第1話:到来―Advent―

雨が降る夜の事だった。
俺、巽京司(タツミ・キョウジ)は遅くまで遊んだ後に友人と別れ、一人家路を辿っていた。
『―――――』
「…?」
雑居ビルの隙間の路地から、何か変な物音が聞こえる。俺は何の気なしに、それを覗いてみる事にした。捨て猫か捨て犬でも居るのなら、保健所か交番にでも届けておこう。そんなのんきな事を考えながら。

ぐちゃり。
路地裏の闇の中からはそんな、気持ちの悪い音がした。俺は目を凝らし、その先に広がる闇を見る。すると、ぼう、と二つの明かりが灯った。
否、それは眼だ。暗闇の中で猫の目が輝くように、僅かな光でも視覚を確保できる様な目。その眼の持ち主は足元の水溜りに波紋を立てながら、俺のほうに近寄ってきた。ずり、ずり、と、何かを引きずる様な音がする。
紅い、鬼の様なシルエット。2メートルはある長身。黄金の瞳が俺をその視界に映し、嘘みたいに綺麗な牙が、ガチガチと歓喜の笑いを漏らす。
『見タナ』
外国人が話す様なたどたどしい日本語とは違う、流暢な発音なのに気味の悪い日本語。それは、その発声者の声帯が人間のそれとは異なっているからなのだろうか。
その紅い鬼は、引きずっていた何か…俺の目にも、それが人間である、という事がはっきりと分かった、それ…から、ぞんざいに手を離した。それはそれ自身が生み出す血溜りの中に、力なく身を湛えた。どさりと投げ出された腕が、その人間の生命活動が途絶えている事を明確に物語っている。
『見ラレタカラニハ、生カシテハオケヌ』
紅い鬼はその左腕を軽く上げた。その掌に光が降り注ぎ、五本の指全てに輝く爪が現れた。その長さは約20センチ。一発でも傷を受ければ、軽く致命傷になるだろう。
けれど、俺は逃げなかった。いや、逃げられなかった。
魔がどれほど危険な存在なのかは、身をもって知っている。俺の両親は、魔に殺されたからだ。その結果俺は、従姉妹の硝子(ショウコ)さんに引き取られる事になったのだから。
魔。異界の住人。人間とは別の価値観、概念、法則に基づいて行動する生命体の総称。古来より隠れて存在していた物。異世界からこちらに堕ちた物。異世界から戯れにこちらを訪れる物。10年前、俺を助けてくれた白いドレスの女の人が教えてくれた事だ。そして、彼女はこうも言った。
『決して他の人にこの事を話しちゃいけないよ。話せば不幸が貴方を襲う』
俺はその言葉を信じて、今の今まで誰にもこの事を話さなかった。
けれど、俺は理解している。10年前みたいに、誰かが助けてくれるわけのない事を。この事を話さなかったからといって、不幸が訪れないわけではない事を。

鬼の爪を、畳んだ傘で防御する。金属製のフレームが役に立つかとも思ったが、紙切れみたいに切り裂かれてしまった。俺はこのまま、やっぱり喰われて死ぬのだろう。傘を無くしてずぶ濡れになりながら、俺はそんな事を考えつつ鬼を見上げた。

『退きなさい』

俺の背後から、そんな声がする。振り返ってみると、俺と同じか一才下位の少女が立っていた。傘は無く、マントの様に襤褸切れを羽織って、凛とした態度で立っていた。
『誰ダ、貴様…見タカラニハ、貴様モ殺ス』
鬼はそう言って、まず俺を爪で切り裂いた。腕で身体を護ろうとしても、その程度ではダメージの軽減にすらならず、俺は袈裟切りに裂かれる。腕を、胸を、ばっさりと切開された激痛。俺は声すら上げられず、鬼の追撃を受けようとした。
「退け、と言ったのに」
少女はそう言って、俺を突き飛ばす。さっき立っていた位置から優に5メートルはあるのに、その間合いを一瞬で詰めていた少女は、両手で鬼の腕を抱き抱える様にして爪を止める。
『貴様…!』
鬼は唸り、もう一方の爪を少女に振り下ろす。しかし少女は鬼の腕で懸垂をしてぎりぎりの所でそれを回避し、鋭い前蹴りを見舞ってから着地した。
『グ…舐メルナ、餓鬼!』
鬼はそう言ってめったやたらに攻撃を繰り出す。少女は回避運動を始めるが、幾許かは間に合わずにダメージを受ける。その度に軽い苦痛に歪む少女の顔は、それでも不屈の闘志が見えた。
少し距離を取って、少女は俺のすぐ横に来た。
「…生きたい?」
そう問い掛ける少女。俺は朦朧とした意識のまま、それでも確かに頷いた。
「ならば」
少女はそう言って跪く。鬼など眼中に無い様に、俺の顔を覗き込む。
「私が貴方に刃をあげる。私が貴方に心をあげる。私が貴方に命をあげる」
そして、彼女は俺の唇に彼女自身の唇を重ね合わせた。
それを最後に、俺の記憶は闇に沈む。


少年が気絶したのを確認してから、ナインはニヤリと笑って呟いた。
「Conception.(受胎。)」
ぼう、と淡い光が灯る。ナインの腕に、脚に、あらゆる場所に光が灯る。蛍火の様なその光は、ナインの体を覆い尽くした。
『…!キ、貴様!』
狼狽するオーガーを見ながら、ナインは声高らかに宣言した。
『さあ、始めよう』
収まった光の中から起き上がるのは、異形の戦士。身体は鎧の様な外骨格で覆われる。爪は研ぎ澄まされた刃。拳は獲物を屠り砕く鈍器。その瞳は、雨空さえも凍て付かせる。
『殺戮の時間だ』
指を伸ばした右腕を突き出し、叫ぶ。
『Gadget-2, Talon-Unit !(装備2、タロン‐ユニット!)』
ジャ、と金属音に似た響きを立てて、その指先から鋭い鉤爪が発生する。対峙する鬼の爪に比べ、長さこそ劣っているものの、切れ味や武器としての凶悪性では遥かに勝った。獲物を狩る、ただそれだけの為に特化した鉤爪。そこには何の美学も無く、ただ、戦うと言う行為だけが存在していた。
『貴様、真逆…真逆!』
紅いオーガーがその言葉を最後まで言い終わらないうちに、ナインはそれを右手の鉤爪で分割した。
『Sublimation!(昇華!)』
ナインは叫び、オーガーの心臓を抉り抜く。オーガーの身体は光となり、塵となり…この世から、消滅した。

Before Night     第二話

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