(3−4:鎌田守)

昼休みを告げるチャイムが鳴った。あたしは英語研究室を出ると、食堂へ向かう。
廊下をとんでもないスピードで駆け抜ける生徒達の一群。きっと購買部のヤキソバパンを求めての事だろう。確かにあれは美味いけれど、競争率があまりにも激しすぎる。ゆっくり食事をしたい気分なので、今日はパス。
「さて、と。今日は何を食べようか?」
ロブスターの味噌煮定食は昨日食ったし、カツカレーうどん定食は一昨日に。そうだな、今日は麻婆豆腐定食にするか。これなら競争率は異常に低い。あたし以外にこのメニューを頼んでいる奴を見た事が無い位だ。
券売機の前に連なる生徒達に混ざって並び、財布から五百円玉を取り出す。高校時代からこの学食を愛用しているあたしだが、いくつになっても券売機に並んでいる時の高揚感は良い物だ。高校時代はつばめと一緒に…
高校時代の親友の事が脳裏を過ぎり、お釣りの百円玉を握り締めたあたしは少し悲しい気分になった。

学食のおばさんに食券を渡す。おばさんは愛想良く皿に麻婆豆腐を盛ってくれた。うん、今日も最高に辛そうだ。
「守先生、よくそんなもん食えますね…」
横からかけられた呆れ声。見てみると、沢村と明石がそこに立っていた。後、戒治もいた。我が弟ながら、大した回復力だ。小さい頃から鍛えてやった結果が実を結んだという事だろうか。
「人様の好物を『そんなもん』扱いするな。麻婆豆腐とそれを作ってくれた学食のおばさんと、それからあたしに謝れ」
沢村は素直に頭を下げた。ここであたしに反抗した所で互いに一銭の得にもならない事を良く理解しているからだろう。
あたしは定食のお盆を持つと食堂の端、教師陣の指定席となっているテーブルに座った。レンゲで真っ赤な溶岩にも似た麻婆豆腐を掬い、口に運ぶ。視界の角では、沢村が明石と戒治と一緒に食事していた。
あいつと戒治が友達になったのは、戒治が小学校の時だっただろうから、大体十年ほど前になる。最初に見た時は、年齢の割に妙に大人びたいけ好かないガキという印象だった。しかし、何度か顔を合わせる内のその印象が変わってきた。
こいつは大人びているんじゃない。この年齢で、自分の人生を諦めかけているだけだ。以後数年に渡り沢村を見てきたが、奴は自分自身の未来をほぼ諦めながらも完全に希望を棄てる事は無く、ふらふらと夕闇で生き続けている。世界を見限って夜に落ちるでもなく、世界を受け入れて朝に向かうでもなく。
成績や授業態度は全て中の中。決して褒められたものじゃないが、逆に注意すべき場所も無い。生徒として接するにはこの上無くやり易い相手だが、人間として接するには少々厄介なタイプだ。そんな事を思いながらも、麻婆豆腐を胃袋に入れていく。額の汗を拭いつつ、水を一杯。唐辛子と豆板醤でひりつく喉に、冷たい水が気持ちよく染み渡る。
「鎌田先生、少々お時間よろしいでしょうか?」
今度は誰だ。そう思って見ると、白い学ランが目に飛び込んできた。
…何をどう間違えても、こんな狂った服を着用するのは三年の高砂に決まっている。学ラン着用者でも一番上のボタンまでしっかり留めている奴は稀だが、こいつは襟元のホックまでぴっちり留めていた。その上、毎日新品を卸して着ているんじゃないかと思う程の純白。ここまで特徴的な奴を見間違える事など、万に一つも在りはしない。
「高砂。何度も言ったが、うちは制服を採用している。男子はブレザーか学ラン、女子はブレザーかセーラー服だ。短ランや長ランの改造もある程度なら認めちゃいるし、本人が希望するなら男子のセーラー服も女子の学ランも認めてやろう。だがな、頼むからその色だけは止めとけ」
頭が痛くなってきた。この後のこいつの返答も、いつも同じだ。両手を優雅に広げ、自分の存在をアピール。一年生どもは稀有な物でも見るような視線だが、二年と三年はもう慣れたのか、動揺もしない。
「何を仰いますか、鎌田先生。私、高砂五月雨丸(タカサゴ・サミダレマル)は高揚学園高等学校の生徒会長。そして、往々にして生徒会長たる者は白い学ランを着ているものです」
ああそうだ、それがお前の持論だったな。何でこんなバカが生徒会長をやってるんだ、この高校は。あたしらの時代はもう少し真面目な奴が生徒会長だったんだがな。
「話なら後で聞いてやるから、あたしが麻婆豆腐定食を食い終わるまで待ってくれるか?」
すると高砂、水を得た魚の如く活気付いた。いや、こいつがしおれている所なんぞ見た事が無い。正しくは竜が雲を得た様に、か。
「これは異な事を仰いますね、鎌田先生。その麻婆豆腐定食ですが、花椒が全くもって足りません。ええ、決定的に足りません。それではただ挽肉と唐辛子や豆板醤を炒めた後に鶏ガラスープで豆腐と共に煮込んだだけの食品で…」
五月蝿いので二、三発殴ろうと手を伸ばす。しかし、高砂は器用に距離を測った。
こいつ、この原子崩壊した性格以外はあらゆる事で超一流だから腹が立つ。諦めたあたしは手早く定食を掻き込むと、高砂に向き直った。
と思ったら、この大馬鹿野郎は自分の昼飯として麻婆豆腐定食を食っていた。あたし以外に麻婆豆腐定食を頼んだ奴を初めて見た訳だが、親近感は湧かなかった。
決めた。いつかこいつ、絶対泣かす。
だが、残念ながらあたしは教師でこいつは生徒だ。こんな関係でなければ殴ろうが何をしようが、最終的には死なない限り傷害罪だ。死んだとしても殺人罪だ。しかし教師と生徒の関係である限り、体罰とか何だとかのややこしい問題がついて回る。仕方ない、呪い殺す方向で何とかしようか…
等と考えている内に、高砂が食事を終えた。ポケットから取り出したハンカチで優雅に口元を拭う仕草が、殺意ゲージを急上昇させる。
「して、話を戻しますが…私の相談事よりも、少々気になる事が。鎌田先生、何事かお悩みですか?少々お顔の色が優れない様にお見受けします。金銭面、及び恋愛問題でない限りはお力になれる様に尽力致しましょう」
「お前の尽力は底が見えん。怖いから、絶対に頼らん」
即答した。この高揚学園創立以来の天才と呼ばれるロクデナシ、これでも大企業の御曹司だ。ちょっとこいつがその気になれば、世界有数の総合企業が動き出す。それに、沢村の事はこいつがどうこうできる分野の問題ではない。
「そうですか。出過ぎた真似をして、申し訳ありません」
高砂は頭を下げる。一々貴族的と言うか、優雅な仕草だ。しかし、それに対しては腹が立たない。こいつは変人だが、その行為全ては本心から出た物。自分が間違ったと思えば素直に謝罪し、逆に間違っていないと思えば頑として譲らない。だからこいつは、生徒は無論、教師からも一目置かれている。
「で、お前の相談ってのは何だ?」
「ええ、ご気分を害されるかも知れませんが、黒木君の事です」
一瞬だけ、胸が痛んだ。今も病院で眠り続けている親友。しかし、高砂が今その事に触れる筈は無い。こいつが言っているのは、同級生の黒木ひばりについてだ。
「ひ…黒木が、どうかしたか?」
「それは先生の方がご存知でしょう。彼女はここ数日登校していません。元々黒木君は出席状況も芳しくない。留年も危ぶまれます」
何故A組のこいつがD組の出席状況まで把握しているのか。疑問には思うが、あえて理由は聞かない。同学年の出席状況など、調べようと思えば簡単に調べられる。こいつの場合、他の学年の出席状況まで把握していそうな気もするが。
高砂五月雨丸の行動に、我々の常識など通用しない。
眩暈がした。
「そんな事言ってもな、あたしだって黒木と特別に親しい訳じゃない。あいつが休んでる理由なんぞ、担任の魚沼先生の方が詳しいだろうに。そもそも、何でこの話題があたしの気分を害するんだ?」
高砂は真鍮縁の丸メガネを指先で押し上げた。その奥に見える瞳は、獲物を前にした猛禽類のそれにも似ていた。ただ、こいつは猛禽類より断然性質が悪い。猛禽類はただ獰猛なだけだが、こいつはその上知恵まで回る。
「ええ、これからご気分を害する事になります…鎌田先生、黒木君と親しくないとは、ご冗談を。先生が黒木君を気にかけている事を見破れぬ私だとお思いでしょうか?それならば、私も軽く見られたものです…先生と黒木君のお姉様は、親友だったのではありませんでしたか?」
ああ、なるほど。こういう事か。そりゃ確かに、あたしの気分を害するな。
文句の一つでも言ってやろうかと思った瞬間、高砂が頭を鞄で叩かれて椅子から転がり落ちていた。

「高砂、あたしがどうかしたか?」

そこにはセーラー服の女が立っていた。黒の長髪をシンプルなバレッタで乱暴に纏め、女子高生のそれにしてはあまりにも飾り気の無い鞄を右手に、購買のコロッケバーガーと紙パックのコーヒーを左手に抱えている。
「何だ高砂、ちゃんと学校に来てるじゃないか」
「…あたしが学校に来てないとか、そう言う告げ口すか?」
ぶっきらぼうに言うひばり。高砂は叩かれた頭をさすりながら起き上がると、服に付いた埃を軽く払う。そして、再び丸メガネを指先で押し上げた。
「告げ口とは心外だな、黒木君。私はただ生徒会長として、特に健康上の理由が見られないのに欠席している君を心配し、その理由を知っている可能性がある鎌田先生に意見を伺っていただけだよ。それとも何かね、君は告げ口される様な後ろ暗い事に心当たりでも?」
立て板に水と捲くし立てる高砂。もし舌戦でこいつに勝てる奴がいるのなら、今すぐここに連れて来て貰いたい。
「…いけ好かない奴だね、あんたは」
吐き棄てるひばりに、高砂は微笑みながら言い返す。
「よく言われるよ、黒木君」
ここが屋外ならば唾でも吐き捨てんばかりの勢いで高砂を睨みつけると、ひばりは食堂の隅へ去っていった。息を吐くと、高砂の頭を軽く叩く。この程度、体罰にも入らん。
「お前なあ、何だってああも神経を逆撫でする様な言い方をする?お前の脳みそなら、相手に不快感を与えない言い方も出来るだろう。無駄に同級生を苛立たせるんじゃない。もう少し、常識って物を弁えろ」
「心外ですね。私とて常識ならばしっかりと持ち合わせています。ただ、それを実行する能力と意欲が欠如してはいますが。それに、ああやって私を憎ませれば彼女も苛立ちのやり場が出来ますから」
ああ言えばこう言いやがる。しかし、自分から憎まれ役を買って出る生徒会長というのも立派な大義名分だ。少なくとも、教師のあたしからはこれ以上の口出しが出来ない。ここから先は生徒の領域、大人が口出しするべき場所では無い。
「まったく…とにかく、黒木が学校来てるんだったらあたしに用事は無くなった訳だろ?」
「そうですね、お手数をお掛けしました」
あたしはお盆を持って食器返却口に向かおうとした。と、高砂はついと片手を上げる。こいつの事だからてっきり指を鳴らして『ギャルソン!』とでも叫ぶのかと思ったが、そうでは無いらしい。そもそも学食に給仕係なんぞ居ないし、このロクデナシも学校に自前の給仕を連れて来るほど頭が賑やかではない。自前のメイドなら連れて来ているのが、多少問題だが。しかも同級生。こいつ、どっかの頭が悪い恋愛シミュレーションゲームの主人公みたいな環境で生きてやがる。頼むから、攻略可能キャラクターの中にあたしを入れないでおいてくれよ。
「どうした、まだ何か用か?」
「ええ、まだ少し。黒木君は元々出席状況は芳しくない。先ほど私はそう言いましたが、ここ数日、頓に登校日数が減少傾向にあります」
そんな事、あたしに言われてもな。教師から注意しろってんなら、それこそ魚沼先生に頼むべき問題だ。担任だけに責任を押し付けるつもりは無いが、仕事にはそれぞれの領分って物があるからな。
「彼女は確かに、一般的見地から評価するならば紛れも無く不良です。しかし、私には彼女が何の理由も無しに社会に反抗する類の人間であるとは思えないのですよ」
「お前がどう思おうが、そりゃ高砂五月雨丸個人の主観だろう。黒木には黒木なりの考えがあって、ああいう人生を選んでるんだろうよ。授業に出るか出ないかなんぞ、個人の自由。同様に、社会に反抗するもしないも個人の自由さ」
教師が言うべき台詞では無いかも知れない。しかしまあ、全員が全員真面目な教師ばっかりじゃ、学生も窮屈だろう。
以前職員室で冗談半分にこんな事を言ったら、理事長校長以下教師全員が拍手をくれた。誰か止めろよ。もしくは、誰か真面目な教師の役をやれよ。
「いや、一々ごもっとも。しかし、世間がどう評価しようとも、私が彼女を優しい女性だと信じる事に聊かも変わりはありません。極論を申し上げるならば、全世界が黒だと言おうとも、私がそれを白だと信じる事の妨げにはならないのですよ」
まあそりゃ、ひばりが優しい奴だと信じるのはお前の自由さ。そして実際、ひばりは虫も殺せない様な優しい奴だ。
つばめが事故で昏睡状態になってしまうまでは、という条件付きでならば。
「何があったのか、黒木君に尋ねる事は容易です。しかしながら私が尋ねても、私は彼女に何が出来る訳でもないし、また、その権利も無い。何かしてあげられる人間が居るとするならば、それは彼女をより深く知る人間…例えば鎌田先生、貴女です」
高砂はいつも通りの穏やかで自信に満ちた微笑を崩さずに言い放った。
「お前、本当にいけ好かない奴だな」
「ええ、よく言われます」
あたしはとりあえず一発高砂を殴り、食堂の隅へと向かう。あたしの気配に気付いたひばりが、その顔を上げた。

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