(3−5:鎌田戒治)

放課後。
二時間目に姉貴に蹂躙され尽くした身体は節々が悲鳴を上げるが、それでも普通に行動する分には支障無い程度には回復した。急所ばかり狙われたが、それでも本当に危険な急所…例えば喉なんかには全くダメージが無い。これでも実の姉弟だ、ある程度は手加減してくれたのだったら嬉しいが。
「ところで史郎、英語研究室ってどこだ?」
教室を出た所で振り向いて尋ねると、史郎は肩をすくめて首を左右に振った。そんなもん俺が知る訳ねーだろこの馬鹿め、という意味だと判断。まあ、英語研究室なんてそんな頻繁に用がある場所でも無いしな。少なくとも、その場所を知らなくたって学生生活にはそれほど深刻な問題は発生しない。
『英研は確か、生徒棟の二階東側だったと思うけど?』
つばめが言い、それに従ってオレ達は二階へ向かう。向かうと言っても、階段を一階分降りるだけ。英語研究室はそこに在った。
「失礼しまーす」
とりあえず儀礼的に扉をノック、その後返事も聞かずに開ける。どうせ姉貴か後数人の英語教師しかいる筈が無いわけで、しかも今は中間テスト前。万が一にでも作成中の問題用紙が見えれば幸運ってなもんよ。
そう思ったのだが、いざ入って見た研究室の中は仄暗かった。夕暮れが迫ってるというのに、電灯が灯されていないからだ。そしてついでに、ヤニ臭い。この原因は偏に姉貴が煙草を吸っている所為だが。
「…戒冶か。それに沢村と明石も。どうした、何か用か?まあ、お前達の事だ。『この問題が分からないんです、先生教えて下さい』なんて事は無いだろうけど」
…姉貴の口数が妙に多い。こういう時は、何かしらの悩みか心配事を抱えてる時だ。しかも、相当厄介な類の。
「まあ、質問って言えば質問なんだけどさ。それより鎌田先生…いや、姉貴。何か心配事か?」
「学校では姉貴と呼ぶなって言ってるだろ、戒冶。わざわざ言い直しやがって、そんなに姉貴に逆らいたい年頃か?」
姉貴は肩を竦めると、灰皿に煙草を押し付けた。山盛りになった吸殻が溢れ、机の上に落ちる。煙草は大人の嗜好品だろうが、この量が一日分だとするといくら何でも吸いすぎじゃないのか?
「まあ良いさ、確かに心配事はある…お前達に言っても埒が明かないが…昔の友達の事で、な」
黒木と史郎が目配せする。ここは一気に畳みかける場所だろう。
「姉貴。それは、黒木つばめの事か?もしそうだったら、話を聞かせてくれ」
姉貴は驚いた顔を見せ、そして小さく笑った。
椅子からゆっくりと立ち上がると、研究室の隅にある小さな流しへ向かう。紙コップを四つ取り出してそれぞれにインスタントコーヒーの粉とお湯を入れ、スティックシュガーとコーヒーフレッシュを乱暴に掴んで戻ってきた。
「この部屋に紅茶は無い。お前らが紅茶派かコーヒー派かは知らんが、紅茶派だろうとコーヒー飲んだら死ぬ訳じゃ無い。ありがたく飲め。とりあえず、そっちのソファに座るんだな…あらかじめ言っておくが、長い話になるぞ」

…戒冶が何でつばめの名前を知ってるのかは知らんが…以前話した事あったか?まあ良い、今は関係無いな。
あたしの同級生に、黒木つばめって奴がいる。厳密にはいた、という過去形にになるんだろうが、この辺はあたしの拘りだ。
あたしとつばめは、中学校からの親友だった。
親友ってのとそうじゃない友達にどういう差異があるかは知らないし、つばめはあたしを親友だと思っていたかなんて知らないけどな。
(ここでつばめが『私も親友だと思ってるよ、守』と言ったのだが、残念ながら姉貴にその声が届く事は無かった)
とにかく、あたしにはつばめって親友がいて、どこへ行くのもいつも一緒だった。その時は戒冶も小学生のガキだったし、祖父ちゃんと祖母ちゃんに迷惑かけたくなかったから、家には呼ばなかったけどな。とにかく、それが六年前だ。
ある日、つばめは交通事故に遭ったんだよ。その時に打ち所が悪かったんだろうな、それからこっち、ずっと意識不明だ。脳にも体にも、これと言った異常は見当たらないらしいし、いつ起きたっておかしくない。だが、とにかく起きない以上は病院暮らしだ。
人工呼吸と点滴、その他諸々の処置で命だけは永らえてるんだが、もう六年。意識不明の人間を生かし続けるってのも金が掛かる物らしくてな。つばめの両親が、人工呼吸器を外すか否かで揉めてるらしいんだよ。

「つばめを親友だ何だって言っときながら、結局あたしの安月給じゃつばめの両親の代わりにあいつの延命治療も出来ない。ひばり…つばめの妹も何とかしようとしてるみたいだけど、あいつだって所詮は高校生だ。一時的な金はどうにかできたって、恒久的にそれを供給出来る訳じゃない」
姉貴は目頭を押さえて咽ぶ。こんなに弱々しい姉貴の姿を見たのは、いつ以来だろうか。親父とお袋が死んだ時だって気丈に振る舞って、オレは元より祖父ちゃんや祖母ちゃんの前でも決して涙を見せなかった姉貴が、人前でこんな…

「…っ!」
畜生。葬式の事なんて、思い出すんじゃなかった。

唐突に、あの日の光景が脳裡に舞い戻る。
熱せられた木材が爆ぜる高い音。喉の奥から水分を奪われていく痛み。流した涙が頬を伝う間も無く乾いていく。崩れた何かに挟まれ、全く動かない身体。
そして漂うのは、焼けた肉の匂い。目の前で、大切な何かが燃えていく。目の前で、大切な誰かが燃えていく。
紅蓮がオレの視界を包み込み…

「…っは…」
心臓が痛む。急いで記憶に鍵をかけ、心の奥底に仕舞いこむ。
これは、思い出すべきでは無い記憶だ。思い出す事で、オレ自身が傷つけられる記憶だ。どれだけ繰り返しても救われない、全て終わってしまった過去の記憶だ。
畳みかけるように意識を閉鎖。これ以上思い出さない様にと、ただそれだけを願って。
終わってしまった事を嘆く事は無意味だ。例えそれが、両親の最後の姿であったとしても。
「鎌田…?」
明石が心配そうに問いかける。
「何でもない、大丈夫だ」
明石の気持ちは嬉しい。だが今は、この沈んだ姉貴をどうにかしてやりたい。それはオレがこれ以上親父とお袋の事を思い出さない為でもあるし、何よりも。
ああそうさ、シスコンだとでも何とでも言えば良い。特に否定するつもりも無いし、否定する意味も無いしな。
オレは、姉貴の悲しむ顔なんて見たくないんだ。

「しかし、先生。人工呼吸器を外すなんて、本人が延命処置を拒否していた場合とかに限られるんじゃないですか?」
史郎が質問すると、姉貴は自分の机の上からピンク色の手帳を持って来た。机の上に置かれたそれに史郎が手を伸ばそうとするが、寸前で姉貴がそれを押さえつける。
「今日、さっきも言ったつばめの妹のひばりから受け取ったんだが…沢村。これを読む前に、一つだけ言っておく事がある」
姉貴は目尻に溜まった涙を指先で拭うと、真剣な眼差しでオレ達を見据える。
「これは、つばめの日記だ」
『い、嫌ああああああっ! 』
黒木の絶叫が響き渡る。聞こえていない姉貴はどうとも無いだろうが、オレ達三人にとっては鼓膜を貫く様な大声だ。
「六年前につばめが感じた事、考えた事が率直に書かれている」
『止めて、お願いだから読まないでっ!』
姉貴に聞こえていない以上、オレ達はこの絶叫に耳を塞ぐ訳にはいかない。三人とも、幽霊を見たり触ったり出来る事は秘密にしているのだから。
にしても、黒木の取り乱し方はあまりに異常だ。余程見られたくない事が書いてあるのか。この日記帳、鍵付きだしな。恋人への思いが赤面モノの文体で綴ってあるとか、電波的な自作のポエムが書いてあるとか。見られたくない日記ってのは往々にしてそういう物だろう。
「これが鍵だ。六月十七日の日記を見てみろ」 差し出された鍵を受け取る史郎。黒木は大声で叫んでいるが、幽霊が見えない姉貴の前で迂闊な行動は出来ないらしく、直接的な妨害はしない。
そして、禁断の扉は開かれる…

「『六月十七日』」
鍵を開けた史郎は、言われた日の日記を声に出して読み始める。さすがに観念したのか、黒木は両手で耳を塞いで部屋の隅にうずくまって『聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない…』と呪詛の様に繰り返すばかり。不気味と言う以外には今の彼女を形容する手段が無い。
「…『保健体育で受けた脳死についての講義について。私が脳死状態になる事があれば、無意味な延命処置はして欲しくない。脳が死んでいる以上、身体が動いていてもそれは意味が無い事だと思うから』」
史郎は目を見開く。ここまで真面目な日記を女子高生が書くなんて、ある意味電波ポエム以上に稀有な存在だろう。オレ自身そんなに頭が良い方では無いし、その上に日記は書かないが、書いていたとしてもこんな真面目で高尚な内容は絶対書かないと思う。
「『魂、意思…そういった“私の体を動かしているモノ”が脳に宿らないと仮定しても、身体に指令を下すには脳という中継地点が必要。である以上、脳死したならばその先にある身体をも失う事になる。“私”が支配権を失った身体を残しておいても、それに意味は無いと思う。もちろん、植物人間の状態から蘇生したとかそういう事例もある訳だから、全てが無意味だとは言えないのだろうけれど…けれど、私がそうなった時には延命処置は望まない』」
まだ部屋の隅でうずくまって呪詛を唱え続けている黒木を見る。
出会って一日二日しか経ってないが、オレは正直、彼女を見直した。
率直に、凄いと思う。今のオレと同じ年齢で、こんなに物事を深く考えていたなんて。
「『六月十八日』」
史郎がその次の日記を読み始める。今度は一体何について書かれているのだろうか。
「『昨日の日記を読み返して爆笑。何真面目に語ってんだろ、私。確かにそう思った事は事実だけど、わざわざ日記に書くような事じゃ無かったかな、と反省している』」
…え?

「『そんな事より、今日食べた公園のクレープ屋の新作、抹茶ラズベリークレープは美味しかった。基本のチョコバナナクレープも良いけど、時にはあんな奇抜なのも良いかな〜♪今後も新作は要チェキ☆』」
史郎はそこまで読みあげると、がっくりと肩を落として溜息をついた。そのまま姉貴の顔を見るが、姉貴は沈黙を保っている。
どうやら買いかぶり過ぎたらしい。オレは黒木に対する評価を少々下方修正した。何かこう、前日との温度差が凄凄すぎるんだが。
そりゃ確かに黒木だって死神になる前は一介の女子高生だった訳で、そりゃ公園のクレープ屋でクレープ食う事もあればその感想を日記に書く事もあるだろう。しかし、いくら何でも「要チェキ☆」は無ぇだろ、「要チェキ☆」は。少なくとも前日にあれだけ真面目な内容で日記を書いた後なんだから、少しは自重しろよ…

「まあ、その十八日の日記については無視しろ。問題なのは十七日、つばめが自身の延命処置を拒否した所なんだからな」
姉貴が言い、オレ達は頷いた。そう、黒木が他にどんな日記を書いていようとも、延命処置を拒んだ事に変わりは無い。
「…鎌田先生。その、黒木さんが入院してる病院ってどこか分かりませんか?」
姉貴は力無い苦笑を漏らすと、明石の頭を軽く小突く。
「いくら何でも、家族の了承も得ずに人様が入院してる病院を教えるほど間抜けでは無いぞ。明日でもひばりに教えても良いか聞いてやるから、今日は大人しく帰れ。そもそもお前、病院を聞いてどうするつもりだ?見舞いも結構だが、言っちゃ何だが他人のお前が見舞う必要は無いぞ?」
姉貴は小さなため息を吐くとソファから立ち上がり、小さく背伸びをしながら言った。
「まあ、何だ。泣き言ばっかり聞かせても悪いし、教師として格好もつかん。せめて最後には、教師らしい事を言わせて貰おうか」
夕陽の燃える空が、英語研究室を緋色に染め上げる。窓を背に立っている所為で、姉貴がどんな顔でその言葉を紡いだのか、オレには分からなかった。
「使い古された上にカビが生えた様な言葉だし、あたしのガラじゃ無いってのは重々承知してるがな…人間、大切な物は無くして初めてそれが大切だったと気付くんだ。無くす前にそれが大切だと気付ける事なんて稀。だからこそ、もしも大切な物を見付けられたら…それを強く握って、何があっても手放すな。往々にして、大切な物ってのは壊れやすい物でもあるんだから」

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