(3−3:明石早苗)

これは、何だろう。突如として右手に現れた白銀のメリケンサック。それに恐怖しながらも軽く机を叩いてみると、コツコツと音がした。本物だ、幻じゃない。
それにさっきの『Medusa The End』の文字。数学の時間だからおおっぴらに使うわけにもいかないが、私は電子辞書を取り出すと英語辞典を開いた。

Medusa[名詞]<ギリシャ神話>メドゥーサ:三人姉妹の怪物Gorgonsの末妹。その名は『支配する女』の意味を持つ。元は大変美しい女性であったが、海神ポセイドンに気に入られ、女神アテネの神殿で契りを交わす。しかしそれによってアテネとポセイドンの妻アンフィトリテの怒りを買い、醜い姿に変えられる。毛髪が蛇となり、その姿を見たものを石に変える力を有する魔となる。ペルセウスに退治され、その血からはペガサスとクリュオサルが生まれた。

無理矢理訳すなら、『Medusa The End』は『メドゥーサ終』と言ったところか。とりあえずこのメリケンサックはメドゥーサ終と呼ぶとして、こんな物がなぜ私の右手に現れたのかが知りたい。
(おい、明石)
かけられた小さな声に左を見ると、沢村がこちらを見ていた。その視点の先は右手…メドゥーサ終だ。私は思わず右手を机の下に隠した。
(授業終わったら、話がある。とりあえずそれは有害な物じゃない、落ち着け)
囁く様に沢村は言う。福本先生はどうやら私達の私語には気付いていない模様。私は頷き、ひとまずは授業に集中する事にする。本当は落ち着いて授業を聞いているような気分じゃないけれど、沢村がこれについて何か知っているという事が分かっただけで、少しだけ冷静になれた。

しばらくして、チャイムが鳴る。福本先生はそれと同時に問題の解説を終えた。
「さて、今日はここまでにしようか。予習と復習、時間と気力があったらお願いするよ。では日直、礼」
日直の号令に合わせて立ち上がり、頭を下げる。福本先生は手早く教科書とチョーク入れを纏めると、颯爽と教室を出て行った。
「さて、と。とりあえず教室じゃ何だ、人が来ない所まで行くぞ」
沢村が椅子から立ち上がる。そして私の前でぐっすり眠っている鎌田の椅子を全力で蹴飛ばした。いくら親友だからって、もう少し遠慮とかあっても良いと思うけど。
「もぐぁっ!?」
蹴られた鎌田は椅子から派手に転げ落ち、変な声を出して飛び起きる。昔の不良っぽい外見をしていながら、こんな愉快な一面を見せる鎌田が、私は好きだ。
「ちょっとお前も来い。タマガリ関連だ」
くい、と右手の親指で私の右手を指す沢村。鎌田も眼を擦りながら頷き、私と一緒に廊下へ出た。タマガリという聞きなれない単語が気になるが、恐らく、右手に鈍く輝くこいつに関連する言葉なのだろう。私は黙って沢村と鎌田の後について廊下の端の階段を二階分登り、屋上へ続く金属製の扉の前まで行った。この屋上は、昔自殺者が出たとかで閉鎖されている。滅多に人が来る事も無いから、こういったあまり聞かれたくない類の話をするには最適な場所だ。
「さて、何から話すかね…」
階段に座り込んだ沢村は後頭部を掻きながら呟く。鎌田は沢村に説明責任を押し付けたのか、腕組して壁にもたれかかっている。もしかすると、ただ眠いだけなのかも知れないが。
「まず、それはタマガリって言う物だ。魂を狩ると書いて、魂狩」
まずそこまで言って、沢村は小さく息を吐いた。顔を上げた沢村は、今まで見た事も無い真剣な目で語り始めた。
「とりあえず、最後まで俺の話を聞いてくれ。電波を受信してると思うのはまあ、明石の自由だが」
頷く。鎌田も何故か頷いた…と思ったら、船を漕いでいただけだった。立ったままよく寝られるなあ。沢村は無言で立ち上がると、鎌田の頭を思い切りよく叩いた。階段を転がり落ちる黄金の箒…踊り場に転がってもまだ寝続ける鎌田には、さすがに呆れた。
「戒治は置いといてくれ。こんな程度の事で死ぬような奴じゃないし…まず、俺は幽霊が見える。で、何の因果か死神に命狙われて…」
沢村は事の顛末を話した。
沢村、鎌田は幼い頃から幽霊が見えたという事。黒木、火田、小海という三人の死神の事。そしてその武器である魂狩が粒子になって、私の体に潜んでいる事…
「…という訳だ。さて、何か質問は?」
「じゃあまず、黒木さん達…だっけ?彼女は今、どこに?」
『はいはーい、私はここだよー?他二人は史郎君の家で療養中だけどね』
能天気な挨拶。正体が分からなければ不気味な声も、落ち着いて聞いてみれば明るい声だ。その声を頼りに沢村の横を見ると、そこには黒い服を着た白髪の女が立っていた。
姿もはっきり見える様になっているし、授業中と違って声にノイズも重ならない。この魂狩とやらが私の眼に何らかの影響を与えているのだろうか?
「えっと…はじめまして、で良いのかな?明石早苗、です」
『はいどうも、はじめまして。黒木つばめです。黒木でもつばめでも、どっちでも好きに呼んでね?』
微笑みながら手を差し出す黒木さん…否、つばめ。やっぱり呼び捨てにした方が、親近感が湧く。
そして私はその手を握ろうとして、右手に装備されたままのメデューサ終に気付く。ずっと握り締めていても気にならないほど、このメリケンサックは私の腕に馴染んでいた。
しかしながら、いくら何でもメリケンサックを握ったまま握手するのは失礼すぎる。私はメデューサ終を左手に持ち替え、彼女の手を取る。冷やりとした感覚に少し驚いたけれど、寒気ともまた違う…夏の暑い盛りに少し冷房が効いた部屋に入った様な、心地良い冷たさだった。
『あ、その魂狩だけど。消えろ、と思ったら普通に消えると思うよ?出したい時は、出そうと思うだけで出るって戒治君は言ってたよ』
つばめの言葉に従い、メドューサ終に向かって消えろと念じる。銀に輝くメリケンサックは霧の様に消え、私の体の中に吸い込まれていった。念の為もう一度出し、そしてもう一度消してみる。コツさえ掴めば、自転車に乗るより簡単に出来た。結構便利だ。
「他にも色々細かく言いたい事も聞きたい事もあるんだが…とりあえず、教室戻ろう。後一分程度で、守先生の英語だ」
腕時計を見ながら沢村がそう言った瞬間、呆れた事にまだ踊り場で寝ていた鎌田が飛び起きた。
「マジかよ!早く教室戻るぞ、遅刻したら殺される!」
慌てて教室へと走り出す鎌田。その後ろを苦笑しながら沢村が駆けて行く。勿論、私もその後を追った。走らなくても十分間に合う距離だけれど、前を走っている人がいたらその理由に関わらず一緒に走りたくなるのは人情って物だ。誰だってそうだ。
嘘だと思うなら、街を歩いている時に見ず知らずの他人の耳元で「逃げろ」と囁いてからダッシュしてみたら良い。絶対その人も走る。
そんな事を考えながら、鎌田と沢村を追う様に階段を駆け下りる。足の速さには自信があるけれど、二人を追い越したりはしない。付かず離れずの位置をキープ。ここは階段、私はスカート、OK?
『にしても、遅刻した程度で殺されるってのは物騒ね。その守とかいう先生はそんなに狂暴な奴なの?』
「あー、うん。そこそこ」
怪訝そうな顔で尋ねたつばめに曖昧な言葉を返す。確かに、守先生の授業に遅刻したら鎌田の命は無いだろう。そりゃもう、確実に。
二年生の教室がある二階に到着、廊下をダッシュして教室へ。教室にはいつの間にか鎌田を追い抜いていた沢村が飛び込み、その瞬間。
無情にも、チャイムが鳴った。同時に、鎌田は全身をバネにして教室へとダイブ。そして。

放り投げられた教卓と一緒に、鎌田が教室から排出された。

「よぉ、戒治。あたしの授業はチャイムが鳴るまでに席に座って、教科書とノートを広げとけって言ったよなぁ?」
教卓を投げつけられた所為で昏倒し、廊下に横たわる鎌田。その脇腹を、守先生は情け容赦無く踏みつけた。そして踏みつけるだけに飽き足らず、ぐりぐりと脇腹に踵を捻じ込む。
ああ、すっげぇ痛そう。
そこで初めて守先生は私の存在に気付き、呆れ半分の笑顔を見せた。
「なんだ、明石。お前まだ廊下にいたのか?早く教室に入れ、チャイムはもう鳴ったぞ?」
「さ、さー!いえすさー!」
思わず直立不動で敬礼してしまった。そして次の瞬間、教室へ飛び込んで扉を閉めた。
教室内部は教卓が無くなっている所為でちょっとばかり間抜けな空間。生徒は全員耳を塞いで廊下からの悲鳴と殴打の音を聞かない様にしていた。
五分間(結構長い時間だ。)の間、鎌田の身体を蹂躙する音が聞こえ続けたが、ぴたりと止まった。そして守先生は晴れがましい笑顔で教室に戻ってきた。その後ろに、ふらふらと幽鬼の如き足取りで鎌田が続く。
と思ったら、ハイキックを喰らってもう一度廊下へ飛んでいった。守先生の鮮やかに染まった金髪が、ふわりと揺れる。彼女はそれを軽く整えながら、冷淡な声で告げる。けれどその声に僅かながらも喜悦の色が混ざっている様なのは、私の気のせいだろうか…
「何やってんだ、戒治。何で手ぶらなんだ?ほれ、教卓持って来いよ」
理不尽な事を言われながらも再び教室に現れた鎌田は、教卓に半ばもたれかかる様にしての登場だった。教卓を教壇の前に設置すると、一歩一歩確かめる様に自席へ向かう。自慢の箒みたいな金髪も、今はヨレヨレのクタクタだった。下手したらこれ、突付いただけで死ぬんじゃないの?
「…大丈夫?」
「大丈夫な訳ねぇだろ…あのアマ、傷跡が残らない様に手加減しながら急所ばっか狙ってきやがる…」
鎌田は今にも死にそうな様子だ。それでも教科書とノートを広げているのは、これ以上守先生を怒らせたくないからだろう。
『ねえ、あの人なんで戒治君にだけあんなに乱暴なの?流行りのツンデレって奴とか?』
つばめの問い掛けに、私は広げたノートに守先生のフルネームを書いて見せた。
鎌田守。
そう、彼女は鎌田のお姉さんなのだ。鎌田が二人いるとややこしいという理由で、うちのクラスでは下の名前で守先生と呼ばれているけれど。
『鎌田…守…?』
つばめは小さく呟くと、守先生の方へと向かっていく。一体どうしたのかと、沢村も不安げに見守っている。弟である鎌田も幽霊が見えるのだから、守先生も幽霊が見える可能性は否定出来ない。しかしながら、守先生は目の目に立って顔を覗き込むつばめを意にも解さず授業を始めた。もしも見えているなら、あからさまな動きは無くても何らかの反応はするだろう。それが無い所から察するに、どうやら守先生は幽霊が見えない体質らしい。
しばらくするとつばめは教室の後ろ、沢村の席の隣までゆっくり戻る。伏せられた表情は読み取れないが、酷く落胆している様に見える。
「じゃあ、原田。五問目のEmiの台詞を読め。聖沢(ヒジリサワ)はPatの台詞を」
「えっと…Oh no, I failed again. I’m dawn to my last life…」
私は音読を始める二人をよそに、沢村の横で難しい顔をしているつばめを見ていた。彼女はずっと目で守先生を追っている。一体何が彼女をそこまで駆り立てるのか。少し気になった。けれど、訊かないでおく。
つばめの瞳に、涙が光った様な気がした。

しばらくして授業を終えた守先生は、意気揚々と鼻歌を歌いながら教室を出て行った。ちなみに鎌田を五分間殴り続けた時間の遅れは、少しばかり授業のペースを速める事で解決されていた。もっとも、授業が速かろうが遅かろうが、その内容が理解出来ない事に変わりは無いけど。ほら私、バカですから。
『っはは…見えないだろうと分かってても、無視されるってのは辛いもんね。どうして私、戒治君の名字を聞いた時に気付けなかったんだろ?』
自嘲的な言葉を漏らすつばめ。名前を呼ばれた鎌田が突っ伏していた机から上体を起こす。かなりしんどそうだけど、話が出来る位には回復しているらしい。
「黒木。どうかしたか?」
幸いにもここは教室窓際一番後ろ。小さな声でなら、会話の内容を聞かれる心配も無い。
『ねえ、戒治君。君のお姉さんだけど、髪の毛を染めたのはいつ頃?』
突如変な事を言い出したつばめ。怪訝な顔をしながらも、鎌田は質問に答えた。
「姉貴が髪の毛を染めた時期?えっと、確か俺が小学校高学年で姉貴が高校の時だったと思うから…確か五年か六年位前だと思う。しかし、何でまたそんな事を?」
つばめは小さく笑う。とても寂しそうで、見ているだけで胸が締め付けられる微笑み。
『うん、守の黒髪は綺麗だったな、と思って。いや、フルネーム聞くまではそうだって分からなかったんだけど…あいつとは、友達だったから』
「…はい?」
沢村と鎌田の声が裏返る。つばめはやはりその微笑みを崩さず、自分の真っ白な髪の毛を指先でいじりながら答えた。
『私さ、生きてた頃はここ、高揚学園の生徒だったのよ。で、守とはその時に友達だったわけ。さっき近くから見たけど、同姓同名の別人、って事は無いと思う』
唖然とする鎌田。しかしそれとは対照的に、沢村の顔は明るくなる。
「じゃあ話は簡単だ、守先生がつばめの親友だったって言うなら、つばめの身体がある場所も知ってるかもしれないからな」
にやりと、沢村は不敵に笑った。

3−2     3−4

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