第10話:少女―Juvenile―

蛍光灯の眩しい光に瞼を灼かれ、俺の意識は回復する。
「起きたか、京司。お前も案外脆いな、人間の拳程度で失神するなど情けない」
いきなりの説教が最悪の目覚めを彩る。俺はナインを睨みながら身を起こした。周囲の光景から察するに、ここは予想通り保健室だろう。どうやら祐二に殴られて気絶した後運び込まれたらしい。
さて、その祐二は。問い掛けると、ナインは無表情に答えた。
「あの後、祐二は太宰先生に怒られに行った。もっとも、冗談で殴ったらお前が予想以上に脆くて気絶しただけで、祐二に危害を加える意思は無かったという事を証言しておいた。結局昼休みが終わる頃には帰ってきていたから、太宰先生も分かってくれたのだろうな。お前が起きたら謝っておいてくれ、と祐二から伝言を頼まれている」
まあ俺が周囲を見ていたら後楽先輩、だったか?の胸に頭をぶつける事も無かったわけで、祐二に対しては何の恨みも持っちゃいない。俺が一人そんな事を考え、まだぼやける頭をはっきりさせようとしていると、ナインが追い討ちをかけてきた。
「それと、体育の大野先生から連絡だ。次の体育の時間、持久走の測定をするそうだ。覚悟しておけとの事だったぞ。そして六時間目の国語だが、配布されたプリント類は全て私が預かっている。家に帰ったら渡そう」
ナインの言葉に驚愕し、急いで窓の外を見る。まだ初夏なので日は落ちてはいないが、だいぶ暗くなって来ている。この状況はどう考えても今が放課後である事を意味し、どうやら俺が自分の予想以上に昏睡していたらしい事が判明した。
「お前が起きたならここに長居する必要も無い。さっさと帰るぞ」
自分で立てるか?と、優しい心遣いをしてくれるナイン。俺は何とか自力でベッドから降りると、鞄を持って保健室を後にした。

「あら、もうお起きになって大丈夫ですの?」
校門の辺りで誰かに声を掛けられた。暗がりで顔が見えにくいが、声から察するに…後楽先輩?彼女は顔が見える辺りまで優雅に歩いてくると、心配そうに俺の顔を見た。若干俺より身長が高く、年上のお姉さんが弟を見下ろすような雰囲気だ。
「先程私の胸に頭が当たった事でお友達と喧嘩になり、保健室に運ばれたとお聞きしましたので、貴方をここで待っていたのですが…申し訳ありませんね、あのような場所に私が居たばっかりに」
すまなそうに身体を小さくする後楽先輩。何か微妙に世間とずれがある様な感は否めないが、良家の子女とでも言った雰囲気ではある。俺は先輩に笑顔を向けた。
「大丈夫ですよ、後楽先輩。先輩が心配するほどの事でもないです」
「あら、そうですか?そう言って頂けると私、肩の荷が下りた様です。けれど、気絶なさった事は事実なのでしょう?どうか、くれぐれもお大事にして下さいまし」
彼女はそう言って俺達の前から立ち去ろうとした。けれど、ふと足を止めて振り返る。
「あの、失礼ですがお名前は?貴方は先程私の名前を呼んでおられましたのに、私が貴方の名を知らないのは失礼に値します。差し支えなければ、教えて頂けませんか?」
小首を傾げて微笑む先輩。ミス朝西も頷ける、極上の笑顔だった。
「俺は巽京司です。こいつは雨宮ナイン。二人共、二年生です」
「巽さんに雨宮さん、ですか。では改めまして、私は三年生の後楽茶名と申します。以後、お見知りおきを」
ぺこりと頭を下げ、彼女は今度こそ俺達の前から歩み去った。百合の花に似た後楽先輩の後姿を見送り、俺達は並んで帰路を辿る。

「…いいの?このまま、あの子達を見逃して」
ジョセフィーンは旧友に声を掛けた。旧友は口の端を吊り上げて笑い、ジョセフィーンに振り返った。黒い髪と真紅の瞳、そして細い四肢。人の姿を模してその身を創造する魔、自らを蜘蛛と称する魔。彼女は唇を舌で舐めて湿らせながら、問い掛けに答える。
「放っておいても、大した害にはならないでしょ。今日あの子達を見に来たのはぁ、ただの暇潰しよ。あたしは貴方と違って、時間を持て余しているからさぁ。それに、ほら。少しの間、人喰いは控える事にしたのよね、あたしぃ」
囀る様に喉を鳴らす。蜘蛛は親しげな微笑でジョセフィーンに問う。
「で、今日は何の御用かしらぁ、背信者?真逆、あたしを埋葬しに来たの?」
「それこそ真逆、よ。私は埋葬機関でありながら貴女達の様な魔と関わっているからこそ、背信者と渾名されるのに。今日はね、蜘蛛。貴女に訊きたい事があるのよ。答えてくれる?」
ジョセフィーンはその白いドレスの裾を風に棚引かせ、黒い服に身を包む蜘蛛に手を差し伸べた。その手はまるで、彼女を舞踏に誘っているかの様だった。
「…いいでしょ。少しだけ、相手してあげる。あたしも退屈していた所だから」
目を細め、ジョセフィーンが本気になる。彼女とて、旧友を前に何時までも余裕のふりを続けられるほどには己の力を過信してはいない。
「まず訊きたい事は、14年前の事。あの時、貴女は何をしたの?」
「…いいわ、最高よ背信者。前置き無しで核心に触れてくるなんて」
言葉の調子をがらりと変え、蜘蛛は旧友に向き直る。旧友とは言え、埋葬機関の幹部を前に、何時までも無防備に笑ってもいられない。
「14年前、ね。あたしはあの時、一人の人間を殺し、一人の人間の腕を落とし、一人の人間の光を奪い、一人の人間の声を消した。ただ、それだけよ。喰べなかったのは何の意味も無い気紛れね。貴女があの娘を拾った、それと同じ様に」
「…なら、次に訊くわ。貴女は彼女達を使って、何に到達したいの?」
挑発に乗って貰えなかった蜘蛛は軽く笑い、哀れむ様な瞳でジョセフィーンを見る。
「知れた事を訊くのね。あたしが到達したいのは、遥かに遠いあたしの故郷以外に在り得ない事位、知っているでしょう?」
蜘蛛は過ぎ去った昔を懐かしむ。彼女の憂いを帯びたその瞳は、同性のジョセフィーンでさえ一瞬恍惚とした。黒檀にも似た蜘蛛の髪が、風に揺れる。
「訊きたい事はこれだけかしら、背信者?もう家に帰っても良いかなぁ?」
声の調子を戻し、蜘蛛はジョセフィーンに問い掛ける。その粘着質な調子は、まさしく蜘蛛の網を彷彿とさせた。ジョセフィーンは頷き、別れの言葉を告げた。
「じゃあね、蜘蛛。また縁が有れば逢いましょう」
「そうねぇ、背信者。互いにそれまで生きていられたら、だけどねぇ」
からからと明るく笑い、蜘蛛は霞の様に消え失せる。月の光が蒼く静かに輝く夜に、ジョセフィーンは迎えが来るまで黙って立ち尽くしていた。
「ジョセフィーン、用事は済んだの?」
彼女を迎えに来たのは、三十代前半に見えるジョセフィーンより若干若そうな女性だった。ハーレーのバイクに跨り、フルフェイスのヘルメットを脇に抱えている。奇妙な事に、初夏だと言うのに黒いロングコートを着込み、夜だと言うのに顔にはサングラスを着用していた。話す言葉は流暢な日本語だが、その肌と髪は日本人にしては若干色素が薄く見える。
「ええ、もう終わったわ、砂緒(スナオ)。お迎えありがとう」
ジョセフィーンはドレスのスカートを器用にたくし上げると、バイクのリアシートに跨った。砂緒と呼ばれた女性は抱えていたヘルメットをジョセフィーンに手渡す。彼女は正面を向き、バイクのキーを捻った。
「砂緒、バイクを運転する時くらいはサングラスを外しなさい。暗いし、危ないじゃない」
ジョセフィーンに諭され、砂緒は渋々サングラスを外して胸元のポケットに入れた。黒いレンズの下から現れたのは、虹彩異色症の瞳だった。右目は鮮血の色を映したような朱色。左目は月の光と見まごう程に神々しい金色。
「目を見られるから、好きじゃないんだけれど…走っていれば、誰も気付かないか」
自分を納得させる様に呟き、彼女はバイクを駆った。

「ところで砂緒、今日の晩御飯は何?」
疾走するバイクの音に負けぬ様、大きめの声でジョセフィーンが砂緒に尋ねる。
「ミネストローネとボンゴレビアンコ。今日はイタリア風のメニューにしたの」
負けじと叫び返す砂緒。ジョセフィーンは満足げに頷き、二人を乗せたバイクは夜の街へと消えていった。

第九話     第十一話

戻る