第5話:存在―Existence―

「…この様に、ドイツの実存哲学者ハイデガーはその著書『存在と時間』において『死への存在』『現存在』『誰でもない人』等の言葉によって…」
今は太宰先生の倫理の授業中だ。ナインが学校に来る様になって、三日目の事だった。太宰先生は教科書を片手に、黒板に文字を書き連ねていく。俺はそれをノートに写しながら、授業の終わるチャイムを心待ちにしていた。今日は硝子さんが弁当を作り忘れたので、俺とナインは学食で昼飯を食べることになっている。この学校の学食のメニューはどれも安くてボリューム満点で、そこそこ美味い。食べても食べても腹の減る、育ち盛りの高校生にとっては非常に嬉しい。そう、朝比奈西高校において食堂は戦場なのだ。

キーンコーン…カーンコーン…
「…時間ですね。では、ここまで」
太宰先生がそう言うや否や、日直であるという職権を濫用した水流が起立、礼、と号令をする。そして俺はナインを連れて学食に向かった。二年生の教室は生徒棟3階で、学食は職員棟1階。渡り廊下は生徒棟の2階と職員棟の1階を繋いでいるので、まずは階段を駆け下りる。
「京司。学食と言うのは、こうも急がねばならない場所なのか?」
ナインが話し掛けてくる。しかし俺は、話は後で、とだけ言って更にスピードを上げた。ナインは訝しげな表情をしながらも、黙って俺について来る。まずは、食堂前にある食券の自動販売機に急いで並び、硝子さんから貰った千円札を入れる。
「ナイン、そこの壁にメニューが書いてある。お前は何が食べたい?」
「…そうは言っても、私は書かれている物がどのような食品なのか知らないからな…そうだな、ではカレーとやらを希望する」
カレーライスは280円。ただ、当然ながら学食のカレーには肉がほとんど含まれていない。そこで俺は350円の唐揚げカレーの食券を買ってやることにした。後で肉が無いとか文句を言われても、どうしようも無いからだ。俺は自分用に300円のうどん定食の食券を買って食堂に入った。
急いだおかげで、すぐに注文したメニューが手に入る。俺はナインを伴って適当な席を探し、ナインの向かいに腰を下ろした。
「お、京司。今日は学食なんだな。横、良いか?」
声のする方を見れば、予想通り祐二の姿があった。焼肉定食のお盆を持っている。その横には水流。水流は面白そうに笑って、祐二を肘で突付いた。
「あかんて、米口君。辰巳君とナインちゃんがせっかくラブラブでストロベリーやっとるのに、邪魔したら悪いやんか」
周囲からはそう見えているらしい。確かにナインは、顔は綺麗だし、小柄ではあるけれど可愛いと言えば可愛い。多少目つきが鋭すぎなくも無いけれど、それもまあ許せる範囲だ。どうもさっきから周囲の視線がやけに鋭いと思った。俺は、祐二に頭を下げた。
「…祐二、頼むから横に座ってくれ。周囲からそんな誤解を受けたくないんだ」
苦笑して、祐二は俺の隣に座った。水流も俺の斜め向かい、ナインの隣に抱えていたワカメラーメンの丼を置いた。

しばらく適当に喋りながら食事をする。他愛も無い雑談、ただそれだけで平和だと実感できる。俺はうどんのつゆを一口啜った。
「…京司」
蚊の鳴く様な声で、向かいのナインが話し掛けてくる。見ると、彼女はカレーに殆ど手をつけていなかった。顔を赤くして俯いているが、どうしたのだろうか。
「どうしたナイン、具合でも悪いのか?腹でも痛いとか…」
「…いや、具合はいたって平常なのだが…」
彼女にしては歯切れの悪い返答。ナインはしばし黙して何か考えている様だったが、やがて意を決し、俺の方を見た。そして、俺のうどんを指差して言う。
「京司、お前のそれとこのカレーとやらを交換してくれないか?」
変な事を言う奴だ。もしかして、ナインは魔だから、何か食べられない食材とかがあるのだろうか。猫が烏賊の腸を食べられない様に。だがしかし、そんな俺の心配は杞憂に過ぎなかった。
「このカレーという奴は辛くて、とてもではないが食べ切れない。お前のそれはあまり辛くなさそうに見えるから、その…」
ナインはまた顔を赤くして俯く。横では水流が肩を震わしながら口を抑えて、吹き出しそうになるのを我慢していた。
…おい。お前、年は幾つだ。
俺はそう言いたい衝動に必死で耐え、黙ってうどんをナインに差し出した。
「俺の食いかけで良いなら、どうぞ。カレーは貰っていくぞ」
「あ、ああ。感謝する、京司」
控えめに頷き、うどんを啜り始めるナイン。何と言うか、見ていて微笑ましくなってきた。
しかし、そこでナインが急にその手を止め、立ち上がる。
「どうした、ナイン」
「…行くぞ、京司」
そう言ってナインは俺の手を引いて走り出す。俺は急に腕を引っ張られてよろけそうになりながら、それでも必死にナインに付いて走った。

俺はナインに連れられて、誰も居ない校舎裏まで来た。
「何なんだよ、いきなり!まさかうどんに俺が七味入れすぎたから辛かったとか言うんじゃないだろうな!」
「その様な事では無い。敵襲だ。予想到着時刻は現時点より3分後だ」
絶句。数日前に言われた事が、俺の脳に響き渡る。
『私を狙う魔は星の数ほど居る』
「…で、俺は何をすれば良い?」
「話が早くて助かるな、京司。では、早速だが“Conception”と叫べ。お前の言霊を受け取り、私とお前の存在を結合させる」
何の事かよく分からないが、ナインがそうしろと言うのなら従うしかない。
「Conception!」
叫ぶ。
その瞬間、目の前に立っていたナインの姿がテレビのゴーストの様に揺れ、掻き消えた。ぼう、と淡い光が灯る。その蛍火にも似た光は俺の体を撫でる様に覆っていく。そして、光が通過した箇所は黒い外骨格の様な物が包んでいた。腕、脚、胴。光が俺の体を嘗め尽くし、顔を覆うまで5秒もかからなかっただろう。
光が消えて、俺は自分の手を見た。そこに在ったのは、特撮番組のヒーローにも似た漆黒の腕。全体的に黒いが、胸や肩、太腿等に白い装甲も見える。そして、鳩尾の辺りに黒い宝石の様な物が鈍い輝きを放っていた。
『京司、聞こえるか?』
ナインの声が耳元で聞こえる。しかし、左右を見ても、ナインの姿は何処にも無い。
『今の私はお前と存在を結合させている。つまり、今のお前は私でもある』
…ナインと俺が合体してこの黒い姿になったのだろう、という事は分かった。この合体、というのが結合、と言う事なのだろう、とも。
『飲み込みが早いな。良い事だ。では、基本的な戦闘は実戦で学ぶぞ…来た!』
ナインが叫ぶや否や、俺は嫌な気配を上空に感じた。今まで立っていた位置からバックステップ、敵の攻撃をかわす。俺の目の前に降り立ったそれは、白っぽい龍の様な姿をしていた。大きさは約4メートル。二本の腕に鋭い爪が生え、口からは凄まじい悪臭がした。
『白溶裔(シロウネリ)か。九十九神の一種で、強さとしては下の上と言った所だ。この程度なら、練習台にちょうど良い』
しかし、実戦で戦闘を学ぶと言っても…俺はとりあえず、見よう見まねのボクシングスタイルで構えた。

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