『DEATH』 Track・3/Deadly Nightshade

(3−1:明石早苗)

「うわあああああっ!?」
明石早苗(アカシ・サナエ)は、自分の叫び声で目を覚ます。僅かに冷や汗をかいてはいるものの、目が覚めてみれば穏やかかつ爽やかな、いつも通りの朝だ。
「ふあああ…」
落ち着く為にも欠伸を一つ。私は上体を起こすと、大きく伸びをした。枕元でチリチリ騒ぎ始めた目覚し時計を軽く叩いて沈黙させると、ぼんやりとした頭を振って意識を覚醒させる。
「夢、か。昨日あんな変な物見た所為かな、夢見悪い…」
パジャマのまま障子を開け、縁側から庭先に降りる。昨日の夜に見た紅い粒子が嘘みたいに、今日の朝は綺麗に晴れ上がっていた。学校の方角から吹き上がり、町中に撒き散らされたあの粒子。紅い雨と言うか、紅い火山灰と言うか。どちらにせよ、血の色にも似て不気味な光の粒だった。
「庭には…何も積もってないか」
てっきり何か残ってるかと思ったんだけど。雪みたいに溶けてしまう様な物だったのなら、昨日の夜あれを見た時すぐに調べておくべきだったのかも知れない。
「早苗ちゃん、何してるの?朝ご飯、出来てるわよ」
背中から真苗(マナエ)姉に声を掛けられる。ちょうど良かった、真苗姉もあの光を見なかったか訊いてみよう。もしかしたら、あれも私が見た夢だったのかも知れないし。さすがに夢と現実とを混同するほど耄碌したつもりは無いけど、あんな非現実的な光景は夢だった方が平和だと思う。
「ねえ、真苗姉。昨日の夜、九時か十時位かな。何か変な物が空から降ってこなかった?」
真苗姉は小首を傾げると、顎に人差し指を当てて考える。何処となく可愛らしい仕草だが、十年前の真苗姉しか知らない人が見たら、泣いて土下座しながら命乞いするか、一瞬で気絶するか、それとも余りのショックに現実逃避するかのどれかだろう。私はもう見慣れたけれど、何となく似合ってない気もする。
「そうねえ、特に何も見なかったと思うけど。気になるなら、後で奈苗(ナナエ)ちゃんとお爺様にも訊いてみたら?とにかく、今は着替えて食卓にいらっしゃい」
私は頷くと、制服に着替える為に自室へ戻った。

万年床になっている布団の上でパジャマを脱ぎ、梁にハンガーで引っ掛けた制服を取る。セーラーもブレザーも自由に選べるうちの学校だが、私はブレザーの方が好きだ。冬は暖かいし、夏はブラウスだけ着れば十分涼しい。ただ、ブラウスだけ着た場合はセーラーより若干下着のラインが見え易い事だけが難点か。
襟にネクタイを通し、緩めに締める。昨今流行のホックで止めるタイプではない、しっかりした一枚布のネクタイだ。ちなみにこのネクタイ、男子はネクタイのみだが女子にはリボンの選択も許されている。実にお洒落な制服を採用した学校だ。
「…?」
一瞬、ネクタイを締める自分の手が二重にぶれた気がした。手を握ったり開いたりしてみるけれど、何処にも異常は見当たらない。疲れているのだろうか?
疲れている時は悪夢をよく見ると聞くし。そう思った瞬間、唐突に今朝の夢を思い出していた。

何処とも知れぬ暗闇の中、私は一人佇んでいた。何をすれば良いのかも分からず、ただそこに存在しているだけだった。
『貴女は、誰…?』
声が聞こえる。その時になって初めて、私は目の前に女の人が立っている事に気が付いた。
その人は世界史の教科書に載っている古代ギリシャ彫刻の女神様みたいな衣装を身につけている。髪は地面に引き摺る程に長く、憂いを帯びたその表情は息を呑む程美しかった。背はすらり高く、胸もでかかった。まるで神話に出てくる女神様みたいな出で立ちだ。
『貴女は、誰…?』
彼女は再び問い掛けながら私に近寄ると、両手で頬を包んだ。宝石みたいに澄んだ瞳が見つめる私の顔を映す。
「早苗。明石、早苗」
答えると、彼女は満足そうに微笑んだ。そして、今度は私の手を両手で包む様に握り締める。彼女の長い髪の毛が、私の身体に絡み付く。
『そう、サナエ。良い名ですね。けれど、まだ早い。出会うには、まだ早い…』
悲しそうに目を伏せると、彼女は私を強く抱き締めた。その髪の毛までもが生きているかの様にのたくって、私の身体を這い回る。幾匹もの蛇に身体を締め上げられる感触。それなのに、身体は石になったみたいにぴくりとも動かない。
そうして私は、絶叫した。

ぼんやりしていた事に気付き、急いで通学に使っているディパックに教科書を詰め込んだ。葉が茂り始めた庭の樹を横目に縁側を歩き、家族の待つ食卓へ向かう。
食卓に着くと、そこにはほかほかの白米と味噌汁、そして焼き鮭と卵焼きに納豆が私を待っていた。学校で聞いた話では、皆は朝食にパンを食べる事が多いらしいけれど、私は物心ついた時から朝食は和食と決まっていた。顔も覚えていない両親が健在だった時もそうだったらしい。
「では、いただきます」
お爺ちゃんが手を合わせる。その後で真苗姉、奈苗姉、そして私が手を合わせる。
「ねえ、お爺ちゃん、奈苗姉」
卵焼きを箸でつまみながら問い掛けると、お爺ちゃんはこちらを見た。見事に輝く禿頭が電灯を反射して眩しいけれど、そこはぐっと我慢する。なお、奈苗姉は聞いているのかどうか、黙々と白米を掻き込んでいた。
「昨日の夜、何か見なかった?空から紅い粒みたいなのが降ってきたのを見た気がするんだけど」
奈苗姉は空になったお茶碗を真苗姉に渡してお代わりを要求してから、焼き鮭をつまむ。そうして、やっと質問に答えてくれた。
「そうね、早苗の言う様な物は見てない。でもまあ、実際降ってたとして、朝のニュースでも何もやってないんだから害になる物じゃないのでしょう。それか、『こっち側』の物、か」
それだけ言うと奈苗姉はお茶碗を受け取り、またも白米を掻き込む事に没頭し始めた。さすが『日本大食い道師範代オバ級』の称号を持つだけの事はある。しかし畜生、何でそれだけ食べて太らないんだ奈苗姉。食べた分ちゃんと太れ。主にそのふくれ饅頭みたいな胸以外の部分が。
「お爺ちゃんは?」
あまり奈苗姉ばかり見ていると怒りで脳が沸騰してしまいそうな気がしたので、お爺ちゃんに話を振る。小食なお爺ちゃんは、早くも食後のお茶を飲んでいた。我が家のエンゲル係数の内訳は、どう考えても不均等に分散している事だろう。
「そうだな、儂も何も見なかった」
とりあえず、家族からは証言無し。学校でも何人かに訊いてみよう。夢なら夢で構わないし、本当に何かあったのならそれはそれで面白いだろう。

「行ってきます!」
お気に入りのバッシュを履き、ディパックを背負って玄関を出る。目の前には幅広の石段がなだらかな斜面を描き、門へと続く。石段の左右に植えられた年季を感じさせる巨木は、柔らかな木漏れ日を描いていた。
けれど、まずは家の裏へ向かう。そこは大小様々な墓石が並ぶ、墓地。この家が明石寺、この朝比奈の町でも相当古い寺故に、家の裏手はそのまま墓地になっている。
その中の一角に向かい、両手を合わせる。
「行ってきます、父さん、母さん」
顔も覚えていない。この眼でも、その姿は見えない。寂しくないと言えば嘘になる、しかし、今更何をやっても変わらない事実。私はしばし目を閉じ、それからゆっくり目を開けた。
けれど、今日も両親の姿は見えなかった。他の墓にはぼんやりと黒い靄が重なって見える事もあるのに、両親の墓にそれが見えた事は無い。やはり、既に成仏してこの世には居ないのだろう。もっとも、見えた所でそれは黒い靄だろうし、触る事も会話する事も出来ない。漫画や小説に出てくる凄腕霊能力者みたいにはいかないのが、私の眼の限界だ。
幽霊が見えるようになったのは、二年前。幸いにも真苗姉、奈苗姉、そしてお爺ちゃんも幽霊が見える体質だったから混乱は少なかったし、どちらかと言えば『ああ、私も見えるようになったんだな』程度の認識だった。けれど、それでも、異常は異常。他の人には言えない、家族だけの秘密だ。

教室に入ると、いつもは遅刻寸前にしか入ってこない鎌田が机に突っ伏していた。その横に立つ沢村と会話しているけれど、どうも沢村の顔色が優れない様に見える。しかも、いつも学ランの筈の沢村は今日に限ってブレザーを着ていた。
「おはよ、沢村、鎌田。珍しいね、鎌田が一時間目から学校来るなんて」
自分の席に鞄を置いて話し掛けると、鎌田は大きな欠伸をしながら顔を挙げた。仲の良い沢村とは寝ながらでも話すのに、私には顔を挙げる。見えない壁を築かれた様で、その差異がちくりと胸に刺さった。
「珍しいって、オレは昨日も朝から来てたぜ?まあ、確かに二日連続ってのは珍しいかも知れないけど」
椅子の背もたれで背を反らしながら言う鎌田。そして大きな欠伸をした。
「ああ畜生、眠くて仕方ねぇ。けど、学校来た以上帰るのも面倒だしな…全授業寝るか」
無茶苦茶な事を言い出した。だがまあ、鎌田の奇行は今に始まった事でもない。
「それと、沢村はどうしたの?いっつも学ランなのに、何で今日に限ってブレザーなの?」
尋ねると、沢村は苦笑しながら答えた。
「ああ、昨日の夜にちょっと事故ってさ。左肩は痛めるし、制服も破れるしで散々だった」
「事故って、病院行かなくて大丈夫?折れたりしてないの?」
顔色が優れないのもその事故の所為か。大丈夫な様には見えるけれど、それでも心配にはなる。だが、沢村は明るく笑って見せた。
「怪我は大した事無かった。つばめ達も治療してくれたし」
鎌田は一瞬顔を引き攣らせ、沢村の脇腹に鋭い手刀を叩き込んだ。
「はぴゅっ…!?」
面白い悲鳴を上げる沢村。身体を折り、痛そうに悶えている。そりゃ脇腹は痛いよ、うん。凄く綺麗に決まってたしね。
「大した事無いなら良かったじゃん。たった今大した事になっちゃったけど。ところで、つばめって誰?」
『史××の馬鹿!なんで私×名前を言っ×ゃ×の!?不自然×事く××分×るでしょ!?』
―――え?
ノイズ交じりの声が聞こえた気がした。周りを見渡してみるけれど、そんな言葉を言いそうな人は何処にも居ない。そもそも、ノイズ交じりの声なんて物が存在する筈無いのに。
『あーも×、これか×ちゃ×と気を××てね、×郎君』
何だろう。何が聞こえているのだろう。少なくとも、この声は『史郎君』と沢村の名を呼んでいる。私の妄想なのだろうか?それとも、私に何かが起こっているのだろうか?
けれど沢村と鎌田に問い質そうとした瞬間、チャイムが私達を切り裂いた。

担任である守(マモル)先生の朝礼が終わり、一時間目の授業が始まる。数学の福本(フクモト)先生が教壇に立ち、訳の分からない数式を説明していた。
「加法定理と言ってね、sin(α+β)=sinαcosβ+cosαsinβ。そしてsin(α−β)=sinαcosβ−cosαsinβとなるんだ。僕は『咲いたコスモスコスモス咲いた』と覚えている。物騒な覚え方では『刺した殺した殺した刺した』と言うのもあるね」
難しすぎて眠くなってきた。欠伸を噛み殺しながら目の前の席を見てみると、鎌田は先ほどの宣言に違わずぐっすりと眠っている。福本先生も気付いているのだろうが、先生は授業の邪魔をしない限りは放任する主義だ。私も寝たいけど、授業聞かないとまたテストで悪い点取っちゃうし。だが、必死で別の事を考えようとしても例の声は時折、けれど徐々にはっきりと聞こえる様になっていた。
『へえ、今はそう×う風に覚え×んだ。私の時は「スピードコカイ×コカインス×ード」だったん×けどね』
幻聴じゃない。
その声は、私が知る筈が無い事まで知っている。しかもその声、そうやら沢村に話し掛けているらしい。訳が分からない。気持ち悪い。私には、何が起こっているのだろう?
不安になり、自分の両掌を見つめた。私に何かあったとするならば、その原因は昨日の紅い粒か今朝の悪夢以外には考えられない。
得体の知れない曖昧模糊とした恐怖がじわじわと私の魂を蝕み、陵辱する感触。
嫌だ。そんなのは嫌だ。怖いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。辛いのは嫌だ。
私を傷つける存在なんて、全て無くなってしまえば良い!

そうして、私は新たな世界を識る。

身体がぶれた。気の所為なんかじゃない。身体から魂が引きずり出される感覚。露出した魂は形を成し、冷やりとした硬質の感触を伴って私の右手に纏わり付いた。
そして、右手には血色の宝石を埋め込んだ白銀のメリケンサックが生まれる。それが一体何なのかと困惑しているうちに、その宝石は鈍い輝きを放って文字を表示する。

それは、『Medusa The End』と読めた。

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