(2−5:小海藍)

スローモーションで描かれる視界。史郎様の短剣によって砕かれた魂狩は血色の結晶を崩壊させながら、くるりくるりと宙を舞い踊りました。大きく罅割れた結晶はその裂け目からゆっくりと風化する様に世界へ剥がれ落ちます。それは砕けたかさぶたにも似た真紅の粒子となり、暗い夜空へ散っていきました。火山が噴火し、灰が空を埋め尽くすかの様に。
月の光を僅かに反射し、煌く細粒の魂狩の欠片は光の雨となって、この世界へ撒き散らされます。
全てがゆっくりと、美しさと同時に戦慄さえ覚えるその光景を見せ付けるかの様に、自分の瞳へ映りました。
死んだ時にだって見られなかった走馬灯じみた、幻想的な光景が終わったその刹那。
それは、自分に襲いかかりました。心臓を鋭利な鉤爪で鷲掴みにされたかの様な切迫感。背骨の中を小さな小さな蛆虫が這い回る様な、生理的嫌悪感をも伴う全身の不快感。肉を生きたまま磨り潰されてミンチにされている様な、耐え難い激痛。それらが全て同時に、自分の魂を駆け抜けました。いえ、もしかするとそれが駆け抜けたのは、自分のココロなのかも知れません。
あまりの苦痛に、自分の魂は意識を閉ざす事で自己を保存しようとします。けれど、閉ざされた意識は更なる苦痛によって覚醒させられます。閉塞し、解放し、繰り返される苦痛の輪廻は無限とも思える循環を描きました。
無意識オドと自意識イド。生と死。全てが反転する、静かで激しい衝動。
歪んだ夢の先に切り開かれるのは…確かな現実の、無感情な残酷さでした。

『…ぁ…あぁうっ…!』
自分は膝を付き、喉を掻き毟りました。在る筈が無い身体中の骨は軋み、内蔵は出る筈の無い吐瀉物を撒き散らそうと捻られます。致命に及ぶ猛毒を吸い込んだかの様な全身の反応。悪寒に侵される自分は震える身体を両の腕で強く抱きしめたまま、零れ落ちる涙を止められずに居ました。
史郎様の短剣が当たる直前にデュラハンΣを待機状態へ戻した為、自分の魂が破壊される事だけは防ぎ得た様です。けれど、もう一度戦う力は自分に残っていません。
いえ、立ち上がり槍を構える事程度は出来るでしょう。死神は任務の際、一人につき二つの魂狩が貸与されます。もう一つの魂狩は壊れてはいないのですから、それをデュラハンΣに転換すれば良いだけの事です。物理的には、十二分に可能である事です。自分の握る刃は、まだ折れてはいません。
けれど、心が折れてしまったのです。例えそこに如何なる刃があれども、それを握る力が無い者が戦える道理など、この世にもあの世にも存在しないのです。
自分の魂と繋がった魂狩を破壊されれば、魂を直接破壊された訳でも無いのにあれ程の苦痛が自分を苛むのです。史郎様と戦ったとして、次も魂狩を壊される前に待機状態へ戻して魂の崩壊を避けられるという保証は存在しません。
その予想は、余りにも恐ろしすぎました。自分自身の死でさえあれほど悲しい事だったのに、自分自身が消えて無くなってしまう事が受け入れられる筈がありません。魂の崩壊。それはきっと、とても寂しい事でしょう。肉体だけでなく、魂さえも存在しない、その完膚なきまでに何も無いという事は、一人よりも一層孤独です。
確かに自分は、マゾヒズムと呼ばれる種類の異常性欲の持ち主です。
自分にとって苦痛とは、快楽ともほぼ同義となります。けれど、飽くまでも『ほぼ同義』なのです。本当のマゾヒストは、ただ他者に虐げられる事だけで快楽を感じはしないのです。
己の束縛や苦痛を解けない鉄鎖に変えて、逆に相手の心を縛り上げる。それが可能な苦痛こそが、マゾヒストにとっての『快楽と等しい』苦痛です。相手の愛を得たいが為に、その手段として相手に自分を虐げさせ、絆を築く。マゾヒストは何一つとして、愛する相手に与える事など出来ません。虐げられ、その代償に愛を求める。代償として愛を得られなければ、マゾヒストにとって苦痛はやはり、快楽には成り得ないのですから。虐げられているのではなく、虐げさせている。そんな業深き簒奪者こそが、マゾヒストという存在です。
ただ他者に虐げられるだけでそれを快楽と直結させられる者は、純然たる被虐嗜好者。彼、彼女達は通り魔にナイフで刺されて傷を負おうと、また、その結果として死に到ろうと、それを快楽として受け入れるのでしょう。どれほど苛められても、どれほど虐げられても、決して満足する事が出来ない被虐嗜好者。それは、性的欲求に衝き動かされているだけのマゾヒストとは似て非なる存在。そう、それはサディストと嗜虐嗜好者が似て非なる存在である事と同じ事です。

「藍、だったか?どうする、まだ続けるってのか?」
史郎様が右手に短剣を携えたまま、跪いたまま思考の迷宮へトリップしていた自分へその切っ先を向けて尋ねました。それは質問の形をとっては居ますが、質問では在りません。在り得ません。史郎様のそれは要求です。自分に戦う意志が微塵も無くなるまで、史郎様は幾度でも立ち上がってその剣を振るう事でしょう。
そして、自分は史郎様と戦う事が恐ろしくて堪りません。戦って魂を壊され、消えて無くなってしまう事が恐ろしくて堪りません。もうここで戦いを諦め、史郎様に降伏しようかと思ったその刹那。耳元で誰かが囁きました。
(また、逃げるのですか?)
その声は、自分自身の声。臆病な自分を突き放し衝き動かす、強くなりたいと願う自分自身から零れ落ちた一滴。
思えば、自分はこれまでずっと逃げ続けてきました。
生前は悉く他人の顔色を窺い続け、卑劣とも言える臆病さで他人との衝突から。他人を傷つけたくないのではなく、自分が傷付く事が怖かったから。だから、自分は逃げていました。
そして、死後も自分が生者を羨んでいるという事実に目を背け、死神の道を選んだからという口実に逃げました。やはり、自分が傷付く事が怖かったからです。

確かに、史郎様との戦闘続行は恐ろしい。けれど、それ以上に。
自分はやっと、逃げずに進むその一歩を踏み出そうと決めた。つばめ様との戦いで気付き、自分の意志で、誰からも逃げず、誰に強制される事も無く、決めたばかりなのです。
掟を守ると決めた。戦うと決めた。その己の誓いを唾棄し、自分自身に負ける事は、どうしても許せませんでした。自分が誰に負けたって、一向に構いません。それは、その誰かが自分より勝っていたというだけの簡潔な事実です。そして、自分に力が無ければ鍛えるだけです。それでも鍛え足りなければ、更に鍛えるだけです。鍛えて鍛えて、それでも一生涯追い抜けないと分かっても、背伸びをしてやっと指先が届く程度までならば、一生懸命中途半端に突き進む事は出来る筈です。少なくとも、それを目指す事だけは。
だから、自分自身にだけは決して負けられないのです。自分が自分に勝つ事は出来ません。けれど、諦めた時点で自分は自分に負けるのです。諦める事も知らず我武者羅に突き進む事は、晒すべきではない無様です。ですが、諦める事を知りながらも決して退かず、けれど正すべき間違いは正しながら、真っ直ぐに何処までも中途半端でもその信条を貫く。それは、どんなにか美しい生き様でしょうか。
どれほど生き汚いと罵られようとも、自分はそう決めました。これが自分の信条です。最期まで、自分の思想に殉じていられるのなら。それ以上の生き様など、存在する筈が在りません。
故に、自分は宣言しました。例えその過程でこの身が滅ぶ事となろうとも、史郎様を必ず…埋葬する、と。
『…申し訳ありません。埋葬を、始めます』

―――轟、と風が唸りを上げる。
突風に煽られ、少年は顔の前に手を翳す。その僅かな隙を見逃さず、少女は大きく後ろに跳躍し、計算された舞踏の様に優雅な着地。
無手の死神は両の腕を大きく広げ、開かれたその瞳は月夜の下に爛々と。今宵は良い月、欠けた月。不格好な不諦を決めた黒衣の魔女。その心は、最早不退転と化していた。
差し迫る死闘の予感に怯えを隠さず、けれど雄々しく最強の騎士に立ち向かう。彼女が止まるとするならば、それは持ち得る全ての力が尽きた時以外には在り得ない。その双眸に宿る輝きは、雄弁にその決意を語っていた。
過去に嘆かず、未来を憂えず、この瞬間の血戦のみに己が全存在を宿す。透徹の思いが理性と倫理を燃料として屠り駆動させるそれは、殺意へと昇華された圧倒的な敵意。けれど決して滾る事無く、飽くまでもその思考は冷めていた。意識の温度が低下を始め、一つ下がる度に遂げるべき目的を明確に指し示す。
錆付いていた歯車が、廻る。軋みながらも歯車は噛み合い、目的を遂げるべく必要な動作を汲み出した。魂の古井戸に幽閉されていた感覚が急上昇。内を向いていた力が解き放たれ、限り無く餓えた獣の如く、猛然と外へ牙を剥いた。小海藍という少女の存在、その奥底で鎖に繋がれていた、一つの奇跡が目を覚ます。
それはスイッチのON/OFF。使っていた回路を閉ざし、使っていなかった回路を開く。チャンネルが切り替わる。意識のシフト。卵に皹を入れ、雛鳥が孵る様に。存在はそのままに、機能だけが改変される。彼女の存在が、その内から齎される情報に従って変革する。
少女の両掌が歪み始めた。否、それは錯覚。空気が、光が、彼女の周囲で捻れ始めた結果だ。砂塵は舞い上がり、烈風は踊り狂う。大気は震え、地には爪痕にも似た傷が深く穿たれる。産声代わりの破壊が螺旋を描き、彼女の周囲を駆け抜けた。

『史郎様』
自分は両腕に意識を集中させながら尋ねました。
『史郎様は、超能力をご存知でしょうか?また、その存在を信じていらっしゃいますか?金属のスプーンを念じるだけで曲げる、何も無い場所で発火させる、壁を透かして向こう側の景色を見る、といった類の超能力を』
史郎様は一瞬呆気にとられた顔をなさいましたが、一歩下がりながら身構え、そしてお答えになられました。
「俺の幽霊が見える眼だって、言うなれば超能力だ。今一実感は無いけどさ。だから、俺は超能力を否定しない」
自分は小さく微笑み、首を左右に振ると史郎様の方向へ一歩を踏み出しました。
『自称超能力者の多くは詐欺師か奇術師。そして、残る数少ない本物の能力者も、大部分は霊能力者か魔術師です。史郎様は御存じなくて当然ですが、霊能力や魔術は超能力とは一線を画します。霊能力、魔術は等価交換。科学が常識的な結果を常識的な手段で生み出す物とすれば、常識的な結果を非常識な手法を用いて生み出すだけの事です』

けれど、ほんの一握り。本物の超能力者も、存在するのです。

『超能力は霊能力、魔術の様に多様性を持ちません。唯一つの奇跡を封じ込め、唯一つの結果のみを映し出す。そこに一切の過程は無く、結果のみを産み落とす圧倒的な矛盾。それが、超能力です』
自分は解説を終え、史郎様と対峙しました。自分達の間にあるモノは、張り詰めた空気だけ。つばめ様も早紀様も、自分たちの戦闘に手を出す心積もりは無いご様子です。
しかし、本来ならばこの様に己の手の内を晒す事は戦いの場において行うべき行為ではありません。それなのに、自分はその愚を犯しました。それは、久しぶりに解放した自分の力によって引き起こされた高揚の所為だけでは無いでしょう。自分自身でも驚くほど雄弁に手の内を語っていたのは、きっと。自分なりの、けじめだったのですから。
史郎様はつばめ様と早紀様を退け、自身の力のみで戦おうとしていらっしゃいます。圧倒的に有利な状況を作り出せる立場に居ながら、それを由としなかった。それならば、自分とてハンデを背負うべきです。それは余りに甘い思いかも知れません。けれど、自分は史郎様と正々堂々と戦ってみたかったのです。
史郎様がこの世に存しなければ、自分達が史郎様を殺しに来る事も無かった。自分達が史郎様を殺しに来る事が無ければ、つばめ様は任務を放棄しなかった。つばめ様が任務を放棄しなければ、自分はつばめ様と戦わなかった。つばめ様と戦わなければ、自分が一歩を踏み出す事も無かった。
史郎様ご自身は、こんな事など露ともご存じ無い事でしょう。けれど因果は巡り、史郎様は自分に踏み出す勇気を与えて下さいました。その事に、感謝と敬意を込めて。
『参ります、史郎様』
力の流れるイメージが、史郎様と自分との間に一直線の道を描く。腰を捻りながら右腕を大きく後ろに振り被り、そのまま手の中に握り締めた形の無い力を投擲する幻視。その瞬間、確かに右手に存在していた『何か』が抜け出る様な気がしました。
鋭く目を輝かせた史郎様は、見える筈が無い力の流れを見切ったかの様に自分の右へ跳び、初撃を回避。けれど、自分はすかさず左手の第二撃を放ちます。力を充填するイメージが足りず、威力は低下している左手の力ですが、それでも当たりさえすればある程度の損傷は期待できます。回避は不可能と判断されたのでしょうか。史郎様は膝立ちから立ち上がると即座に前へ突き進み、自分から、迫る力の流れに左肘をぶつけました。
ぐるん、と在り得ない回転をする彼の左腕。鈍い音が響き、関節が外れた史郎様の左腕は、肘から先が捻れた形でだらりと垂れ下がります。
「サイコキネシスの類か…くそ、肘砕けてねえか、これ…でも、大体読めた」
史郎様は捻れた左手を庇いながらその短剣を自分へ向けました。彼は確信を秘めた瞳で自分を見据え、自分の能力に対する推測を披露されました。
「効果は強制的な回転運動。力を“充填”してから“投げる”イメージで、その超能力を飛ばすんだろう?限界が有るかは分からないけど、“充填”する程威力が上がると見た」
自分は、戦慄しました。
彼の推測は、自分の超能力『歪曲作用』の能力そのままです。一度回避し、一度身に受けただけで、自分の能力を完全に看破した。
在り得ません。彼は戦闘に関しては全くの素人である上、超能力に造詣が深い訳でもありません。こんな事、飽くまでも『普通』である史郎様に可能な芸当ではありません!
慄く自分に、史郎様はにやりと笑いました。

2−4     2−6

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