(3−8:沢村史郎)

目の前で、黒木先輩は不機嫌そうにフィッシュバーガーに噛みついている。怖い。逃げたい。むしろ泣きたい。恥も外聞も無く泣きじゃくりたい。いくらつばめ達を生き返らせる為とは言え、何故俺がレディースチームのヘッドとお話などせにゃならんのだ。それがつばめの妹だと知っていたって、怖いもんは怖い。確かに早紀や藍には勝ったけど、俺、喧嘩慣れなんてしてないし。
気を抜いたら怯えが表情に浮かびそうになるけれど、必死でこらえる。そんな情けない体たらくで黒木先輩に話を聞いてもらえるとは思わないし、何より、好みの女の前で怯えた顔するなんて、余りにも格好悪すぎるからな。
「沢村、だったっけ。あんた、どうして姉貴の事を知ってる?」
しかし、早速答えに窮する。説明、難しいなあ。
真っ向正直に、あなたのお姉さんは死神になって俺を殺しに来ました、それを舌先三寸で丸めこみました、今はつばめの体を見つけて蘇生できないか試そうとしています…だなんて言って、はいそうですか、じゃあ病院の場所を教えましょう、と納得していただけるとは露とも思えない。そんな事を口にしたが最後、俺は黒木先輩にぶん殴られるか蹴倒されるか、まず間違い無く無傷じゃすまない事は請け合いだ。
あとついでに、守先生には本気で病院行きを勧められそうな気もする。
『ねえ、本当にこの人、黒木ひばりっていうの?冗談抜きで、本当の本当に、私の妹の黒木ひばりなの?私の知ってる妹と全然違うんだけど?』
不安げというか、信じられない物を見たような口調で話しかけてくるつばめ。そんな事言われても、俺だってこの人と面と向かって話をするのは初めてだ。露雨零雷とかいうレディースチームのヘッドをやってるとか、今までに喧嘩で病院送りにした人数は百を超えるとか、授業はサボりまくってるのに定期テストだけは受けにくるとか、色々と噂の絶えない人ではあるけれど。そもそも先生も先輩もいるんじゃ、話しかけられても答えられない。

「…返事が無いところ見ると、少なくともあたしには言えないような手段で知ったって事だな?」
クシャリ、とフィッシュバーガーの包み紙が握り潰された音。先輩はずぞぞぞぞと騒がしい音を立てながら、最後の一滴までグラナディン・ソーダを啜り尽くす。
「いくら鎌田先生の知り合いだって、こんな奴の話聞く気にはならないです。申し訳無いですけど、あたしはここで帰らせてもらえません?」
プラスチックのトレーが机を叩く無機質な音と、椅子の足が床を引っ掻く耳障りな音が重なる。足元に置いていた鞄を持って立ち上がった先輩の目はとても冷たく、確かな失望と怒りの色が見て取れた。
「沢村。あたしはあんたが信用出来ない。信用できない奴に姉貴が入院してる場所を教えるなんて真似も出来ない」
じゃあな、と立ち去る黒木先輩を呼び止めたのは、意外な事に明石だった。
「先輩、ちょっと待って。私達が信用できないから教えられないって事は、信用出来る相手になら教えられるって事ですよね?」
良く分からない言い回しに、先輩は足を止めて明石に向き直った。訝しげな先輩をよそに、明石はポケットから携帯電話を取り出す。アドレス帳からどこかを選択、電話をかけ始めた。
「…あ、奈苗姉?早苗だけど。真苗姉、いる?いるならちょっと代わってほしいんだけど…うん、真苗姉にしか頼めない用事」
奈苗に真苗。確か、明石のお姉さんの名前だった気がする。しかし、明石のお姉さんは二人とも高校は卒業している年齢の筈だから、黒木先輩が信頼できる知り合いって事は無いと思うんだが…?
「真苗姉、ちょっとお願いがあるんだけど…黒木先輩…うん、黒木ひばりさん…そうそう、その黒木ひばりさん…とにかく、黒木先輩に私の事を信用してもらえるように頼んでもらえないかな、って」
そこで明石は携帯を黒木先輩に差し出す。先輩は何故か、それを受け取る前から妙に青ざめていた。蛇に睨まれた蛙というか、そういう感じの冷や汗も掻いている。よく見れば体も小刻みにカタカタ震えてるし、アル中かヤク中の禁断症状じみた動きにも思えてきた。一応レディースというアウトロー組織のヘッドである以上、この人がそういった物騒な物と無関係であるとは一概に言い切れないというか、アル中はとにかくヤク中は勘弁して貰いたいと思います。ダメ。ゼッタイ。
「も…もしもし…?」
震える声で電話に出た先輩は電話の相手…話を聞いていた限りでは真苗さんだったかな、を異様に恐れているように見える。どうしたんだろう、明石のお姉さんに何か弱みでも握られているんだろうか。
「はい…はい、いえ、決してそのような事では…早苗?…はい、肝に銘じます、はい…」
コメツキバッタみたいにぺこぺことお辞儀を繰り返す。コメツキバッタを知らないと言うなら、クレーム電話の対応に追われるサラリーマンを想像してもらえば分かりやすいと思う。やがて通話を終えた先輩は、恐怖に打ちひしがれたような、怒りに打ち震えるような、不思議な表情で明石を睨んだ。あー、何だろう。言葉にはしづらいけど、妙なオーラを感じるデスヨ?
「……おい」
たっぷり数秒溜めてから、先輩は口を開いた。何故かは知らないが、今にも泣きそうな声。やっぱり弱みを握られてるとか、そういう感じなのか?
「お前、初代の妹なんだったらそれを先に言え!」
初代?
えーと、普通初代というのは自分が所属している組織のリーダーなどの役職、それを一番初めに勤めた人を指す言葉。辞書的に正確な意味は知らないけど、これで大体合ってると思う。さてそれでは、黒木先輩の所属する組織とは何だろうか…と考えた所で、結論は自ずと現れた。
とは言え、俺が考えついたんじゃなく、この疑問を生み出した張本人が答えを口にしただけの事だけど。
「あれ、私、真苗姉が露雨零雷の初代ヘッドだって言ってなかったっけ?」
すっ呆けて戒冶に水を向ける明石、涙目で拳を固める先輩。
「いや、オレは聞いてないぜ」
答える戒冶の言葉をさえぎるように、先輩は涙声で叫ぶ。
「お前の名前が明石早苗だって事も、お前が初代の妹だって事も、今の電話で初耳だ!」
鞄をもう一度足元に置き、頭を抱えながら席に戻る。周囲は先ほどの叫び声に何事かと視線を向けてくるが、先輩はそんな事も気に掛けずに机に突っ伏した。バレッタで留められた長い黒髪がだらりと机に広がり、その表情は読めない。けれど、下手に声をかけられる雰囲気ではなかった。

「…沢村。一つだけ、質問する」
数分間顔を伏せていた先輩は、ゆっくりと顔をあげた。顔を覆う髪を右手でかき上げてその鋭い眼光を露わにし、まっすぐ俺を見つめる。今改めて見てみればやはり姉妹、つばめによく似た顔だ。ただ二人の顔で決定的に違うのは、髪の色。そしてつばめにはある柔らかさがあまり感じられず、その代わりに自分にも他人にも厳しそうな視線がある事だった。
つばめと出会った時とは全く別の意味で、ゾクリとくる。いくら俺が鈍くたって、この状況で気付けないなんて嘘だ。ここがまさしく正念場、鬼が出るか蛇が出るか、交渉の成否が全部、俺の答えにかかっている。
「あんた、うちの姉貴をどうするつもりだ?」
「最初に言った通り、黒木つばめの目を覚ます」
即答した。
これより他に答えるべき言葉の持ち合わせも無し、ごまかす必要も技量も無い。最初から、俺の腹は決まっているのだから。
「…朝比奈中央病院、502号室だ。あの病院には四階が無いからな、部屋を間違えるなよ。三人部屋で、入って左の窓際が姉貴のベッドだ。右の窓際とドア側には、姉気と一緒の事故で昏睡状態になった人が寝てる」
先輩は再び、ゴミが乗ったトレーと鞄を持って立ち上がる。そして、振り返らずに足を止めた。
「沢村。あたしは、あんたを完全に信用してるわけじゃない。初代が話を聞けって言うから聞いてやっただけだ…けど」
言葉を区切った先輩はちらりと振り返り、先ほどとは打って変わった優しくて寂しい笑顔を見せた。思うに、この優しい表情こそが黒木先輩の本質なのだろう。
「あんたが姉貴の目を覚ますって言うんなら、よろしく頼む。あれは、あたしの大事な人なんだ」

先輩の後姿が見えなくなると、守先生はおもむろに口を開いた。
「気にならないと言えば嘘になるが、お前たちが誰からつばめの事を聞いたのかとか、そんな事は聞かない。聞かない事にする。こういう事に面白半分で首を突っ込むろくでなしに育てた覚えは無いし、そんなろくでなしを友達に選ぶように育てた覚えも無い」
戒冶は少し照れくさそうに視線をそらす。何だかんだ言いつつ先生は弟に全幅の信頼をよせ、戒冶もその信頼に足るだけの人間だ。正直、姉とこういう関係を築いている点は羨ましい。うちの姉貴はどうにも自分勝手と言うか自由奔放にも程がある。もうそろそろ、いい加減に年相応の落ち着きってものを手に入れて欲しい所。しかしこういうのを高望みって言うんだろうな。
「まさか今から病院に行くとか、そんな非常識な事言うつもりは無いだろうな?行くなら早くとも明日の放課後にしろ。授業をサボったら許さないからな。それと花束の一つくらいは買ってからにしろよ、見舞いに行くのなら最低限の礼儀だ。昏睡状態なんだからさすがに桃缶はいらんと思うが」
『あ、桃缶良いな。食べたい食べたい。ねえ史郎君、買ってくれない?』
耳ざとく反応するつばめだが、あえて無視する。桃缶が食いたいなら、この間久しぶりに桃缶が食いたくなってスーパーで買った余りが冷蔵庫に入っていた筈だ。それよりつばめ、お前は幽霊の分際でどうやってモノ食う気だ。お供えでもしてやりゃ良いのか。
「さて、とりあえず帰るぞ」
「ああ、悪い姉貴。オレ、ちょっと史郎と明石と、見舞いに行く日取りの事を相談してから帰る。夕飯までには帰るつもりだから、先帰っといてくれ」
戒冶は立ち上がった先生にひらひらと手を降る。一つ頷くと、先生は右手で細くて長い紐を掴んでハンドバッグを肩に担ぎ、左手ではトレーの上のゴミをゴミ箱に放り込んだ。
「…明日、早速つばめの病室に行くの?」
「そうだな、善は急げとも言うし。戒冶、明石、明日は何か用事あるか?」
そう言いながら、ケータイを取り出してスケジュール帳を確認してみる。確認するまでも無く真っ白だけどな。バイトもしてないし、クラブにも入ってないし、彼女もいないし。
「オレは何も予定入ってないぜ」
「私も何にも無い。檀家の人が今日亡くなってたらお通夜の準備とか入っちゃうけど、多分大丈夫だと思う」
『一応言ってみると、私も予定無いよ』
「じゃあ、明日の放課後に行くか。中央病院なら俺が場所知ってるし、学校からなら歩いて15分くらいだ」
俺達は立ち上がり、それぞれの鞄を持ってモツバーガーを後にする。もうすぐ夏になるとは言っても、日の落ちた後の空気はまだ少し肌寒かった。
「じゃあ史郎、また明日な。俺と明石は帰りこっちだからさ」
「ああ、また明日な、戒冶。それと明石、戒冶に襲われそうになったら大声で助けを呼べよ」
顔を真っ赤にして慌てふためく明石、苦笑いを浮かべてため息をつく戒冶。二人に別れを告げ、俺とつばめはアパートへと向かった。
空はほんのわずかに夕焼けの色を残した深い紺色。今にも馬鹿なカップルが真っ先に殺人鬼に襲われて悲鳴を上げそうな空気が漂う古びたアパート、そこが俺の暮らすテキサスチェイン荘。
「ただいま」
『おかえり、史郎』
『お帰りなさいませ、史郎様』
もう何十年も前に使い古されたセリフだし、口に出すのも恥ずかしいチープな言葉ではある。けれど、家の鍵を開けてただいまと言った時、おかえりと返してくれる声がある…これは結構、嬉しいモノだ。
『で、史郎。つばめの妹さんとの話はどうやったん?』
食卓の椅子に逆に座って背もたれの上で腕を組みながら尋ねる早紀。藍はテレビの前のソファに座って顔だけこちらに向けている。俺はネクタイを緩めながら、鞄とブレザーの上着を自室に投げ込んだ。やっぱりネクタイは窮屈だ、早めに新しい学ランを注文しておこう。
「そんなに協力的とは言えないまでも、病院の場所は教えてもらった…それと、その病室につばめと一緒の事故で昏睡した人が二人いるそうだ。もしかしたら、早紀と藍かも知れない」
言葉こそ出さなかったものの、二人の顔が明るくなる。つばめが昏睡状態である事は守先生から昨日聞かされたが、早紀と藍の方は昏睡状態なのかそれとも死んでしまっているのか、その判断ができなかったのだから。
「もう六年も前の事だからそんなにはっきり覚えてるわけじゃないけど、あの事故で五人も十人もが怪我したって話は聞いた事が無い。確か、二、三人だった筈だ。気休めかもしれないけど、きっと二人だと、俺は思う」
『…そうなんや。うちら、まだ生きとってんな』
『ええ、良かった…本当に…』
「だから、うん。明日は、皆で病院に行こうぜ。もしかしたら、二人の家族も来てるかも知れない」
三人は、笑って頷いた。

3−7     4−1

戻る