか?」
「見つけてたらお前に聞かないっての。脳で物考えてから喋れよ」
 軽口を言いあいながら探索する二人。だが結果は芳しくないのか、数分で戻ってきた。戻ってきた二人からは壮絶な埃の匂いが漂っていた。
「ったく、何にもねーな。暁、円、交代だ」
 暁と円も携帯を操作し、ライトを灯す。だが、やはり数分で帰ってきた彼らにも収穫は無かった。苦笑しながら肩をすくめる暁たちと交代し、佳久は玲と一緒に床下へ下りた。
「真っ暗ね。ライトが無いと何も見えないわ」
 うず高く積もった埃に、葉月達の物だろう手形足形が残されている。その後を辿り、佳久と玲はバスケ部部室直下まで到着した。周りをライトで照らしてみるが、これと言って気になる物は無い。玲も目を皿にして探しているが、目ぼしい物は何一つ見つからなかった。数分探しただけで埃臭さは耐えきれないレベルに達する。どこか秘密の抜け道があって、そこから入ってきた人間がうめき声をあげているわけでもなさそうだ。
「何も無いみたいね……大庭君、残念だけどもう帰りましょう。ここは空気が悪いわ」
「分かりました、神取先輩」
 佳久は玲に続き、床下から部室へ戻った。部室も埃臭いが、床下よりはましだ。比較的新鮮な空気を吸い、佳久は一息ついた。
「神取さん、堪忍な。何にも見つけられへんかった」
「いいえ、こちらこそごめんなさい、手間をかけさせたわね」
 互いにねぎらいの言葉をかける円と玲。その横で葉月がもう一度床下へ下りようとしていた。
「あれ、どうしたんですか?」
「ん、さっき携帯のストラップ落としちゃったみたいでさ。少し探してくる。閉めるなよ、化けて出るぞ?」
 冗談を言ってから床下へ潜っていく葉月。閉めるなと言ってもハッチには鍵も何もなく、上から何かで押さえない限りは自由に出入りできそうだ。バスケ部部室下まで往復したかしないかの時間で帰ってくると、葉月はナスカンの外れたストラップを見せた。カブレラストーンを模したデザインの小さな物を、よくあの暗闇ですぐに見つけ出せたものだ。
「じゃ、閉めるぜ。暁と大庭はロッカーとか戻すの、手伝ってくれよ」
 継隆が言い、床下への扉は閉ざされた。ロッカーの中と上に荷物が戻され、部室は普段と同じ姿を取り戻す。ただ一つ違うのは、ちどりを除いた全員が大なり小なり埃臭い事だった。
「ごめんなさい、騒がせてしまって」
 肩を落とし、頭を下げる玲。怪奇現象の手がかり一つでも落ちていればよかったのだが、収穫ゼロというのは精神的な負担になる。佳久は彼女とちどりの力になれなかった事に忸怩たる思いを抱えていたが、何も見つけられなかった物はどうしようもない。葉月達は床下探検が楽しかったのか薄い笑みを浮かべているのが、しょんぼりしたバスケ部の二人と対照的だった。

 その後は練習が無い日なので帰るというバスケ部の二人と別れ、佳久はミス研部室で先輩達と話をして過ごした。しかし、心のどこかで引っかかりがある。この幽霊騒ぎが解決できそうなのに、推理するピースは全て出揃った気がするのに、それを組み合わせる事が出来ないもどかしさ。佳久は適当な口実を設けて早めに部室を辞すると、そのまま図書室へと足を向ける。そうしなければならない、そうするべきだ……心のどこかで響く、そんな声に導かれて。

「それで、私に相談しに来たのね」
 一番奥の自習室。軋む扉の向こうで彼女は今日も座っていた。佳久に椅子を勧め、自分は机に腰を下ろす普段通りのポジション。奈々はいつになく真面目な目で佳久を見つめると、足を組んで右手を口元へと持っていった。軽く曲げた人差し指を唇に添え、奈々は視線を正面に、扉の小窓から見える図書室に向ける。
「ねえ、佳久君。この数日の出来事を、思い出せる範囲で明確に教えて。ミス研の先輩、バスケ部の部長さん、えっと、ちどりさんだっけ? 彼女の事も、全部」
 周囲の気温が下がったような錯覚。佳久は唾を飲むと、可能な限り全ての情報を奈々に伝えた。ミス研の部室に初めて行った時の事、ちどりに幽霊騒ぎを聞いた時の事、それを継隆に相談した時の事、玲と一緒に床下へ潜った経緯……それらを全て語り終えた時、奈々は優しげな微笑みを浮かべた。
「ありがとう、佳久君。そうね、ここは『謎が解けた』って格好よく決め台詞でも言っておくべき場所なのかな? 格好いい台詞は、何も思いつかないけれど」
 そして奈々は唐突に自分の考えを語り始めた。佳久はその考えを聞きながら、安楽椅子探偵という言葉を思い出していた。だが、彼女が座っているのは安楽椅子ではなく自習室の机だ。さしずめ自習室探偵か図書室探偵……だと少し語感が悪い気がする。図書館探偵。そう、伏木奈々を形容するならばその言葉がしっくりくる。図書館探偵、伏木奈々。その誕生に立ち会えた事を、佳久は少し嬉しく思った。
「……と考えれば、一応説明できるわ。じゃあ佳久君、ミス研やバスケ部の人には、君が推理したって事で説明しておいてくれる? 明日の昼休みくらいに推理を披露すれば、結構受けると思うわよ」
「僕が、ですか? 伏木先輩が推理したんですから、先輩が言うべきでは?」
 漫画の少年探偵ではあるまいし、関係者を集めての推理披露など恥ずかしくて顔から火が出る。必死になって奈々に推理を語ってくれと頼み込むが、彼女は頑なに拒否し続けた。
「はあ、分かりましたよ。僕がやりますよ」
 根負けし、佳久はため息交じりに探偵役を引き受ける。正しい推理ならそれで良いし、間違っていても奈々の責任にしてしまえばそれでいい。自分はただの代弁者、腹話術の人形だ。そう思い込む事で佳久は恥ずかしさを押さえこんだ。
「うん、分かればよろしい。終わったら、どうなったか聞かせてね。それじゃ佳久君、おつかれさま」
 奈々が微笑むと同時に、下校時刻を知らせるチャイムが響く。今日もまた手を振る奈々を自習室に残し、佳久は学校を後にした。
 正直に言って気は進まない。だが、奈々に押し切られる形だったとしても約束した事だ。佳久は鞄からウォークマンを取り出すと、イヤホンを耳に入れる。お気に入りの曲をリピート再生しながら下りる山道に射す夕日は、昨日より少し眩しく思えた。

 その夜、佳久はちどりにメールを送った。明日の昼休み、玲に会えるようにしてほしい事。それにちどりも同席してほしい事。そして、幽霊騒ぎが解決できるかもしれない事。詳しい内容は明日話すからと書き添えて、佳久は送信ボタンを押した。メールの文面を考えるだけで一時間以上かけた佳久は、早めに布団に入る事にした。明日は推理を披露するという大役を仰せつかっているのだ。目を閉じ、深く息を吸う。意識が夜に溶けるまで、佳久はそうやって心を落ち着け続けた。

「大庭君、部長にはお昼食べたら行きますって連絡しといたけど。幽霊騒ぎを解決できるってどうやるの? お坊さんとかエクソシストとかの知り合いがいるとか?」
 昼休みの教室、卵と鶏肉のそぼろご飯をつつきながらちどりは問いかける。豚肉の生姜焼きを飲み込んでから、佳久は答えた。
「そんな便利な知り合いはいないよ。それに、ただの推測だから違うかもしれないし」
「そうなんだ……まあ、私は幽霊に怖がらないですむならどういう結果でもいいんだけど」
「うん、まあ頑張るよ……御馳走さま」
 弁当箱に蓋をし、ちどりが食べ終わるのを待つ。米の一粒も残さずに完食したちどりを伴って、佳久は三階へ向かった。ちどりに玲を呼び出してもらおうと思っていたのだが、彼女はどうやら佳久達より早めに食べ終えていたらしい。廊下の壁にもたれた彼女と目が合った。
「こんにちは、神取先輩。黒木さんからメールが行ったとは思うんですけど、幽霊騒ぎに一応の説明がつくと思うんです……ミス研の先輩達にも一緒に話をしたいので、D組で話しても良いですか?」
「ええ、構わないわ。それじゃ、行きましょ」
 くるりと身を翻し、玲はD組へと向かい始める。浦達ミス研の四人は、昨日と同じ場所にいた。ESPカードで遊んでいたらしい暁が星のカードをめくった所で動きを止める。
「おいおい、今日はどうしたんだよ神取? 今度は天井裏を見せろってか?」
 からからと笑う葉月。喧嘩を売るような物言いだったが、玲も思わず吹き出していた。何とか場が和やかにおさまった事に安堵し、佳久は小さく右手を上げる。
「先輩。バスケ部部室の幽霊騒ぎについて、僕なりに考えてみたんです。少し、話を聞いていただけませんか?」
 継隆は昨日と同じく椅子を三つ集めると、佳久達に差し出した。好意に甘えて腰を下ろし、佳久は奈々の推理、その代弁を始める。
「結論から言うと、あの幽霊騒ぎは偽物です。幽霊なんかいません。そして犯人はミス研の先輩達です」
 にやり、と葉月が笑う。獲物を見つけた猛獣が笑みを浮かべるとすれば、そんな顔だろう。青ざめる心を押さえながら、佳久は唾を飲み込んだ。
「僕達が犯人、だって? 疑われるのは構わないが、その根拠はあるんだろうね」
 暁が眼鏡を押し上げ、そのレンズを光らせる。佳久はもちろんですとだけ答え、奈々の推理を再生し始めた。
「まず、バスケ部部室は去年までエスペラント語研究会が使っていました。その隣の天文部が廃部になったのも去年から。本当に幽霊が出るのであれば、もう何年も前から騒がれていないとおかしい筈です。それなのに今年、女子バスケ部が創設されて初めて幽霊が話題になった。これはこの騒ぎが今年からだ、という事です」
「そうね、私が一年生の時には部室の幽霊なんて聞いた事も無かったわ」
 玲が頷く。ミス研は何も言わず、ただ葉月だけが視線で話の続きを促した。
「天文部も廃部になった事で、床下に潜る道がミス研以外無くなりました。もちろん天文部の部室を開ければ良いんですが、少なくとも常時使えるのはミス研だけです。それと、ミス研のハッチは床下からでも自由に開けられる印象でした。多分、天文部も同じだと思います。とすれば、ミス研から床下を通れば天文部にも入れる事になりますよね?」
 なるほど、とちどりが膝を打った。佳久は唾を飲み込み、続きを話す。
「部室棟は防音がそこそこしっかりしてるみたいですし、隣の部屋に人が一人いるくらいじゃ気付かれないと思います。そこで壁をハンマーで叩けばラップ音は作れるし、振動でバスケ部のカレンダーを留める画鋲を外すくらいはできると思います。実験した訳じゃないので、推論ですけどね。音を出したりした後はハッチをくぐってミス研に戻れば良いんですし、立ち入り禁止のプレートを出して鍵をかけておけば、ミス研が空室になっているのも見られずすみます。ロッカーも中の荷物さえ出してしまえばそんなに重い物じゃないですしね。それと、カレンダーの位置はバスケ部が練習しない日なんかに職員室から鍵を持って行って中を覗けば確認できます。プレート以外はほとんど同じような鍵ですし、ミス研の鍵とバスケ部を……いや、いっそ天文部の鍵でも構いませんね。その場所を交換してしまえば、ぱっと見ただけではバスケ部の鍵が無いなんて気付かれません」
「なるほど、ラップ音とポルターガイストはそれで説明できるな。けど、うめき声の方はどうなん。声の聞こえた時間、うちらの誰かが床下に潜ってうめいてたって事? それやったらうちら、アリバイが……」
「いえ、アリバイは関係ありません。声の聞こえる瞬間に誰かが床下にいる必要なんか無いんです。鈴原先輩、先輩の財布のカードを拾った時、携帯のプリペイドカードがありました。けれど、先輩は昨日の朝に浦先輩と携帯の領収書が届いて、という話をしていました。プリペイドカードなら領収書なんか送ってきません。先輩は二つ携帯電話を持っているんです。そして、片方を床下に置いておいた。その携帯の着信音をうめき声にしてしまえば、アリバイに関係なくただ電話をかけるだけで幽霊の声が演出できます。先輩方それぞれの携帯で着信音を変えておけば四パターンも声が出せるわけで、いつも同じ声がするから録音だ、などとばれるリスクも軽減できます。あの時先輩達が最初に潜って、最後に浦先輩が潜ったのも、最初に回収した携帯をもう一度置きに行ったからじゃないですか?」
 葉月が溜息を漏らし、右手で顔を覆った。目元は見えないが、口元は笑っている。
「ったく、とんだ名探偵を仮入部させちまったな。去年の『生首地球儀』みたいに、新しい七不思議を作って遊ぼうかと思っただけだったんだが……なあ神取、この幽霊騒ぎってそっちの顧問に話したりした?」
「え、ええ。英語の富士田先生に相談したけど」
「とすると、ここで神取に頭下げてなぁなぁにってのも無理があるか。よし、ちょっと自首しに行ってくるわ。野郎ども、行くぞ!」
 すっくと立ち上がる葉月。他のミス研部員も彼女の後に続いた。葉月はすれ違いざまに佳久の肩を軽く叩くと、手をひらひらさせながら後ろ向きで立ち止まった。
「悪いな、大庭君。英語の富士田はすっごい厳しい奴だから、多分ミス研、廃部だわ。たった数日だったけど、お前との部活は楽しかったぜ?」
 じゃあな、と笑って職員室へ向かう葉月。彼女達を見送りながら、佳久はちくりと胸に痛みを覚えていた。

「すごいね、大庭君。部長も喜んでたし」
 一年の教室に戻りながら、ちどりは笑う。佳久も曖昧に笑いながら、何か今からでも別のクラブを探しなおすべきだろうか、と考えていた。文芸部は論外として、他に何か面白いクラブはあっただろうか。鞄の中で皺くちゃになっていたクラブ説明のパンフレットをもう一度取り出して眺めながら、佳久は午後の授業を過ごす。やがて間延びした終礼も終わり、コンピューター研究会にでも足を延ばしてみようかと教室を出た時だった。
「お、良かった良かった、まだ教室にいたな」
 いきなり首を掴まれ、廊下の端に連行される。何事かと首を捻って見れば、いたずらな笑みを浮かべた葉月だった。彼女は壁際に佳久を追いやると、顔の横に手をついた。ほとんど不良がカツアゲする構図である。まさか、廃部になった腹いせに佳久を殴りにでも来たのだろうか。気付けば暁、継隆、円も揃って笑みを浮かべている。
「大庭君、ミステリー研究会会長就任、おめでとう」
「……はい?」
「いやあ、昼に予想したとおりに見事に廃部くらっちゃってな。で、仕方ないから腹いせに『ミステリー研究会』の設立届け出してやった。で、会長が大庭君な。サイン偽造してやった」
「大庭君、自分のサインはちゃんと管理せなあかんでぇ?」
 にまにまと口元を緩ませ、円は一枚の紙を見せる。仮入部の際にサインした、あの紙だ。
「もちろん断っても良いんだがな、こわぁい四人の先輩に廃部にされた恨みを持たれて過ごすか、『ミステリー研究会』の会長になって学校の事件を解決する面倒くさい日々を過ごすか、どっちが賢いと思う?」
「え、その、まさかその『ミステリー』って」
 しどろもどろに質問する佳久に、眼鏡を押し上げながら暁が言う。彼の冷静な声が、今は何故か強迫的に聞こえた。
「決まっているじゃないか。謎解きのミステリーだよ、名探偵君。ああそうだ、ささやかな贈り物として君が会長になるなら、旧ミス研の部室にあった俺達の私物は全部プレゼントしようじゃないか。オカルト探偵っぽくて受けも良いと思うが?」
「あたし達のクラブを無くしてくれた、ささやかな意趣返しさ。引き受けてくれるって言うなら、このまま大人しくするけど……さあ、どうする?」
 にまり、と凄絶な笑みを浮かべる葉月。逆らったら殴られそうな気がする、というか絶対に殴られる。佳久は一も二も無く頷いていた。
「よし、決まりだな。それじゃあ今後の活動方針なんかは適当に考えといてやるから。じゃあまたな、大庭君」
 佳久の頭を乱暴に撫で、葉月は歯を見せて笑う。へたへたと腰を抜かした佳久は、この恐怖の腹いせを奈々にぶつける事にした。もとはと言えば奈々の推理を代弁したからこんな事になったのだ、という思いが復讐の連鎖を生む。それが愚かな事だと知りながら、佳久は自分の衝動を止められなかった。

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