『DEATH』 Track・1/Life-And-Death

(1−1:沢村史郎)

俺、沢村史郎(サワムラ・シロウ)は小さい頃、一度だけ…凄惨な事故を、見た事がある。
辺り一面が真っ赤に染まって、錆みたいな匂いが漂っていたのを覚えている。居眠り運転のトラックが二、三人を巻き込んで自転車の少女を撥ねた、と周囲の大人が話していた。俺――いや、当時は『僕』だ――は、学校帰りのその光景を、まるで一つの芸術であるかの様に感じていた。
いや、俺の名誉のためにも、当時の『僕』は血や死が好きな痛んだ少年ではなかったという事だけは明言しておく。僕が魅力を感じたのは、そう…目の前で起きた交通事故という、非日常性だったのだから。
そう、当時から僕は『非日常』に執着とさえ言える強い憧れを抱いていた。
その変な趣向の理由も分かっている。『非日常』にはめったに出会えず、そして、それが平凡な事では無いからだった。僕自身は、これ以上無いほどに平凡な少年だったから。
成績も、運動も、背の高さだって…何もかもが、平均的だった。
いや、一つだけ。たった一つだけ、他の人は持っていない物があった。それは、この両目だった。俺の目は生まれつき、常識にチャンネルが合っていなかった。けれど、その目が生まれつきなら…それが他の人にとってどんなに『非日常』でも、僕にとっては『日常』だった。例えその目が、幽霊を見る事が出来る目だったとしても。
だから僕は、その事故現場を後にした。新しい幽霊の姿が見えないという事は、死人は出ないという事だ。死人の出ない交通事故なんて、少しばかり流される血の量が多いだけで、自転車が転んで膝を擦り剥いた事と大差無い。それは『日常』の延長線。
だから俺は、あんな事が無ければその事故の事を今まで覚えてはいなかっただろう。

僕が最後にちらりと、事故現場を振り返った時。担架で救急車に運ばれる少女の、血の気のひいた真っ青な顔と目が合った。少女の髪の毛は恐怖のためか真っ白になって、額から流れる鮮血がそれを綺麗な真紅に染め上げていた。

―――――――――――――――チリリリリリリリ

「…くそ」
俺は目覚し時計を止め、布団から這い出した。梅雨を間近に控えているというのに、太陽は燦然と輝き、その有り余るエネルギーをカーテンの隙間から浴びせてきた。
欠伸を噛み殺しつつ、洗面所で顔を洗う。夢に出てきたあの少女の顔が、網膜に焼きついて離れない。本物の大怪我人というのは、下手なホラー映画より性質が悪い。何と言っても、ホラー映画はどう見事に演出しようが、結局は作り物だ。それに比べ、怪我はいつ自分の身に降りかかるか分からないのだから、現実的な恐怖という点では圧倒的に勝る。
「にしても、何であの時の夢なんて…」
ぶつくさ言いながら、食卓兼居間へ向かう。俺の服装は寝ていた時のランニングと短パンだが、誰にも文句は言われない。これは俺の家族がそういう事に無頓着だというのではなく、単に一緒に暮らしていないからだ。
親父は外交官で、今は外国に駐留している。母親は俺を生んですぐに死んだ。姉貴が一人居るには居るが、成人しているので住居は別だ。親が海外なんだから一緒に暮らしても良いが、姉貴は放浪癖がある。時折ふらっと旅に出て、数ヶ月帰ってこない事もざらだ。今回はイタリアに行くと聞いたから、今ごろはマフィアとでも一緒に居るんだろう。せいぜい様々な経験をつんで帰って来るが良いさ。
とにかく、俺はぼろいアパートで一人暮らしをしていた。高校生男子の一人暮らし。親の干渉が無いのは嬉しいが、食事から洗濯まで、全部自分でやるのは面倒だ。かと言って、そんな事をやってくれる彼女を持つような甲斐性も無い。結局のところ、俺には適当に毎日をやりくりする他の選択肢は無かった。
「今日もトーストにするか…」
買い置きの食パンにまだカビが生えていない事を確認し、トースターに押し込む。トーストが焼けるまでの数分で、俺は学ランに着替えた。ちなみに、俺が通う私立高揚学園高校は創立百年以上の伝統溢れる名門校の癖に、異常なまで自由な校風が評判だ。特筆すべきは、制服が二種類もある事だろう。男子は学ランかブレザー、女子はセーラーかブレザー。これを自由に選んで良いと言うのだから、それは最早自由ではなく放任だと思う。もっとも、これは概ね生徒、特におしゃれに敏感な女子に好評なシステムだ。俺だって現状に文句は無いし、学校の奇妙な規則に従っている。
ズボンのベルトを締めていると、丁度トーストが焼きあがった。俺は椅子に座り、バターとジャムを塗って朝食をとる。飲み物は牛乳。値段の割に栄養価も高く、一人暮らしには最適の飲料だ。なんだか異常に所帯じみている様な気がしないでもないが、まあ仕方ない。

「さて、そろそろ学校行くか」
鞄を抱え、愛用の革靴(学校指定ではなく、単に俺が気に入っているだけ)を履く。
赤錆の色濃く浮いたアパートの階段を軋ませ、俺はアパートの門に出る。丁度、一階の渡辺さんと目が合った。
「おはようございます、渡辺さん」
『ああ、おはよう史郎君。学校は楽しいかい?』
にこやかに尋ねる渡辺さんに、俺も笑顔で応じる。
「ええ、おかげさまで。じゃ、行って来ます」
行ってらっしゃい、と渡辺さんは血塗れの手を振る。俺の胸が、少し痛んだ。
何故なら、『一階の渡辺さん』はもう死んでいるからだ。数年前にアパートの前で事故にあい、頭部を強く打って即死。自分が死んだ事を自覚出来ているだけに、憐れな霊だった。何が原因で現世に留まっているのか分かれば、俺にも成仏の手助けくらいなら出来るかも知れないのに…
そう思いながらも、通学路を歩く。この道、他人から見たら普通の通学風景にしか見えないのだろう。だが、本当にそうなのか俺に知る術は無い。俺の目は何時いかなる時であろうと、霊に焦点を合わせてしまう。俺は、幽霊が居ない世界を見た事が無い。
だから、今でも俺に友達は少ない。他人は俺と住む世界が違うのだから、それは至極当然の理だ。今まで、ただ一人の例外を除いて。
「おい、史郎。何暗い顔してんだよ、辛気臭ぇな」
かけられた声に振り向くと、金色の箒が見えた。
否。金髪を箒の様に固めた、友人の頭が見えた。
「おはよう、戒治。珍しいな、今日は一時限目から出席するのか?」
今までの人生で唯一の例外…俺と同じく『幽霊が見える男』、鎌田戒治(カマダ・カイジ)だった。奴はいつも通りの服装、短ランにボンタンだった。何世代前の不良だ貴様。
とまあ、髪形や服装から不良に見られがちな戒治。確かにこいつは無断欠席や遅刻、自主早退の常習犯だが、そう悪い奴では無い。ただ、必要以上に自由な奴だというだけだ。
そんな戒治は歯を見せて笑い、俺の肩に腕を回してきた。戒治は俺より若干背が高いので、軽くのしかかられる様な形になる。
「オレはサボる時は単位計算してサボるからな。今学期はもう、美虎(ミトラ)ちゃんの国語はサボれねぇし、これ以上評価点下げるわけにもいかないんだ」
…奴の言いたい事が分かってきた。これでも俺と戒治は小学校以来の付き合いだ、以心伝心とまでは言わなくても、ある程度は言葉を使わなくても分かり合える関係である。
「お前、宿題全部は出来てないんだろ。で、出来てない部分は俺のプリントを写させてもらおう、と。そういう訳だな?」
「惜しいな、史郎。オレが宿題を中途半端にする様な、意志薄弱な男だと思ったか?」
ああ、お前の意志が薄弱だとは決して思わない。お前は見ていて気持ちが良いほど、終始一貫した男だ。何と言っても、小学校で気味悪がられていた俺とこうして十年来の友人関係が出来る位の男なんだ。
「悪かった、戒治。訂正しよう。お前は宿題を途中で投げ出す位なら、初めから一問たりともやらない男だという事を失念していた。つまりお前。宿題を全くやってないんだな。で、全部俺のプリントを写させてもらおう、と。そういう訳だな?」
戒治がにやりと笑う。やはり正解だったようだが、学生としては著しい不正解具合である。
「頼む、史郎。帰りに商店街でラーメン奢るから、な?」
両手を合わせて懇願する戒治。そこまでやられては、友人として手助けしない訳にはいかない。そこで、俺は快く了承した。
「味付け卵もプラスだ。そうでないと、俺のプリントは貸せんな」
「くそ、ここに悪魔が居やがる…」
ああ、なんて平和なんだろう。こんな他愛も無い会話だが、戒治とは少しも気をおかずに話す事が出来る。少ないながらも親密な友人。
そんな、俺にとって掛け替えの無い日常が瓦解する日が…すぐそこにまで、迫っていたなんて。

二年A組の教室に入り、窓際最後尾の机の上に鞄を投げ出す。その中から国語のノートを探し出し、それに挟んでいた宿題のプリントを戒治に差し出した。
「ほら、これ。ただし、内容が正しい自信は無いぞ?」
そう言うが、戒治は全く気にしない様子だった。
「大丈夫だって、史郎。お前は何者だ、このミスター平均点が。お前のプリントを写しておけば、絶対にクラス平均になるんだよ」
苦笑してかわすが、その言葉は俺の思考を澱んだ方向へと引きずる。戒治に悪気は無いだろうし、絶対的に正しい事実なので何も反論は出来ない。
そう、ミスター平均点。
この不名誉なのか名誉なのか分からない称号が、俺のもう一つの異常性だった。
物事を統計化すれば、そこには必ず平均が生まれる。偏差値50、という奴だ。そして、この世のどこかにはその偏差値50を取った奴が存在するという事だ。ただ俺の場合、全ての偏差値が50だ。得意や苦手など許されず、オールマイティーに平均点。
そう、俺は俺が属する集団で統計を取ると、確実に平均点ジャストを弾き出すのだった。
テストでは一点の違いも無く平均点。
体力テストはなんと、全ての種目で全国平均ジャスト。
倍率2以上の試験などには受かった事が無い。
毎回そんな結果が出る度、もう少し頑張れと怒られる。俺だって昔はそんな自分が嫌でやりたくも無い努力をした。だが、親や教師が諦めるより前に、俺は気付いてしまった。
いくら頑張っても、いや、逆にいくら頑張らなくても、俺は確実に平均だ。今までそうだっただけで、これからもそうなのかは分からない。だが、少なくとも今までは…俺は、平均点以外を取った事が無い。
だが、これを異能と呼ぶ事は憚られる。異能と言うのは、他の人には無い、他の人を超えた技能の事だ。何があっても平均点というのは異常だが、他の人だって出来る範囲の事でしか無い。だから異常性だが異能では無いと、俺は思う。
ただし、それが良い事なのか悪い事なのかは分からない。優れてはいないが、劣ってもいないという事だから、悲観するべき事ではない。けれどこれは、祝福ではなく呪縛に近い。俺の努力を、俺の意志を…いとも簡単に、全否定するという事なのだから。

「…(無言)」
右手ではシャーペンを指先でくるくる回しながら、俺は左手で頬杖を突いて窓から外を見ていた。教壇では美虎ちゃんが国語の授業をやっているが、どうせ俺は授業を受けなくても平均点だ。やる気など、起ころう筈も無い。
適当に板書をし、適当に教科書を捲る。それが、俺のいつもの授業風景だった。欠伸を寸前で噛み殺し、シャーペンと消しゴム、そして時間とカロリーだけを消費していく毎日。俺はこの日常に、明らかに退屈しきっていた。けれど、それを変える努力はしない。変わらない事は退屈だが、一度変わってしまえば、そう…二度と、この日常は帰って来ないと知っていたから。
俺を取り巻くこの環境は、いくつもの奇跡と偶然によって構成されている。二度とは構成され得ない。例え神様が気紛れを起こして、メビウスの帯やクラインの壷に似た連続を、最初の七日間から幾度も繰り返したとしても…二度と同じ環境には、辿り着けないだろう。俺には、その確信があった。
だから、俺は日常が好きだ。
生まれた時から幽霊と生者、死と生の入り混じったこんな風景しか見えていないとしても…それでも、それは俺の日常だ。
ああ、俺自身がどの様な存在であろうとも、この地球は自転と公転を繰り返すし、林檎は木から落ちるのだろう。ついでに、戒治は宿題を忘れ続けるに違いない。 例え俺がどんなに非凡な存在でも、逆にどんなに平凡な存在でも。それがこの世界全体に影響するとは考えられない。けれど、俺は俺だ。
誰にも邪魔されず、この日常を謳歌してもいい筈だろう?

誰にだって、幸せを感じる権利がある。
俺にだって、幸せを感じる権利がある。
難しいのはその履行と享受、そして妥協だ。
この世の誰にも、幸せになる権利なんて無い。けれど、幸せを探す、もしくは現状を幸せと感じる…そんな小さな権利は、誰にだってあっていい筈だ。神様も、それ位はお許しになるだろう。
今まで幾度も繰り返し提示した解答を、今日もまた導き出す。
俺は、視線を黒板に向けた。美虎ちゃんがその小柄な身体で頑張って黒板に書き連ねる白墨を追いかけて、右手の回転運動を止めたシャーペンをノートの上に走らせる。
今日もまた、なる様になるさ。日常を変える?出来もしない事を悩んでも、仕方が無い。
物事なんて、変えようとしないでも変わっていく。そのうち俺だって平均点以外を取るかもしれないし、取らないかもしれない。けれど、今はそんな事を悩む必要は無い。
悩むなら、必要な時に悩めばいい。
とりあえず今日の帰りは戒治の奢り、商店街のラーメン(+味付け卵)だ。

Prelude     1−2

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