第8話:迎合―Hail―

雨の降り続いていた空は、丑三つ時を過ぎる頃には嘘の様に晴れ渡っていた。
硝子さんの寝室の扉にコップを当てる。それに耳を押し付け、中の音を確認する。
(…どうだ、京司。何か聞こえるか?)
(…いや、何も聞こえない。寝静まってるみたいだな)
(…そうか、では行くぞ)
俺達は玄関から靴を持って来ると、自室の窓を開けて外に出た。高校男子たるもの、その気になれば二階の窓から地面に降りるくらいは簡単だ。ましてナインは女の子とは言え魔だ。彼女は俺以上に身軽に地面へ降り立つ。
俺達は無言で頷きあうと、夜の町へと繰り出した。

何の手がかりも無いが、それでも町を歩いていれば他のイルサイブと出会う可能性はある。ナインによると、同種の魔の場合は互いに感応し合う事は少なくないらしいが、イルサイブにそういう能力は無いらしい。地道に足で探す以外、方法は無いわけだ。俺は何時でもエクリプスの姿になれる様にナインと並んで歩いていた。

何時間も探し続け、ふと腕時計を見ると既に五時を過ぎていた。今日はそろそろ諦めて家に帰ろうか。ナインにそう提案しようとした、その刹那。人間程度の大きさの何かが、俺達の上空を通り過ぎた。

ドン!

背後、何か重い物が激突した音。振り返ると、目の前には真っ黒い髪の毛をした女性が上空から落ちてきた様な姿勢で地面に両手を付いていた。先程の音はこの人だろうか。その女性は痛そうに顔をしかめるが、それでもしっかりと立ち上がる。背丈は俺と同じか、若干高い位だろうか。ホワイトさんの紅玉に似た冷たい赤とは違う、燃える様に真っ赤な瞳をした美しい顔立ちの女性だ。彼女は俺達を嘗める様に眺めると、妖艶でいながら粘着質な声で嗜める様に言った。
「君ぃ、そこ、危ないわよ?」
「危ないって…」
そう言おうとした時、俺の後ろから何かが歩いて来る音が聞こえた。振り向いた俺の目に映る、真紅の異形。それは右手に拳銃を持ち、悠然とこちらに向かって歩み寄る。姿形や武装こそ違えども、その身に纏う雰囲気はエクリプスのそれと酷似している。
ヴァリアントだ。
「無粋ねぇ、貴方。いきなり襲うのはルール違反じゃないかなぁ?」
俺とナインの存在をまるっきり無視して、黒髪の女性は真紅のヴァリアントに語り掛ける。真紅のヴァリアントは忌々しそうに言った。
『貴様達魔にルールなど通用するのか?人外の法則に従って生きる存在に、ルールがどうこうと言われる筋合いは無い』
あら、嫌われちゃった。黒髪の女性は軽く言う。彼女は俺の肩を軽く押し、俺とナインを脇に退ける。そして、正面から真紅のヴァリアントと向かい合った。すらりと伸びたその四肢が、ひどく悩ましい。
「ま、いいでしょ。あたしの名は蜘蛛。貴方の名は?」
どう見ても人間にしか見えない、蜘蛛と名乗る女性は、その細い指で真紅のヴァリアントを指す。俺は彼女と紅いヴァリアントから数歩離れた距離で、ナインに囁いた。
「おい、どうする?俺達もヴァリアントになるか?」
「いや、待て。まだあの紅いヴァリアントが無差別に魔を殺している者だと決まったわけでは無い。あれ以外、我々を含めて三体目のヴァリアントが居る可能性もある」
確かに。俺は納得し、ナインと一緒に少し離れた位置で事の行く末を見守る事にした。
真紅のヴァリアントは銃を構えたまま返答していた。
『…シミュラクラム、だ』
「そう、シミュラクラム。良い名前ねぇ。ところで、シミュラクラムさん?何であたしを攻撃するの?あたしはただ、食事をしようとしただけなのにさぁ」
『黙れ。貴様は人間を喰おうとしていた』
あはは、と掌で顔を覆って蜘蛛は哄笑する。彼女は一頻り笑うと、顔を覆った指の隙間からにたりと笑い、シミュラクラムに問い掛けた。
「貴方も食事はするでしょ?貴方は人間以外の物を餌とするけれど、あたしの場合それが人間であるだけ。獅子が兎を喰らって、それを責める者は居ないわよねぇ?」
それは、確かに正しい理論だった。菜食主義者も含め、俺達は生きる為に別の生命を喰っている。それを責める事は、決して出来ない。
「けれど、安心なさいな。貴方は人間をあたしが喰べる所を見る事は、もう二度と無いから」
顔から手を離し、蜘蛛の声から粘着質な雰囲気が抜ける。その変貌に、シミュラクラムは半歩下がって身構えた。蜘蛛はその赤い舌先を唇の隙間から覗かせ、嬉しそうに言った。
「御免なさいね。今宵は予定を変えて…貴方を、喰べる事にしたわ」
蜘蛛の体から湧き上がる、圧倒的な魔力。俺は知らず飛び出しながら叫んでいた。
「Conception!」
俺とナインの存在が結合し、俺の身体にエーテルが黒い光になって纏わり付く。その光は黒い外骨格を形成し、ヴァリアント:エクリプスを形作った。
いきなり飛び出した俺を見て、蜘蛛もシミュラクラムも身構えたまま唖然としている。
『馬鹿、何をする気だ京司!私達には関係の無い事だろう!』
ナインの言葉ももっともだ。確かに、この蜘蛛とシミュラクラムの戦いは俺とは全く無関係の出来事だ。むしろ、手出しする方が道理に外れているとさえ言える。けれど。
『俺の目の前で、誰にも殺し合いなんてさせたくない…!』
『甘いな、京司は』
ナインは呆れ返った声を出す。確かに、俺の言う事が甘い理想論だという事は分かっている。子供が無邪気に憧れる、正義の味方になりたいだなんて。
『だが、まあ良いだろう。その甘さは命取りだが、私は京司の所有物だからな』
にや、と不敵に笑うナインの姿が目に浮かぶ。俺は苦笑しつつ、右手を突き出した。
『Gadget-2、Talon-Unit!』
空間に満ちる第五架空要素エーテルが固体化し、鋭い爪が顕現する。
「…ねぇ、貴方もあたしの邪魔をするのかしら?」
蜘蛛がその指先を顎に当て、舌先で唇を舐めながら尋ねる。シミュラクラムは今すぐにでも拳銃のトリガーを引きたそうだが、俺がその射線上に居るので手が出せないで居た。
『…そういう事になりますね、蜘蛛さん』
蜘蛛はにやり、と唇を半月状に歪めた。彼女はすっと踵を返し、ゆっくりと歩み去る。
「あたしもさすがにねぇ、二人同時に相手する程は自惚れてはいないつもりなの」
蜘蛛の声に粘着質な調子が蘇る。先程の様子と合わせると、どうやら硝子さんが切れた時に女言葉になるのと同じように、戦闘時には粘着質な調子が消えるようだ。
「じゃあねぇ。また縁が有れば逢いましょう、シミュラクラムさん。約束したから、貴方を喰べるまで、人喰いは控えておいてあげる」
あはは、と笑い声だけを残して蜘蛛は一瞬の内に掻き消える。追いかけようにも、その気配は周囲の何処にも無かった。それに、今はそれ以上に重要な用事がある。
『シミュラクラム、だっけ?お前に、聞きたい事がある』
そう言って振り返ると、シミュラクラムは拳銃をエーテルに分解しながら俺に近寄ってきた。どうやら、俺に対して敵意は無いらしい。シミュラクラムは俺の目の前まで来ると、腰に手を当てて立ち止まった。
『聞きたい事がある、ねぇ。それはうちの台詞やで、巽君?』
聞き覚えのある声。聞き覚えのある口調。シミュラクラムの赤い装甲が剥がれ落ち、その下からは見知った友人の顔が現れる。水流柳、その人だった。
「やはり、貴女もイルサイブでしたか。我々イルサイブは人間と非常に“紛らわしい”ですからね。もしや、とは思っていたのですが…」
水流の後ろから、太宰先生の声。水流の体から装甲が剥がれるのと同時に、その体がジグソーパズルのピースの様に空間に形を成していく。
それは信じがたい日常の、些細な崩壊の始まりだった。

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