(1−2:黒木つばめ)

『ふぅむ、どれが史郎君かな』
私は電信柱の上から双眼鏡を覗き、呟く。仮面越しなので非常に見辛いが、これも仕事なので我慢だ。早紀は地面で資料を流し読みしながら、私に向かって彼の情報を伝え始めた。
『えっとなぁ、黒髪で黒目。中肉中背、髪の毛の長さは普通。メガネはかけとらへん。成績普通、体力普通。部活動は帰宅部。うっわ、えらい普通の人間やな。特徴言うんが一つもあらへんわ』
なかなか酷い事を言う早紀だが、確かに呆れるほどに普通な男の子だ。私は教室の人間をチェックし、窓際の一番後ろで条件に当てはまる少年を見つけた。確かに特徴の無い顔立ちだが、どこかで見たような気がする顔だ。特徴が無いからこそ、誰にでも似ている顔だとも言えるのだが…
『にしても、不憫よね。彼、高校二年生でしょ?』
ポツリと漏らした呟きに、早紀の横で黙って立っていた藍が反応を示した。
『ですが、つばめ様。上の命令です。自分達に拒否権はありませんよ』
そうだけどね、と私は答える。
『私がこの仕事についたのも、あの年頃だったから。何か色々と感じる物が有ったり無かったり、ね』
早紀は仮面の上からでもそれと分かる苦笑を漏らすと、地面を蹴った。一跳びで私の横に並び、電線の上に立つ。
『仕事に私情挟んだらあかんでぇ、つばめ。正直辛い仕事やけどな、うちら。けど、仕事は仕事。な?』
真っ黒い制服の裾を摘み、早紀はひらひらと振って見せる。そんな事、言われなくても分かっている。私は電信柱を蹴って、地面に降り立った。両膝を折り曲げ、片手を添えて衝撃を逃がす。膝立ちの姿勢から立ち上がると、藍が心配そうな顔で話し掛けてきた。
『つばめ様、早紀様。どうやら彼、史郎様は霊体を視認出来るようです。搦め手で攻めるべきかと思いますが…』
早紀は流し読んだ資料だが、真面目な藍は隅から隅まで目を通していた様だ。最後にチラッと、『特記事項:霊体を認識可能』と書いてある。
『なんやねんな、こういう大事な事はちゃんと、大きい字で書くとか文字の色変えるとかして欲しいわ』
早紀が藍の抱える資料を後ろから覗きながらぼやく。
『それなら、まずは夜まで待ちましょう。それまでは各自自由行動で、夕方6時に彼の家の裏手で集合。場所はわかってる?』
早紀と藍が頷く。何の気無しに言ったこの言葉が、後々とんでもない事態を引き起こすなんて、この時の私は予想だにしなかった。

早紀と藍は、時間潰しにどこかへ出かけたらしい。私はやりたい事も無いので、校庭の木の枝に腰掛けながら、彼が授業を受けている教室を眺め続けていた。
ノートに何か書いている史郎君。休み時間に友達と話している史郎君。退屈な授業で居眠りをする史郎君。私が過ごしていたのと同じ様な、平凡な学生生活がそこにあった。
だが、ふと思う。
彼は、この生活で満足しているのだろうか、と。
彼は確かに、平凡な生活を送っている。彼の周囲だけ常に凪いでいるかの如く、全く波風が立たない生活。退屈なまでにシンプルな、それでいて史郎君自身が破綻を来たさない程度には変化のある日常。まるで誰かが描いたシナリオの様な、平凡すぎて非凡な日常。
私の中に芽生えた疑惑の芽は、ゆっくり成長を始めた。
彼は、何が楽しくて生きているのだろう。
この先、生きていても、何一つとして『特別良い事』には巡り会えないと、彼も気付いている事だろう。それなのに、彼は何故まだ生きているのか。
仮に私が彼と同じ立場なら、既に壊れている事だろう。なのに、何故彼は壊れない?
私は自分の好奇心を満たす為、彼にもっと近寄ってみる事にした。

「お、戒治、今日はお前弁当か?」
「ああ。今日は久しぶりに姉ちゃんが早起きしたからな」
昼休みになり、史郎君は黄金の箒と話を始めた。ついに彼も壊れたかと思ったが、その黄金の箒は驚いた事に生き物だった。しかも、人間。私は驚愕を通り越し、最早感銘さえ受けていた。
…我に帰った私は、早紀の残していった資料を繰る。あの黄金の箒は…あった。
鎌田戒治、か。両親は幼少時に事故死、この学園で教師をしている姉と二人暮し。史郎君の友人であり、史郎君には及ばないまでも強力な霊視能力を持っている…書かれている情報はこれだけだ。だが、資料に書かれているという事は私達の仕事に支障を来たすかも知れない存在だという事。私は気を引き締め、彼らの様子を廊下からそっと伺った。
「良いよな、弁当。羨ましいよ」
史郎君は戒治君の前の席に逆向きで座り、彼と向かい合う形で弁当を広げた。白米と焼き魚、それにそれにありあわせの惣菜を詰め込んだかの様な、地味な弁当。
「何言ってやがる、史郎。お前だって毎日弁当じゃねぇか」
「人が作った弁当が羨ましいんだよ。俺の弁当は基本的に昨日の夕食と同じメニューなんだぞ?」
大袈裟なまでに肩を竦める史郎君。その仕草は拗ねた少年の様で、とても微笑ましかった。
「それはお前、一人暮らしなんだから仕方ねぇだろ。何ならコンビニでバイトしろよ。余った弁当とか貰えるから、食事のバリエーションが増えるぜ?」
それにな、史郎。と、戒治君は続けた。お箸で何か所々黄色い、しかし全体的に黒い塊を持ち上げる。ちょっと、食べ物には見えなかった。
「これ見ろ、これ。最早卵焼きじゃねえ、可哀想な卵だ。作って貰っといて文句言うのも嫌だけどな、まともじゃない弁当を作られる位なら自分で作った方が万倍ましだぜ?」
確かに、と史郎君と戒治君は笑う。
私は彼らの教室をそっと離れ、誰も来ないであろう、倉庫代わりに使用されている空き教室に向かう。私がこの学校に通っていた時にも、耐え難いほど辛い事があると私はそこでひっそり涙を流した。
とても、悲しい。私が失った日常を謳歌する史郎君を、私は殺さねばならないのだから。

そのままずっと放課後まで、私は空き教室に隠れて居た。涙はもう止まったが、史郎君の傍に居るとまた泣いてしまいそうに思ったから。
『さて、そろそろ行きましょうか…』
制服の腰を適度に叩く。埃がつく事は無いだろうが、何の意味も無い昔の癖だ。それに、こうしておかないと…私は、自分が人間だった事を忘れてしまいそうになる。
それを忘れない為にも…私は、無意味な行為をあえて続けていた。それが、黒木つばめという存在なのだから。

史郎君は戒治君と連れ立って商店街に向かっていく。ふざけて肩を小突き合いながら、屈託の無い笑顔を見せる二人の学生。彼らの数メートル後ろを歩きながら、私は知らずそっと胸元を握り締めていた。早紀と藍と共に搦め手で攻めると決定したのに、何故私は彼らの後に付いて歩いているのだろう。そんな事をどこか遠くにぼんやり考えながら、私はふらふらと彼らの後を離れられなかった。
商店街のラーメン屋に入る二人。この店は、私も学生時代に利用した経験がある。安くてそれなりに美味く、気のいい店主が学生にはたまにチャーシューを一枚サービスしてくれる事がある。郷愁に胸を締め付けられながら、私は彼らが出てくるのをじっと待っていた。

「じゃ、俺は先に帰るぞ」
史郎君が暖簾をくぐって、店から出てくる。戒治君はまだ食べているのか、連れ立っては居ない。私は気付かれない様に、帰路を辿る史郎君を尾行した。
朝比奈は海と山に囲まれた、閉鎖した地。空を見上げると、朱い太陽が稜線に触れようとしている所だった。ああ、もうすぐ町が茜に染まる。山手に並んだ送電線が、町にその長く暗い影を落とし始めていた。
史郎君に視線を戻す。彼は何故か、公園に向かっていた。彼が家に帰るのに、そちらに向かっては遠回りになるだけだ。私は言い様の無い不安を抱えながらも、彼に付いていった。
公園入り口にある茂みの所為で一瞬彼の姿を見失うが、彼は公園に入ってすぐの所で立っていた。
ただし、こちらを向いた格好で、だったが。
「そこの白い仮面のあんた。俺に何の用だ?学校出てから、ずっと尾行して来てたよな?」
学ランのポケットに両手を入れ、こちらを鋭い眼光で睨め付ける。彼が太陽を背にしている事も手伝い、その姿は酷く平坦な影法師の様に見えた。
『…はじめまして、沢村史郎君。私の名前は黒木つばめ。一応私の方が年上と言う事になるけれど、つばめって呼んでくれて良いわ』
「つばめ、ね。で、その幽霊のつばめさんは俺に一体何の用なんだ?」
凄んでいる様に見えるが、それは意味を成さない。それは彼だって理解している筈だ。彼の眼は、霊体を認識する事は出来てもそれに攻撃出来るわけでは無い。彼が霊に対して出来る事は、見る、聞く、話す、触る、この四種だけだ。霊に触る事が出来たとして、それは攻撃と異なる。霊は最初から死んでいるのだから、これ以上死ぬ事が無い。よって、霊を触る事が出来ても滅ぼす事は出来ない。攻撃にも使える霊能力を彼が所有するなら話は変わるが、彼にそのような事は出来ない。
霊を滅ぼし、成仏させる。それをやるのは、私達の仕事だ。
『私はね、史郎君。“死神”をやってるの』
「死神…?」
反射的に言葉を繰り返す史郎君。しかし、彼は冷静さを欠く事無く、私の目を見据える。その姿からは、いささかの怯えも感じ取れない。
…待ち合わせをした早紀と藍には悪いが、私は少し、彼と話をする事にした。被っていた、髑髏を模した純白のマスケラを外す。本来ならば、仕事中にこれを外す事は禁じられている。霊や、霊が見えるモノに素顔を知られる事を回避する為だそうだが、その真の理由は別のところにある。
生前の自分を知る者から、顔を隠す為だ。
「つばめ…真逆、あんた…」
目を白黒させて言いよどむ史郎君。私は自分の白い髪を掻きあげ、彼に優しく微笑んだ。私が死んだ時の事故を目撃した少年の、6年間成長した姿に。
『お久しぶり、沢村史郎君。もっとも、当時は互いの名前なんて知らなかったけれどね』
私たちの間を遮る様に、一陣の旋風が吹きぬける。史郎君は唇を噛み締め、それでも私から目を逸らそうとはしなかった。
「俺に…何をしに来た…」
搾り出す様に言葉を紡ぐ史郎君。さすがに声は震えているが、逃げ出したりしない事から彼の勇気が窺い知れる。私は、この様な無謀な勇気を嫌いではなかった。けれど、私には私の成すべき事がある。私は出来る限り冷酷に、当然の事を言っただけに聞こえる様、死神として言葉を選んだ。
『知れた事を。私は死神よ?貴方を殺す以外に、何かやる事があると思うの?』
「…あんた、俺を殺してどうするんだ?俺を殺せば残り寿命の半分が手に入るとか、俺の身体を乗っ取って生き返るとか、そういう事が出来るのか?」
彼はポツリと呟く。そして、彼は決意を込めた声で私に言った。
「答えろ、つばめ。俺は、何の為に殺される?」
それは最早、尋ねる等といった生易しい行為ではない。有無を言わさず回答を求める、その行為は恫喝の類だった。
『…まず、私は死んでいるんだから寿命が手に入るという事は無い。そして、君が死んで魂が抜けた場合、その身体に入る事は確かに可能よ。けれど、魂は血液と同じ。合わない魂を身体に入れたりなんてしたら、魂諸共その肉体が崩壊するわ。貴方はただ、“死ぬと定められている”から死ぬの』
私は丁寧に答えた。彼には、自分が死ぬ理由を知る権利がある。少なくとも、知ってはいけないという決まりは無い。
私は彼がどういう行動をとるか思案した。哭くのだろうか。逆上するのだろうか。どちらにしろ、自分の死をすんなり受け入れる事は無いだろう。誰だってそうだ、普通の精神状態の生き物は、死にたいとなんて絶対に思わない。だが、彼の行動は私の予想をあっさりと裏切った。
彼は、目線を落とし、静かに優しく微笑んだのだ。
それは自虐の冷笑ではなく、狂気による笑いでもなく。全てを許す、安らかな笑みだった。
「仕方ない、か。生きてる以上、誰でも何時かは死ぬんだから」
だが、彼は何かを思い付いた様に顔を上げた。
「なあ、つばめ。他人の身体なら崩壊するとしても、自分の身体になら一度出てから入っても崩壊しないのか?」
『…ええ。でも、死神が殺した霊は死神が確実に霊界に連れて行く。もう一度身体に戻る事が出来るのは、本当に死んでしまわない程度に幽体離脱した場合くらいよ』
私がそう言うと、彼はその安らかだった表情を一変させた。眼光は鋭く研ぎ澄まされ、その思考が持ちうる限りのシナプス結合を利用している事は容易に見て取れる。私は、彼が何か考え付くまで待っていてあげる事にした。
「…つばめ。二つ聞きたい事があって、一つ教えられる事があるかも知れない」
そう言って、彼はまず二つの質問を繰り出した。
「まず一つ。つばめ、あんたは人間に戻りたいか?そして、もう一つ。人間霊と死神は、違うモノなのか?」
私は答えた。両の問いとも、答えはYesであると。
「じゃあ、多分教えられる事がある。あんたは、もしかすると…人間に、戻れるかも知れない」
史郎君がそう言った瞬間、もう一度旋風が吹き荒れる。靡いた髪の所為で、彼の表情は確認できなかったが…その表情は、哀しみのそれだった様な気がした。

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