(3−7:黒木ひばり)

とりあえず、端的に言おう。
大好物のフィッシュバーガーが、ちっとも美味くない。
それはあたしの右前でもそもそとオニオンリングを食っている金色の箒…もとい、鎌田先生の弟の所為ではないし、左前で気まずそうにオレンジジュースを啜るショートカットの活発そうな女生徒の所為でもない。無論、右隣でコーヒー片手にクロックムッシュをもそもそ食らう鎌田先生の所為でもない。
あたしの目の前に座ってホットドッグを齧る、特徴が無い事が特徴、とでも言うべき風体の男が問題なのだ。
「…姉貴が、どうしたって?」
目の前の彼は噛み千切ったソーセージを嚥下してから、あたしの眼をまっすぐに見据え、先ほどと一言一句変わらぬ言葉を紡ぎ出す。
「黒木つばめの目を覚ませるかも知れない方法がある。つばめが眠っている病院の場所を教えて欲しい」
まるでテストの範囲を尋ねるかの様に、彼は顔色一つ変えずに他人のプライベートへ深く斬り込む。せめて少しでも申し訳無さそうに尋ねるのならば、こちらは平然と、彼が尋ねる理由を聞き返せただろう。けれど、彼はそれを尋ねる事に何の非も無いかの如く振る舞っている。あたしはそんな彼に対し、不気味だという感想を抱いた。
何故あたしがこんな陰鬱な目に会わねばならないのか。その原因はせいぜい数分前のバーガー屋なのだが、その数分前の原因を作り上げた遠因は数時間前の校舎裏であり、かつ、数十分前の生徒会室だった。

「―――以上の事柄から、生命とは律動と脈動に従って駆動する一種の機械装置に他ならず、生命に一切の不思議など存在し得ないのである。そのリズムとパルスを解析する事によって死者の蘇生も理論上は可能と…む、そこにおわすは白岩(シライワ)先生。そんな所で何をしているのであるか、今は我輩が究極にして至高の講義を披露している最中かつ最高潮、最初に言っておくが我輩の授業は最初からクライマックスだぜ?…はっ!?」
西先生はよろよろと後ずさると、両腕で自分を強く抱きしめる。そのまま身体中の骨が消滅したかの如く、くねくねと奇怪で狂気的なリズムとパルスを伴って踊り始めた。それが努力の賜物なのか天賦の才なのかはあたしの知った事ではないが、生命って不思議だ。
「そうか、そうなのであるか!白岩先生、貴女もこの我輩の崇高たる講義に心打たれ、廊下からこっそり聞き耳を立てるだけに飽き足らず、教室に入ってナマで聴講したいと!そう、そう言いたい訳であるな!?我輩慈善事業家では無い故に本来ならば授業料を納めぬ輩に聞かせる講義など存在し得ぬ訳ではあるが、ま、我輩寛容である故にそこまで言うのであらば考えてやらぬでも無い。宜しい、君も我輩の講義を理解しても良いのである!」
ナイトラス・オキサイド・システムが搭載されたエンジンよりも激しい勢いでテンションを上げ続ける西先生に対し、白岩先生が無言で指差した時計の針は無言で11時43分を指している。四時間目の授業が始まって、既に3分が経過した計算だ。
「…むう」
三時間目の物理担当、西先生は首を傾げた。そして眉間に指先を当て、神妙に呟く。
「時計が、狂っているのである」
「時計は狂っていません。至って正常です。とりあえず、教室から出て下さい」
冷静に答える白岩先生、四時間目の国語担当。西先生は教科書とギターとアンプを抱え、教室からすごすご退散した。授業終了の起立やら何やら省略されたが、気にする事も無い。
「まったく、毎週毎週同じ問答を繰り返さなければならないなんて。西先生にも困ったものです…それでは皆さん、教科書は八十九ページを開いて下さい」
その後、白岩先生の授業は概ね平凡な展開で特に盛り上がる事も無く、しかし退屈が過ぎる事も無く、実に普通に終了した。
ただ時間が過ぎただけだったのは、購買部で買ったエビカツバーガーに紙パックのコーヒーを昼食とした昼休みも、五時間目の倫理も、六時間目の数学も同じ事だった。

放課後になり、あたしは部室棟の二階最奥、生徒会室へ向かっていた。
生徒会の役員でもないし、本来ならこんな所に来る必要なんて微塵も存在しない。けれど、あたしは生徒会室へ向かわなければならない。耳から離れない、高砂の言葉。この益体も無い呪いを解く為には、何故あいつがそんな事を言ったのかを知る必要があるからだ。

『己の愛するモノを、それが例え別の手法であれ、同様に愛してくれる人がいる事。換言すれば、困った時に相談できる相手がいる事とも言えるだろう。それは言葉にするといかんともしがたく陳腐な響きではあるが、本当に嬉しい事だよ』

しかし、どう声をかけて入ったものか。
無言で扉を開けるのは余りにも礼儀がなっていないし、扉をノックして『失礼します』だなんて言うのはあたしのガラじゃない。時間にして数分、扉の前で悩んでしまう。
「おや、黒木君」
「ひあっ!?」
突然の声に、変な声で悲鳴を上げてしまう。仮にもレディースのヘッドを務める身としては全く恥ずべき事なのだが、喧嘩やレディースチームの縄張り争いは怖くないのに、どうにも昔から幽霊や怪物の類…そして、突然かけられる声は苦手だ。
激しい動悸を奏でる左胸を抑えながら振り向くと、そこには高砂が立っていた。
左手はズボンのポケットに突っ込み、右手では生徒会室の鍵をくるくると回して遊んでいる。その顔はいつもの余裕ぶった表情だったが、よくよく見れば少しばかり目が細くなっている。その顔からは、悪戯が成功して喜ぶ幼児にも似た敵意の無い悪意が感じ取れた。
乱れたあたしの呼吸が整うのを待ってから、高砂は生徒会室の鍵を開ける。扉が開け放たれたその時、予想していた埃臭い臭いとは違う、仄かに甘い香りが鼻腔をくすぐった。
高砂は手振りで中に入る様に促しながら扉をくぐる。あたしは彼に続いて生徒会室へ入り、先の甘い香りの正体を知った。
野球場や何かのイベント会場で弁当やお茶を売り捌く売り子の持っているような平たい籠が、机の上に並んでいる。籠の中には糸引き飴からココアシガレット、酢昆布にラムネや麩菓子その他諸々。驚いた事に、かた抜きまでがその賞金の表ごと陳列されていた。
小さい頃から変わらない、近所の駄菓子屋を思い出させる無数の品々がプラスチックの瓶に詰められたり箱のまま並んだりと、個々の存在を主張している。 脳裏をよぎるのは、姉と一緒に小銭を握りしめて向かったあの店の記憶。あそこの婆さんは、今も元気に昼寝をしながら店番をやっているのだろうか。
「それ、全部商品?」
思わず問い掛けたあたしに、高砂は戸棚を開けて紅茶の缶を取り出しながら頷いた。
「無論、商品だとも。だが、黒木君。今日は真逆、そんな事を言う為だけに生徒会室に来てくれた訳ではあるまい?幸いにして、本日の生徒会業務は皆無。誰の邪魔が入る事も無い、と断言して良いだろう。クッキーしか茶請けを用意出来ない私で良ければ…君の、話し相手になりたい」

あたしを来客用らしきソファに座らせ、彼はヤカンに勢いよく水を汲む。それをコンロに乗せ、着火。湯が沸くまでの間に蒼のアラベスクっぽい模様が印された真っ白なポットとカップを、さっきとは別の戸棚から取り出した。
お湯が沸き始めた所で、ポットとカップに湯を注ぐ。ヤカンの中にはまだ湯が残っているようで、真っ白い湯気が口から漏れていた。
「さて…そろそろ沸騰した頃だろう」
呟く高砂はポットとカップから湯を捨て、ティースプーンで茶葉をポットに入れた。そしてヤカンの蓋を開けて中を確認すると、一歩間違えば大火傷しそうな勢いでポットへと湯を注ぐ。すぐさまポットの蓋を閉め、高砂はそれとカップを盆に載せて持って来た。
「2、3分蒸らすので、しばらく待ってくれ給え」
高砂はそう言うと、また別の戸棚に行ってクッキーの缶を引っ張り出してきた。この部屋はこいつの自室か。そう思って見回してみると、生徒会長のそれ以外にも生徒会役員達の私物らしき物品が目立った。
ガラスの戸が付いている事務的な本棚には年度が書かれたファイルと一緒に漫画やら雑誌やらが収まっているし、戸棚の上では「ノート備蓄(無駄使い禁止)」と書き殴られた段ボールを背にしたロボットのプラモデルがでっかい剣を持ってポーズを決めていた。部屋の隅に置かれた小型のテレビにはコネクタ越しにいくつものゲーム機が繋がり、その横にはゲームソフトがオブジェを形成している。
うちの生徒会は、真面目に活動しているのだろうか。
「さて、待たせてすまなかった。まずは紅茶を飲みながら、君の話を聞かせて貰おうか」
あたしの向かいへ腰を下ろし、高砂はポットからカップへと優雅な仕草で紅茶を注ぐ。

「…あんた、あたしに姉貴がいる事は知ってるのか?知ってるなら、何を知っている?」
「まず、黒木君にお姉様がいる事は知っている。そして彼女について知っている事は多々あるが、君が知りたいと思われる『高砂五月雨丸の黒木つばめについて知っている事』は、四点だけ。即ち、彼女が六年前にこの学園の二年生であった事、交通事故によって昏睡状態にある事、現在は朝比奈中央病院に入院している事、そして資金難と覚醒の兆しが見られない事を原因にお姉様の延命治療が打ち切られようとしている事、だ。なお、情報のソースは秘密だと言っておくよ。勝手に探られた君にしては面白くない話だろうが、ね」
何の飾りも無いシンプルなクッキーを指先で摘みながら、高砂は答えた。
「それだけ知っていて、あたしにあんな事を言ったのか?」
「そうなるね。己の愛するモノを同様に愛してくれる人がいる事は嬉しい事だ、という私の言葉が君の言う『あんな事』であるならば、だが」
高砂は大きく息を吐くと、摘んだクッキーを口の中に放り込んだ。
あたしの愛する姉が、もうすぐ死ぬと知っていて。こいつはそう知っていて、あたしにああ言ったのか。あたし以外に、姉を愛してくれる人が居なくなったこの世界で!
気付けば、立ち上がったあたしは右手で高砂の襟を掴んで吊り上げていた。高砂は少しばかり苦しそうな素振りを見せたが、何故かあたしの手を払い除けようとはしなかった。
「黒木君、少々落ち着き給え。差し出がましいようだが、君は物事に熱中すると周囲が見えなくなる傾向にある。もう少し、周囲に気を配ってみてはどうだろうか」
喉を圧迫された苦しげな声で諭され頭を冷やしてみれば、こいつを殴った所で何が解決するでもない。手を離すと、奴は崩れた襟元とずれた眼鏡を整えながら座り直す。あたしはもう一度、しかしやや乱暴に腰を下した。
「それは、どういう意味?」
「言葉通り、君のお姉様の事を心配している人が君以外にも居る、という事だよ。それは例えば鎌田守先生であるし、他にも数人居る事だろう。それが誰なのか、は伏せさせて貰うがね。ああ、無礼は重々承知の上で、この情報のソースも秘密だよ」
白く湯気のたゆたう紅茶を啜り、そのカップを机に戻した高砂は微笑んだ。
腕を組んでソファに沈んでいた不良少女はその憮然とした表情を崩さないまま、薄っぺらな道化の仮面を纏う超越者をその場に残して立ち上がる。
「…さて、もう往くのかな。再びこの部屋に君が来る事があるならば、その時は茶と茶菓子を味わえるような話をしよう」
あたしは無言を貫きながら、それでも出来るだけ丁寧に扉を閉めた。いくら心惹かれる情報を教えてくれた所で高砂がムカつく奴である事に変わりは無いが、それでも一応の礼儀って物は大事だから。

生徒会室を出た瞬間、緋色に染まった視界が眩しくて目を細めた。
日が、暮れている。校舎が、グラウンドが、朝比奈の街をぐるりと取り囲む稜線が、遠くに広がる海原が、その向こうの流留家島さえもが、一色に塗りつぶされている。
その荘厳な光景に見とれたあたしのポケット、狙いすましたかの様なタイミングでケータイが軽快な電子音と共に振動した。一瞬で途切れた所から察するに、メールの着信だろう。
チームの連中がどこか別のチームと揉めているのならば、今すぐに助けに行ってやらねばならない。そう思って開いたメールは、鎌田先生からだった。件名も無く、ただ本文のみのシンプルなメール。
「駅前のモツバーガーに30分以内、ね…」
―――理性的な直感が、告げる。高砂の言う「君のお姉様の事を心配している人」、その鎌田先生以外の数人…それが駅前で待っているのだ、と。
バイクを使えばそう急がずに間に合う時間だ。あたしは悩む間も無くキーを取り出し、それを強く握りしめながら駆けだしていた。ここまで都合良く物事が進むと、誰かの掌で踊らされている気がしないでもないが…そんな事、今は構うべきじゃない。僅かにでも、目の前に希望が見えているんだ。例え誰かの造った希望だって、それに縋りつきたくなる時もある。
部室棟の階段を駆け下り、廊下を突っ切る。桟に手をついて窓枠を飛び越え、部室棟裏へショートカット。駐輪場で雑多に並ぶ自転車や原付の中から、自分のバイクを探し出す。シートの下から取り出したフルフェイスのヘルメットを被りながら、差し込んだキーを強く捻る。
そのままバイクを転がして駐輪場を抜け、ヘルメットのバイザーを下ろす。スパッツ越しに伝わる振動に心安らぎながら、あたしは校門から飛び出した。

モツバーガーの前にバイクを停めて中へ入ると、奥の席で鎌田先生が手を挙げた。六人掛けのテーブルに陣取る先生の前には、箒みたいな金髪…確か、鎌田先生の弟…の他、見知らぬ男女が各一名。熱心に新発売の肉汁ハチノスバーガーを勧める店員に、断固とした態度でフィッシュバーガーとグラナディン・ソーダを注文。トレーを抱えたあたしは先生達の待つテーブルへ向かい、先生の隣の席へと腰を下した。全員既に食べ始めている事を確認し、あたしはバーガーの包みを解いて一口齧る。その時、目の前の男が口を開いた。
「初めまして。俺、二年の沢村史郎です。とりあえず、こっちの要件を端的に言いますが…黒木つばめの目を覚ませるかも知れない方法がある。つばめが眠っている病院の場所を教えて欲しい」
沢村と名乗った彼が、あたしをまっすぐ見据えていた。

3−6     3−8

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