第11話:血族―Kin―

冷蔵庫から缶ビールとミネラルウォーターのボトルを取り出し、缶をジョセフィーンに渡した。ジョセフィーンはプルタブを跳ね上げ、その飲み口に情熱的な接吻を交わす。
「うん、美味しい。けど砂緒、いいの?これ、愛しの旦那様の分じゃないの?」
ジョセフィーンはからかう様な調子で尋ねる。ビールの買い置きくらい十分ある、とだけ砂緒は答え、ジョセフィーンの向かいのソファーに腰を下ろした。
「しかし、こんな極東の島国で“蜘蛛”に逢うなんてね…彼女、ミスカトニックが本拠地の筈なのに、一体どういう風の吹き回しかしら」
ぼやくジョセフィーンを無言で見ながら、砂緒は自分のグラスにミネラルウォーターを注ぐ。くい、とグラスの中身を呷った砂緒は立ち上がり、本棚から一冊の黒いファイルを取り出した。そのページを繰って目当てのページを見つけ出し、ソファーに戻った砂緒は、ジョセフィーンにそのページを見せながら解説を始める。
「これ、朝比奈市でのここ数年の魔の発生状況や魔の屍骸の発見数をグラフにしたもの。この朝比奈市はマナの豊富な土地だから、他の土地に比べて魔が多い事は知っての通りね?当然その屍骸は自殺、他殺、事故を問わず他の土地より多いのだけれど…」
砂緒はグラフを数箇所指し示す。約三年前、約八ヶ月前、約七ヶ月前の三箇所だった。
「まず三年前。この頃を境に、魔の人間に対する実害報告が若干減少している。魔が人間に遠慮する筈は無いだろうし、魔が害を出す前に食い止める何者かが埋葬機関以外に現れた、と言う事だけれど、これは埋葬機関の関与する事じゃない」
ジョセフィーンは眉を顰めて考える。砂緒は話を続けた。
「次に八ヶ月前。この頃から、ジョセフィーンが日本に来た理由でもある魔のエーテルによる殺害事件が発生し始める。当然、魔が減少するわけだから実害報告も減少。エーテルの精製方法はイルサイブ、厳密に言えばヴァリアントの物に酷似。これは私が直接調べたから間違いは無いと思う。これでも一応、私はエーテルが専門だから」
頷くジョセフィーン。砂緒は彼女の顔色を窺い、最後の推移について話し始めた。
「最後、七ヶ月前。この頃から実害報告が再び増加を始める。ただ、魔のエーテルによる殺害の報告数の数は変わらず。エーテルで殺される数以上に魔を何者かが撒いていると考えるのが妥当だけれど、それで誰かが得をする様な事が起こるとは思えない。真逆、エーテルで魔を殺している誰かにもっと魔を殺させたい訳でも無いだろうし」
「…蜘蛛がこの土地に来たのは、何時頃?」
ジョセフィーンは真剣な顔で問う。砂緒は頭を横に振り、肩を竦める。
「巧妙に魔力を隠蔽していたから、無様な事だけれど、ジョセフィーンが気付くまでは私も気付けなかった。ただ、ここ数年で不審な行方不明者はほとんど発生していない。蜘蛛も他の魔も、大量に人を喰う様な事はしていないと言う事ね」
砂緒は悔しそうに親指の爪を噛む。ジョセフィーンはビールを一口飲むとしばし黙り、そしてゆっくりと口を開いた。
「恐らく、蜘蛛の他に人喰いの魔は居ないわ。あの蜘蛛のお膝元でのうのうと暮らしている様な魔は、よほど脳が足りないか、蜘蛛と争わない自信がある魔だけよ。例え人喰いの魔が居るにしても、その人喰いの衝動を抑えられるか、嗜好として人を喰う様な、人を喰わなくても生きていける魔ばかりね。当然あの蜘蛛は人喰いの衝動なんてとうの昔に克服した筈だけれど…いや、それとも真逆…いや、それこそ真逆、よね…」
何事か考え始めたジョセフィーン。砂緒は小首を傾げそれを見守るが、ジョセフィーンがもう一度口を開くまで黙っていた。
「ねえ、砂緒。魔術師とは本人が強者である必要は無く、その業で最強のモノを作れば良い。彼女の格言、これで間違い無いわよね?」
口元に手を当て、砂緒は黙考する。やがて、彼女は小さく一度頷いた。その左手の甲には、真紅の十字架と蟹座の紋章が刻まれていた。

翌朝。
後楽茶名は、食パンにイチゴのジャムを塗りながらテレビの電源を入れた。何時も見ている朝のバラエティーにチャンネルを合わせると、彼女はマグカップのコーヒーを啜った。
天気予報、殺人事件、交通事故、外交問題、その他。雑多な情報の渦。茶名はそれらを眺めて情報を仕入れながら、優雅に朝食を終えた。
「さて、そろそろ学校へ向かうとしましょう…」
テレビの電源を落とした茶名は呟き、食器を片付ける。汚れがこびり付かない様に食器を洗い、それらを布巾で拭いて食器棚に入れる。全ての後片付けがすむと、彼女はネグリジェを脱ぎ捨てた。下着を身に着け、スカートに足を入れ、セーラー服に袖を通し、赤いスカーフを巻く。鏡に向かって寝癖などが無いかをチェックする。艶やかな黒い長髪は、上等なビスクドールの白磁の肌にも似た彼女の顔と良く似合っていた。
「それでは、行って参ります」
誰も居ない家の中に向けて挨拶をし、茶名はアパートの扉を閉めた。赤錆の浮いた階段を下り、アパート前を掃除している大家に挨拶をしてから学校へ向かう。太宰先生のバイクが横を駆け抜けていった。何時も後ろに乗せている少女が居ないが、途中で友人とでも会ってバイクを降りたのだろう。
「おはようございます、先輩」
「おはよう、後楽さん」
「おはようございます、お姉さま」
掛けられる声に一つ一つ律儀に挨拶を返しながら、茶名は通学路を歩いた。掛けられる挨拶にはたまに変な物も混じるが、ミス朝比奈西高校である彼女は、先輩後輩や男女を問わず人気があるので、それは仕方ない事だ。有名税と言うものだろう。成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗。完全すぎるとも言える、彼女には。多くの知り合いに囲まれた、昨日と同じ日常がそこに在った。
やがて校門に辿り着く。彼女は目を細め、自分の学び舎、朝比奈西高等学校を眩しそうに眺めた。門柱に優しく指を這わせ、小さな溜息を吐いた。
「どうしたんです、後楽先輩。校門なんか撫でて」
聞いた事のある声に、茶名は振り向いた。そこには昨日の少年と少女、巽京司と雨宮ナイン、そしてそれとは別に知らない少年と少女が一人ずつ立っていた。少女の方は顔も見た事は無いが、少年は昨日食堂で巽君と一緒に食事をしていた少年だ。
「いえ、私も今年で卒業かと思うと、三年間通った学び舎を愛しく思いまして…その方々はお友達ですか、巽さん?」
茶名の問い掛けに京司は頷き、見知らぬ二人は各々自己紹介をした。
「ども、水流柳言います。よろしゅう、先輩」
「米口祐二です。よろしく、後楽先輩」
「後楽茶名です。こちらこそよろしくお願いしますね、水流さん、米口さん」
茶名は微笑みながら手を差し伸べ、握手を交わす。華奢な腕と指に似合わず、しっかりとした力で手を握った。
「それでは私、少し用事がありますので失礼します。それでは皆さん、ご機嫌よう」
ふふふ、と綺麗に笑って茶名は小走りに駆けて行く。

扉をノックして職員室に入り、保健室の鍵を借りる。茶名は保健委員なので、数週間に一度、朝の保健室掃除の当番が回ってくるのだった。本来は保健教諭の仕事なのだろうが、この学校では保健室の掃除は保健委員の仕事、という伝統になっている。伝統なので仕方ない。深く考えないようにしつつ茶名はそのまま職員室を出ようとしたが、出掛けに誰かとぶつかった。茶名は女性としては身長が高い方ではあるが、相手はそれより高かった。よろけ、尻餅をついてしまう。
「きゃっ!?」
「失礼、後楽さん。大丈夫ですか?」
太宰先生だった。茶名がミス朝西の生徒であるとは言え、受け持っていない学年の生徒の名まで覚えているのは、立派の一語に尽きる。太宰先生は手を差し伸べ、茶名はそれに掴まって立ち上がると、スカートを軽く叩いて汚れを落とした。
太宰先生は少し心配そうな顔をしているが、茶名は、大丈夫です、と短く答えると、保健室の掃除をしに職員室から出て行った。
残された太宰は自分の掌をちらと見るが、自嘲する様な微笑を浮かべると軽く頭を振って、職員室へと入っていった。

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