第2話:慟哭―Bawl―
顔にかかる雨で気が付くと、俺は路地裏に倒れていた。起き上がり、ふらつく身体を前に突き出した脚で辛うじてその場に留める。俺は…確か、鬼に爪で切り裂かれて…はっとして胸の傷に手をやってみるが、そこには傷跡さえ無かった。服は確かに破れているが、身体に損傷は見当たらない。
「…気が付いたか?」
突然声をかけられ、俺の心臓は驚いて飛び跳ねた。俺は胸の動悸を抑えながら、声をかけてきた少女の方に向き直った。
「君は…?」
彼女は濡れた髪を顔に絡ませたまま、静かに言った。
「一度死んだ割には、なかなか回復が早い。何処まで記憶は残っている?」
そうなのか。俺、一度死んだのか。
…って、待て!死んだのに俺は何故こうしてここに居る。もしかして俺は幽霊なのか?そう思って足元を見てみるが、ちゃんと足はあった。良かった。
「落ち着け、京司。迷いは判断を鈍らせる。判断の遅れは死に繋がるぞ」
少女は呆れ果てた様な口調で言う。男みたいな口振りだが、結構顔は綺麗だ。そう思って彼女の顔を見ていると、彼女は状況の説明を求められていると思ったらしい。勝手に解説を始めた。
「いいか、京司。厳密にはほとんど死んでいた、だ。完全に死んだわけでは無い、安心しろ。お前は先ほど、魔に襲われて致命傷を受けた。放っておけばそこで死ぬ筈だったが、目の前に私が居たのも何かの縁。何、私もあの魔は殺すつもりだったからな。需要と供給はつりあっている。私は自分の魂の半分を分け与え、京司の命を現世に繋ぎ止めた。ここまでは理解できたか?」
俺は、無言で頷く。正直言って非現実的であまり理解は出来ていなかったが、彼女の言う事は一応筋が通っていた。
「魂を分け与える事が出来る事からも、私が人間でないという事は容易に理解できるだろう。私は魔だ。イルサイブ、と呼ばれる種になる。このイルサイブ種は一種の寄生生物だ。誰か別の存在に力を与える代わりに代償を得、そうやって命をつなぐ。今回、私は京司に魂を分け与え、そしてお前の肉体に自己変成能力を付加した」
とりあえず、わかった事を整理してみる。俺はあの鬼に殺されて、魂をこの少女から貰った。そして彼女は俺に自己変成能力をくれた。
…自己変成能力って、何だよ。
そう尋ねてみると、彼女は説明し始めた。
「自己変成能力を京司に分かり易い言葉で言うと…そうだな、変身能力とでも言ったところだ。先ほどは京司が私との結合のショックで気絶したおかげで、私一人で戦わねばならなかった。次は期待しているぞ」
変身…俺はその言葉もショックだったが、それ以上にショックな言葉があった。『私との結合』っていうちょっと興奮する響きもそうだが、多分俺の想像とは違う。俺は、本当に気になる事を尋ねた。
「次、って何だよ、お前。俺に変身能力があったって、俺は戦うなんて…」
そう言おうとして、俺の脳裏に凄惨な光景がフラッシュバックした。猛火。轟音。倒れている両親。獣の足音。優しい声。『よく頑張ったわね、少年』白いドレス。獣の絶叫。紅いドレス。あの日、俺を助けてくれた人。今日、俺を助けてくれた人。
「…京司。言い忘れたが、お前の記憶は私にも流れ込んでいる。お前の名を知っている理由もこれだ。結合して、京司のデータと同期化したからな。お前に私の持っていた記憶は無いが。…それと、京司。京司が敵討ち等のために力を振るう事は止めないが、私が居る限り敵は襲ってくるぞ。イルサイブ種を捕食した場合、相当な魔力が手に入るからな。私を狙う魔は星の数ほど居る。説明はこの位で良いだろう?」
「…わかった。助けてくれて、ありがとう」
で、もう一個聞きたい事が増えた。
「お前、『私が居る限り』って何だよ」
「ああ、言い忘れていたな。すまない。先ほども言った通り、私は寄生生物だ。身体に寄生する、などという気味の悪い事はしないが、京司に養って貰う位は良いだろう。ああ、嫌だとは言わせんぞ。京司は私が居たからこそ今ここに居るのだからな」
言葉に詰まる。確かに、俺には助けてもらった恩もある。だが、襲われると分かっている奴を匿うのは…
「そうそう、まだ京司の蘇生は不安定だからな。安定するまでに私から30メートル以上離れた状態が5分続くと死ぬぞ」
「ぜひ我が家にいらっしゃって下さい」
即答した。半分以上脅しだというのは分かるのだが、それでも俺の生殺与奪が握られている事に変わりは無い。彼女は満足気に頷くと、俺と一緒に家まで帰った。俺の記憶も持っているらしいので、道案内しないですむのは助かった。俺の気がかりはただ一つ、硝子さんをどう説得するかだ。
「そうだ、お前、名前は?お前、じゃいまいち呼びにくいし、これから一緒に住むなら知っておくべきだろ。それに、お前は俺の名前は知ってるのに、不公平だ」
彼女はしばらく無言で歩いた。物凄く気まずい。俺、何か悪い事でも聞いたのか?
「…ナインだ」
「ナイン、ね。分かった。じゃあこれから宜しく、ナイン」
腕を差し出すと、ナインは少しぽかんとした顔で俺を見ていたが、すぐに苦笑して手を取った。俺の手を強く握るその腕は、人間のそれと変わらないほど、いや、それ以上と言って良いほどにきめ細やかで滑らかな、美しい腕だった。
「ああ、宜しくな、京司」
握り合ったその手は、俺の戦いと、彼女との同居の始まりを密かに告げていた。
「…で、その突拍子も無い話を信じろって言うのかな、京司君は?」
硝子さんは怒っている。俺のことを京司君と呼ぶ時は、確実に怒っている時だ。それもまあそうだろう。普通の人間は『俺は一回死んで彼女に助けられたから、恩返しをする為に家を貸したい』こんな説明で納得はしない。それに魔やら何やらが絡んできたら尚更だ。唯一の救いは、なぜか硝子さんが魔の存在をすんなり受け入れてくれた事だろう。俺の両親の時は何も言わなかった筈だから、硝子さんはそれ以外で魔と関わった事でも有るのだろうか?そうとでも考えなければ異常すぎる。
「…頼むよ、硝子さん。魔の存在を受け入れてくれたならさ、ナインの同居も…」
「京司君。私は彼女がこの家に住む事については何も反対していないわよ?」
やばい。硝子さんが女言葉だ。本気で切れかけている。硝子さんはどういう卑怯な手を使ったのか、二十代後半は軽く越えて三十代近くにはなっている筈なのに、二十代前半の若さを保っている。綺麗な人ほど、切れると怖い。
俺は必死で言葉を探す。が、硝子さんは俺が口を開く前に言葉を続けた。
「京司君、君はナインちゃんと同居しなければ死ぬと言う。魔と関わったのならそれ位の不思議があってもおかしくは無いし、仮に君とその子を引き離して君が死んだら取り返しがつかないでしょう?だから、私はその子をこの家に迎える事に反対はしない」
ただね、と彼女は少し息をついた。
「私がちょうどそう、君くらいの年だった頃。私は、数人のクラスメートと一緒に魔と関わった事があるの。結果、私は大切な物を失ったし、他のクラスメートも何かしら代償を払うという結果に終わったわ。京司君、私は臆病だから、君が何かを失うとしても助けてはあげられない。その自分に私は怒っているの」
俺は何も言えず、座ったまま自分の膝を眺める事しか出来なかった。硝子さんにそんな過去があったなんて、俺は今まで小指の甘皮ほども知らなかった。ナインも黙って、顔を伏せた硝子さんを見ている。
何分その様にしていただろうか。数分かも知れないし、数時間かも知れない。硝子さんはゆっくり顔をあげると、ナインに微笑んで、言った。
「だから、ナインちゃん…私みたいな事が無いように、どうか宜しくお願いします」
ナインは黙って頷き、硝子さんの差し出した手を握った。
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