(2−6:沢村史郎)

『参ります、史郎様』
藍が告げ、ボールを投げる様に右手を振った。死を孕んだ予感が、生きる為の直感を呼び覚ます。瞬間、脳を電撃が突き抜けた様な衝撃が襲った。
(何だ…?)
ずきりと疼く米神に意識を刈り取られないよう注意しながら一瞬だけ目を瞑り、再び開いたその時。俺の眼には、今までと違う世界が見えた。
先程までは見えなかった、藍の手から放たれる回転する球体。半透明なその球体は中心に軸の様な物が見え、その軸からは表面へ向けて螺旋状に何かが流れている。そして、その動く未来の軌跡さえ、灰色の濃淡だけで表されたワイヤーフレームのラインの様に、俺の視界は確実に捉えていた。そのラインは真っ直ぐに俺の首へ到達する軌跡を描いている。
直感が告げる。この球体は、視覚化された藍の力だ。
(避けられるか…?)
否。避けられるではなく、避ける。決意を胸に、俺は地を蹴って藍の右へ飛んだ。さっきまで俺が居た空間を球体が薙ぐ。
ほっとしたのも束の間、藍が二撃目を放つ。先ほど眼に映った球体よりは、幾分小さく見える。だが膝立ちの状態では、立ち上がって一歩動く程度が限度だろう。先の様に完全な回避はどう考えても不可能だ。しかし何とかして防御しなければ、浅くない傷を負う事は必至。
だがそこで、俺は奇妙な違和感を覚えた。
(…?)
二撃目のラインは何故か、俺の目の前、空中で唐突に途切れている。これは、今迫っている超能力は俺に当たらないという事なのか?
けれどそれに安心して棒立ちする程、俺もお人好しじゃない。大体、このラインが未来の軌跡だという確証も無いのだから。
立ち上がり、跳躍し、俺は左肘をこの眼に映るライン通りに突き進む藍の力にぶつけに行った。度重なる戦闘で血の滲んだ学生服の左肘が、吸い込まれる様にラインを目指す。
(…!)
ラインの途切れたちょうどその場所。左肘が藍の力と激突し、半透明な球体はシャボン玉の様に綺麗なまま…弾けた。
その刹那、肘がとんでもない力で捻られる。鈍い音が激痛を伴って骨を駆け、関節が砕けた様に外れた。だらりと下がる腕には力が入らない。幸か不幸か激しい痛みが伝わってくる以上、少なくとも神経は無事だと判断を下す。
左肘の状態を確認し、今しがたの状況を再確認する。そこから導き出した結論は、単純だった。
手を触れない状態での物理運動。シンプルかつオーソドックス、王道で、かつ超能力と言われて万人がイメージする最もありがちな超能力…
「サイコキネシスの類か…くそ、肘砕けてねえか、これ…でも、大体読めた」
藍の超能力にぶつかった肘は、“捻られた”。
大きさが違った藍の力の具現、“半透明な球体”。
藍の動きから予測するに、“投げる”事で手から放つ。
与えられた手がかりが、がちりと噛み合った歯車の如く推測を生み出した。
「効果は強制的な回転運動。力を“充填”してから“投げる”イメージで、その超能力を飛ばすんだろう?限界が有るかは分からないけど、“充填”する程威力が上がると見た」
俺の言葉に藍は目を見開き、たたらを踏む。
(図星、か…)
当たった推測ににやりと笑って半身に構え、捻られた左手を庇う。そうしながら、右手ではヤハウェをしっかり握りなおした。
小さく咳をすると、目の前に血の霧が生まれた。口の端を伝い落ちる真紅を右の袖で拭い取った。
夕方にはつばめに肩口を裂かれた左手は夜には藍に捻られ、左肩の傷も肘から先も、溶鉱炉に突っ込まれたみたいに変な熱を持って痛い。残った右手だって何度も無茶な運動の支点に使った所為か、筋や骨がじわりと疼く。腹には腹で、早紀に刻まれた大きな傷跡。破れた上に血塗れの制服は、確実にお釈迦だ。
はっきり言って、相当無茶が祟っている。けれど、それなのに、負ける気がしない。
痛みに苛まれる腕と反比例する様に、足は羽の様に軽い。身体が、動く。それは戦いでの最適な動きには程遠いかも知れない。けれど、間違い無く、藍の動きに対応出来るだけに動けている。
そしてこの眼が見るのは、俺に迫る攻撃、少なくとも藍の超能力の、未来に描くべき軌跡。
先の経験で理解した。この眼に映るラインは、確定軌道だ。例えラインが俺の身体を通過していたとしても、通過しているのならば俺には当たらない。止まる筈が無い場所でラインが止まっているのならば、それは俺に当たって超能力が発動する等の何らかの理由で途切れた結果。
寸分の狂いも無く、この眼は、この眼によって齎された情報の結果による俺自身の行動をも含めた因果を正しく演算し、確定した未来を映し出す。

無茶苦茶だ。どうしようもなく矛盾している。果が因に先行するなんて、在り得る筈が無い。

けれど俺は、そんな疑念を押し込める。今考えるべきは、藍との戦いだけだ。彼女が余計な事を考えながら戦える相手だなんて思っちゃいない。まして、考えながら勝てる相手である筈が無い。殺気を孕んだ夜の空気に触れながら、俺の思考は急速に冷めていった。そして対照的に、眼球だけが灼熱の炎を内包したかの如く、熱を孕んで未来を映す。
鈍く光る月の下、静かに満ちる時。走る切っ先と踊るユニゾン。今、死線を越えて行く。幾度と無く繰り返される衝突が、燃える様な戦う意志が、この身体を衝き動かす。
思考は単純にして明確。
生まれた瞬間から全ての努力を否定され続けた俺が、終に至ったこの境地。努力しないでも平均点だから、努力が否定される事を悲しんで努力を止める?
そんな論理は間違っている。
どんなに分かりきった未来でもそれを諦めず、どんなに決まりきった過去でもそれに安心せず、この行為は無意味かも知れないと、己の抱くそんな不安さえも信じて突き進む。報われない努力が報われる瞬間へ向けて、真っ直ぐ我武者羅に努力する。
無理にでも突き通す。それが俺の、沢村史郎の、たった一つの冴えたやり方。

幾度かの激突の後、俺と藍は再び睨み合う形で校庭の真ん中に立つ。互いに息は上がり、身体中傷跡だらけだ。けれど、藍の目はどこか楽しそうに輝いていた。ああ、それはきっと俺も同じだ。藍も俺も、自分の信じた道を貫く為に戦っている。チープな言葉でしか表現出来ない自分の語彙力に嫌気がさすが、つまりはこういう事だ。
どんな困難も、貫くと決めた信念の為ならば少しも苦しみだとは思わない。
『…参ります、史郎様』
再び同じ言葉で宣言し、藍は両手に力を充填し始める。俺はそれに応え、右手だけでヤハウェを強く握り締め、腰を落としていつでも走り出せるように体勢を整えた。
互いに理解していた。決着は次の一合。全力で来る藍に、全力で立ち向かう。その一瞬が、この戦いの終焉だ。

藍の放つ超能力の球体。左右の手から放たれるその軌跡は真っ直ぐ、一欠片の迷いも無く俺へ伸びている。二本のライン、その一方は真っ直ぐ俺の後ろへ伸びる。けれど、もう一方は俺と藍を結んだ線分の途中、藍の目の前で途切れている。それが意味する事は、唯一つ。俺が超能力を喰らうにしろ、俺が藍を倒して超能力が発動しなくなるにしろ、少なくとも藍の目の前まで俺が進めるという事だ。
しかし、ヤハウェのリーチは腕を伸ばしてもせいぜい1メートル有るか無いか。刃が届いたとしても決定打になるか否か、本当にギリギリのラインだ。
「…はっ」
知らず、小さな笑い声が漏れる。最後の一合としては、あまりにも出来過ぎたシチュエーションだ。何だよこれ、幼心に憧れていたヒーロー映画とかのラストシーンみたいじゃないか。上等だ、やってやる。
藍の放った右手の力…俺の後ろへ伸びるラインを通る力。それが動き始めると同時に、俺は地面を蹴って藍へ向かう。紙一重で躱した超能力が辿ったラインそのまま逆行、ヤハウェを抱いて藍の目の前へ到達する。
藍が振り被る左手。そこから放たれる力が、ラインが途切れた場所に突き出したヤハウェと激突した。
ヤハウェで藍の超能力を切り裂き、そしてそのまま藍を貫く。ヤハウェが超能力に耐え切れずに壊れれば、藍を貫く事は元より俺の魂さえ崩壊する。間違えても作戦なんて言えやしない、ただ行き当たりばったりの特攻と変わらない蛮行だ。
無理、無茶、無謀。そんな事は百も承知だ。けれど、俺は信じる。
ヤハウェ。短剣の形を映す、俺の魂狩。俺の戦う心を具現化したのがお前ならば、俺の思いもお前を構成する欠片に成っている筈だ。だから俺はお前を、俺の思いの強さを信じる。
悲鳴を上げて軋みながらも、少しずつ藍の超能力を貫いて前進する刃。右手だけでは負けそうになる衝撃に、激痛を堪えて肘を捻られた左手を添える。折れそうになる膝を踏ん張らせる。そして、俺は叫んだ。
「貫け!」
じりじりと藍の力を蝕む白銀の刃に映った、俺自身の顔。その薄氷色、アイスブルーに煌く瞳を最後に俺の意識は途切れ…闇に、沈んでいった。

『…………!』
『………君!』
『…史郎君!』
「…う、あ…?」
呼びかけるつばめに応えようとしたものの、我ながら呆れ返るほど間抜けな声しか出なかった。漆黒の夜空を背に、泣きそうな顔でつばめが俺を見下ろしている。
「俺…あの後、どうなったんだ?藍とやりあって…えっと…」
大の字に寝転がったまま最初に問う事では無いだろうが、それでも俺は気になった。俺の思いが藍の思いを貫くに足る物だったのか否か、それだけの事が。
『貴方の完勝です、史郎様』
そんな問いに応えたのはつばめではなく、疲弊しきった声の藍だった。俺はもがきながらも何とか上体だけ起き上がる。身体の節々に痛みは残るが、少し無茶をすれば動ける程度だ。明日病院に行けば、何とかなるだろう。医者にどう言い訳すればこの怪我を納得して貰えるかだけが、切実な問題として立ちはだかってはいるが。
そんなことを考えながらも、首を動かして藍の方を見る。俺の肩を支えてくれるつばめの向こう、彼女は俺と同様にぺたりと地面に座り込んで、今にも死にそうに荒い息をしていた。
あ、いや、彼女はもう半分死んでいるんだったか。
『史郎君、体は大丈夫な
『で、史郎。あんさん、大丈夫か?何処まで覚えとるんや?』
           むぎゅっ!?』
心配そうに俺の顔を覗き込んでくれるつばめを押しのけ、早紀が話し掛けてきた。俺は痛む脳から記憶を引き出し、彼女の質問に答える。何がつばめの逆鱗に触れたのかは知らないが、彼女は声にならない唸り声を上げながら早紀を睨みつけていた。どうしたのか尋ねようかと思ったが、止める。姉貴が自分の身体を使って俺に教えてくれた数少ない処世術の一つ、それが機嫌の悪い女に関わると碌な事が無いという事だ。どれだけ理不尽な理由で殴られたんだろうなあ、俺。
という訳で、つばめには悪いが早紀の質問に答える。
「ああ、身体は多分大事無い。で、俺が覚えてるのは、えーっと…俺が藍の超能力にヤハウェを突きたてて、今思えば恥ずかしい事に『貫け!』なんて大声で叫んだ所まで、かな…」
『あー、そこまで覚えてるんか。なら、話は早いわ。史郎の短剣は藍の超能力を貫いた。そこで意識失ったんやろうけど、身体はそのまま突っ込んでな。力を使い果たした藍の肩をこう、ずばーっ、と切り裂いたんよ』
自分の左肩をとんとん、と右の手刀で軽く叩く真似をしながら、早紀は元から糸の様に細い目を更に細める。俺が切り裂いた左腕はだらりと垂れ下がったままで、肩口を縛ったそのローブを湿らせているのは、彼女自身の血液だろう。今この瞬間にも想像を絶する痛みに苛まれているのだろうに、それを微塵も感じさせない。早紀の柔らかで強い笑顔は、俺を勇気付けてくれた。
『史郎様…自分は、自分が負けたら史郎様を殺さずに蘇る道を一緒に探す、とつばめ様に約束致しました』
荒い息の下、ぽつりと独り言じみた呟きを漏らす藍。穏やかだが凛とした強さも感じさせる、澄んだ声だった。
『ですから、史郎様…不束者の自分では御座いますが、以後宜しくお願い致します』
穏やかな微笑みを見せる藍。闇の中でもそれと分かる艶やかな鴉の濡羽色が、雪の様に蒼白な顔にかかっている。そこには凄惨なまでの美しさが醸し出されていた。
『うちも改めてよろしゅうな、史郎』
早紀も笑う。今まで気付かなかったが、右目を隠した鬼太郎みたいな髪型も、愛嬌がある顔立ちに相まって快活そうな雰囲気を演出している。
『じゃあ、私も改めて…宜しくね、史郎君』
つばめも安心した様な微笑みを見せる。やっぱり、うん、あれだ。俺の好みにぴったり一致した女が俺に笑ってくれてる様ってのは、何か嬉しい物があるな。
「…ああ。つばめ、早紀、藍。皆、宜しくな」

こうして俺の初めての戦いは幕を下ろし…そして、次の戦いの幕が上がる。

2−5     3−1

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