(3−6:黒木ひばり)

あたしは何故、この学校を選んだのだろう。
時々、そんな事を考えている自分がいる。
私立高揚学園高等部。創立百年以上の伝統を誇ると同時に、その伝統に縛られない自由な校風である事で知られる一応の名門校。ただ、それだけの学校だ。
あたしの性格ではお嬢様学校の礼節女学院ではやっていけないだろうが、市立高校だってあったし、事実、中学の同級生も大半はそっちへ行った。何故わざわざこんな学校へ進学する事を望んだのだろうか。
六年前のあの日から、勉強も運動も、何もかもにやる気が出ないというのに。
自由を気取るレディースの仲間になれば気も晴れるかと思ったが、そこでもぽっかりと空いた胸の穴を埋める事は出来なかった。頼りになる姉御や自分を頼ってくれる妹分が出来た事は嬉しかったけれど、ただそれだけだ。それはチーム「露雨零雷」の七代目ヘッドに任命された時だってそうだった。
実の姉を喪った空虚さから逃れる事は出来ない。
喪った、と言うと語弊があるだろう。だが、あの交通事故以来、姉は、つばめは目を覚まさない。人一倍優しくて物事を色々と深く考えているくせに、どこか間抜けで放っておけなかった姉。
その姉が通っていた高校に進学してみれば、何かが変わるかも知れない。そう、どこかで思い込んでいたのだろうか。
けれどその姉は未だに目を覚まさず、そしてもうすぐ命を散らす。

校舎裏、誰もいないあたしだけの特等席。授業に出る気にもなれなかったあたしは、そこで寝転がって空を眺めていた。
蒼穹には薄汚れた雲が流れ、その雲間を縫って差し込む日差しは生い茂る木立に阻まれて、その眩しさがあたしにまで届く事は無い。煙草の一本でも咥えていれば、不良高校生ここに極まる、といった光景が完成する事だろう。残念ながら、体質的に煙草が苦手なので吸っていないが。
ガサリ、と横の繁みで音がする。顔だけ向けると、でっぷり太った三毛猫が茂みから顔だけ出してこちらを眺めていた。ここで昼寝をしていると時々出会うデブ猫だ。首輪をしていないし、毛並みもぼさぼさ。誰かに飼われている猫では無いのだろう。三毛猫だからかなりの確率でメスなのに、妙にふてぶてしい顔つきだ。
「や、久しぶり。元気?」
三毛猫は答えず、茂みからのそのそと這い出してきた。もちろんこっちだって猫が返事をするなんて思った事も無いし、万一返事をしたら逃げる。人間の言葉を喋る猫なんて、マンガの中だけで十分だ。
「しかしまあ、あんたも物好きだね。猫は明るい所で丸まるのが仕事だろうに、ここは薄暗いぞ?ついでに、あたし以外には人も来ないから餌もねだれないし」
もっとも、あたしも相当な物好きだ。いくら話し相手がいないからって、猫に向かって話す事も無いだろうに。猫は腹周りのだぶついた脂肪を揺らしながらあたしの前を横切っていく。
「…ときに、黒木君。猫は酢昆布を食べるのだろうか」
声に驚いて起き上がると、そこには中腰になって三毛猫に酢昆布を差し出す高砂の姿があった。猫は警戒する素振りも見せずに高砂の方へ近寄ると、鼻をひくひくさせ始める。
「…少なくともそいつは食べるんじゃないの?匂い嗅いでるし」
あ、食った。
「しかし高砂、何故酢昆布。猫に酢昆布を差し出す考えもどうかと思うし、そもそもあんた、曲がりなりにも大財閥の御曹司だろ。何故酢昆布を常備している?」
「黒木君。父がいかな仕事をしていようと、息子が酢昆布を常備している事の理由にはならないよ。その上、私が常備している物が酢昆布だけだと思っているとすれば、心外だと言わざるを得ないね。現在は酢昆布の他にミントガムとベッコウ飴しか持っていないが、教室へ行けばロッカーの中に梅ジャムからどんぐり飴にミルク煎餅は当然として、念を入れて水飴その他まで幅広く揃えている。飲み物はラムネやニッキ水も取り扱いたい所なのだが、残念ながら冷蔵設備が無いので、粉末ジュースが限度だね」
聞きもしない事までよく喋る男だ。そう言えば、昼休みにこいつが駄菓子を売り捌いているのをよく見かける。生徒会副会長の天照(アマテラス)に追いかけられながら営業を続けたこの馬鹿、根性だけは立派だと思ったものだ。
「小遣いに不自由してるなら、手っ取り早くバイトでもすりゃ良いだろうに。学校で駄菓子売り捌くより手軽で確実な収入源だと思うけど?少なくとも、天照に怒鳴られる事は無くなるさね」
高砂は微笑みながら腰を下ろす。その膝に擦り寄って餌をねだる三毛猫に再び酢昆布を差し出しつつ校舎にもたれ掛かって両足を投げ出すその姿は、日向で眠る猫にも似た穏やかさだった。
「ははは、黒木君は手厳しいな」
高砂は言葉を区切り、ポケットからミントガムを取り出して口に運んだ。あたしにもその手を差し出すが、首を振って辞退する。こいつから何かを貰うと、無暗に高くつきそうな予感がした。
「私はこの学校の一生徒として、そして当代の生徒会長として、この学校の生活を実りある、充実したモノにしなければならない。そこで考え付いたのが、嗜好品の販売だ。音展ではたこ焼きやクレープなどといった屋台があるのに、それが普段存在しない事は実に悲しい。だがしかし、衛生問題から嗜好品をその場で制作し販売する事は難しい。そこで、駄菓子屋で大量購入した駄菓子を安く売る事を考えたのだよ。儲けは度外視しての事故に微微たる収益しか無いが、普通にアルバイトをするよりも面白いだろうとも思ってね」
学校を楽しくしよう、という心掛け自体は殊勝だ。ただし、その方向性が著しく間違っているのが問題。学生生活を豊かにしたいってんなら、もっとやり方があるだろう。少なくとも、駄菓子販売以外に。
「しかし、天照君は何故私の考えを理解してくれないのだろうか。中学時代からずっといがみ合っていた天照君が、いや、今も彼女とはそれなりにはいがみ合っているが…私が生徒会長に立候補した時に、彼女が私を補佐する立場である副会長に立候補してくれた事、それは非常に心強かったのだが。ふむ、考えてみれば彼女はツンデレなのだろうか。いや、それにしてはデレ部分が少ないな。ツン9に対しデレ1で、ツンツンツンツンツンツンツンツンツンデレくらいが妥当か」
それは多分、せめて副会長になってあんたの暴挙を止める為だろうよ。会長に立候補しなかったのは、あんたを選挙で制する自信が無かったからじゃないかね。この学校、教師陣からして面白ければそれで良いって風潮があるからな。
「まったく、あんたが一番の物好きだ。あたしみたいな不良に付き合って授業サボった挙句、こんな青春ドラマみたいに青臭い話聞かせるなんて。さすがは生徒会長様、と言えば宜しいでしょうかねえ?」
若干の皮肉を込めて放たれた言の葉は、しかし標的の微笑みによってするりと躱された。
「何、この学校を、そしてこの学校に在籍する学生を遍く愛しているだけの話だよ。それは私が生徒会長であるか否かに関わらず、だがね。そして私の場合は天照君だったが、己の愛するモノを、それが例え別の手法であれ、同様に愛してくれる人がいる事。換言すれば、困った時に相談できる相手がいる事とも言えるだろう。それは言葉にするといかんともしがたく陳腐な響きではあるが、本当に嬉しい事だよ」
無言のまま並んで空を見上げていると、チャイムが鳴った。
高砂は変わらぬ微笑みの仮面をその顔に纏ったままに立ち上がると、埃を払う。そして校舎へ向かって数歩歩いた所で立ち止まり、首だけ向けて語りかける。
「では黒木君、私はそろそろ行くよ。君はどうするかね?ここにいるのならば、それも良いだろう。私もこの場所を言いふらすほど酷薄ではない、安心してくれ給え」
「…そのうち教室行くよ。ああ、それと。あんたがどっか行く前に聞いときたいんだけど、良いかな?」
高砂は首だけでなく、身体をもこちらに向ける。奴はあたしを見下ろしながら、しかし威圧感を与えない程度の距離で、表情を崩さずに頷いた。
「あんた、あたしがここにいると知って来たんだろう?」
高砂は黙って銀色の丸眼鏡を外し、胸ポケットにしまう。
マンガだったら、眼鏡を外すと実は美形だっただとか、可愛かっただとか、そういう落ちがつく事が多い。あたしはそんなの期待しちゃいないし、空想と現実をごっちゃにするほど脳みそお花畑な人生も送っちゃいない。
そして幸いな事に、現実は偉大だった。マンガの中から出てきたと言われても納得しそうな程に狂った存在である高砂の場合でさえも、そういうパターンに当て嵌まらなかったのだ。憎たらしい事に、高砂は眼鏡を外す前から美形である事もあるし、何よりも。
眼鏡を外した高砂は、異様に悪役然とした面構えだったのだ。
「うっわ、目付き悪っ」
「よく言われるよ、黒木君。だがしかし、残念ながら生まれながらにしてこの目付きなのでね。文句ならば私にこの遺伝子を分け与えた両親にお願いするよ。もっとも、母は数年前に他界しているし、父は滅多に家に帰らない。その現状を踏まえた上で…」
話が脱線しかけたので、不機嫌な視線を向けてみる。奴はそれを鋭敏に察知すると、肩をすくめて話を打ち切った。いちいち仕草の鼻につく奴だが、そんな事を言ったらまたお得意の『よく言われるよ』が炸裂するだろうから、言わないでおく。
「君は私を買いかぶり過ぎている。私はたまたま授業をサボり、たまたま校舎裏へ向かい、たまたまそこに君がいて、たまたま君が『高砂五月雨丸は黒木ひばりがここにいると知って来た』と誤解してしまう様な会話を交わしただけの事。偶然が四回連続で続いてしまっただけの話だよ」
高砂はそう言って、また微笑みを見せた。だが、今度の微笑みからはいつもの気勢を殺がれる妙な柔らかさが感じられない。それは、いつもの眼鏡が存在しない事だけが原因なのか。あたしには、とてもそうは思えなかった。
「では、これにて失敬。放課後は生徒会室にいる心算だ、何か用事があれば来てくれ給え」
その真っ白な後ろ姿が見えなくなるまで、あたしは校舎裏から動けなかった。そしてふと気付いた時、太った三毛猫は姿を消していた。

高砂に変な事を言われたせいか、校舎裏にいづらくなった。仕方ないので、教室へ向かう。もともと少しは授業を受けておこうと思って登校したのだし、授業を受けなかったら受けなかったで留年の危機もある。レディースのヘッドが留年を気にするというのも変な話だと思われるかも知れないが、留年した不良というのもそれはそれで遣る瀬無い物なのだ。
ガラリと教室の扉を開けた瞬間、空気が変わる。
あたしの方を見てひそひそと何かを囁く奴、あたしから目をそらす奴。どこの世界でも、不良なんてのはそういうモノだ。だがこの学校が特殊な校風であるせいか、近寄ってくる奴もいないが、あたしを排斥しようとする奴もいない。それは少し、幸せだった。
机の横に鞄をひっかけ、椅子に座って身体を倒す。机に突っ伏して目を閉じていると、耳朶にチャイムが響いた。細目を開けて教室内の掲示板に貼られた時間割を見ると、次の授業は西先生の物理だった。
廊下を誰かが全力疾走する音が聞こえ始めると、クラス全員が耳を塞いで扉を見やる。扉はスパァンッという効果音が確かに聞こえた程に強烈な勢いでスライドし、勢い余った戸板が外れて吹っ飛んだ。そこから現れたのは白衣を着て首からギターを下げてその手には教科書と一緒にアンプをも携えた、どこからどう見ても変質者と形容する他ない男性だった。これが本当に変質者だったならば教室どころか学校からもつまみ出すべき所だが、信じられない、いや、信じたくない事にこの男こそ物理教師たる西先生なのだ。彼は教科書を教卓に置くと、アンプを教壇の隅に設置。くわっと目を見開いて、大声で宣言。日直は起立の号令もせず、外れた戸板へと向かう。
「グッモーニンエヴリワン!本日も我輩が諸君に崇高なる講義をしてやるのでそのつもりで耳穴かっぽじって拝聴するが良いのである!」
天才と何とかは紙一重だとはよく言うが、この教師は完璧に何とかの方だ。聞いた話では外国の大学を出て博士号や特許を何個も持っている大天才だという話ではあるが…どうもこの学校、頭が良い奴はそれに比例して変人になるらしい。高砂しかり、西先生しかり。
なお、この辺で外れた戸板を日直が修復し終えた。
「本日は何を隠そう何も隠してません!ならお前そこでちょっとジャンプしてみろ!」
西先生はいきなりその場で垂直飛びをはじめ、その白衣のポケットからは小銭がこぼれ落ちてリノリウムに跳ね、チャリンチャリンと軽快な音を立てて転がって行く。最前列に座っている拝島が、こっそり一枚くすねていた。
やがて垂直飛びに満足したのか、西先生は散らばった小銭を拾い始める。
「一枚二枚三枚四枚五枚六枚七枚八枚九枚…一枚足りないのである!」
膝をつき天を仰ぎ両手を頭上に掲げる。黒魔術の儀式で悪魔か何かに祈っている神官じみたポーズで哀哭する教師の姿に、いたたまれなくなった拝島がそっと硬貨を床に落とした。
「おぉう!?こんな所に転がっていたのであるか、我が愛しの五百円硬貨!ここで会ったが百年目、来年会ったら百一年目!我輩嬉しさのあまりにこの魂から溢れ出す大天才の完璧な頭脳と才能と若さとその他諸々のビートを止められんのである!嗚呼、我輩は自分が恐ろしい!自分の完璧さが恐ろしい!本当にあった怖いワタシーッ!」
がばっと立ちあがった西先生は白衣の胸ポケットからピックを取り出し、ギャリギャリと金属質な音を響かせながらギターの弦を弾く。自分で生み出した騒音に酔いしれて激しいヘッドバンキングを繰り返す彼は最早狂人と呼ぶ他なく、下手に邪魔すると殴られそうな雰囲気まで備えた過剰に暴力的なその律動は、生徒をして『西先生のテンションが収まるまで放置』という空気を作り出す。
西先生がピックを頭上に翳して脳内大観衆と一部の物好きな生徒の拍手喝采を受け、「ありがとう諸君、ありがとぉーっ!」と叫んでそのタテノリが終わるまで。その他の生徒は好き勝手に雑談したり自習したり居眠りしたりしていた。
「―――さて諸君!本日の講義を始めるのである!教科書は二十八ページである!」
あたしは小さなため息を漏らし、とりあえず教科書を開いて頬杖をついた。そして思い出したのは、高砂の言葉だった。
困った時に相談できる相手がいる事は本当に嬉しい事、か。あたしは再び、ため息を漏らす。この世界は、そんな風に幸せには出来てないんだよ。

3−5     3−7

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