第12話:初恋―Lilac―

蜘蛛の話をしよう。
身の丈は人に並ぶその蜘蛛は、人の顔を持っている。黒檀の髪を持っている。燃える双眸を持っている。しなやかな長い足を持っている。張り巡らされる銀の糸を持っている。
その蜘蛛は人以上の知恵を持っている。その蜘蛛は人以上の力を持っている。故に、それを蜘蛛と呼ぶ事は憚られる。だがしかし、それに蜘蛛と呼ぶ以外の呼び名は無い。故に、蜘蛛は蜘蛛でないまま蜘蛛であった。
蜘蛛は冷たいコンクリートが嫌いではなかった。蜘蛛は硝子の窓が嫌いではなかった。蜘蛛は闇夜の街頭が嫌いではなかった。蜘蛛は人の手による物が嫌いではなかった。土の温もりよりも、冷たい無機質の方がこの身に似合う。そう考えてさえいた。
蜘蛛に同種の個体は無かった。蜘蛛は常に独りで、群れる事を知らなかった。けれど、自分にその必要が無い事だけは知っていた。生物が群れる理由は互いに身を守り合う為、もしくは生殖し種を維持する為であるからだ。蜘蛛は群れずとも己が身を守る事は出来る。蜘蛛は自分が死んで種が廃れるという事が理解出来なかった。だから、蜘蛛は群れなかった。群れる相手が居なかったという事も、その理由の一つである。
だから蜘蛛は、今日も独り。

昼休みになった。今日もまた硝子さんは弁当を作り忘れ、俺たちは学食で昼食を調達する事となっている。ナインが来てから、硝子さんは弁当を作り忘れる事が多い。一体どうしたんだろうか。ナインの気苦労とかで色々身体にダメージが蓄積しているのなら心配だが…けれど、硝子さんは強い女だ。自分の世話くらい自分で出来るだろうし、手助けしようとしても足を引っ張る結果にしかならなさそうだ。俺は思考を中断し、ナインと祐二、水流を連れて食堂へと足を運んだ。
食券販売機の列に並びながら、今日のメニューに目を走らせる…よし、今日はミートスパゲッティにしよう。300円と値段もリーズナブルだ。ナインにも確認してから、俺は二人分、合わせて600円の食券を購入し、それと引き換えに今日の昼食を得た。
「あ、後楽先輩や。どやろ、あの人も誘って一緒に食べへん?」
水流はキムチラーメンを調理師のおばさんに注文しながら尋ねた。確かに、水流の視線の先には後楽先輩の姿がある。先輩は日の当たらない薄暗い食堂の片隅に座り、ペットボトルの水を飲んでいた。しかし、美人は何をやっても様になる。液体を嚥下する喉の動きですら艶かしい。
ただ、その周囲に人は居ない。周りに結界でも張ってあるかの様に、先輩の周囲には一定の間隔を空けてしか人は座っていなかった。先輩の姿が、少し寂しそうに映る。
「そうだな、先輩誘って一緒に食うか」
俺は答える。ナインは無言だが、不服なのではない。反対する理由が無いから黙っている訳で、ナインの場合、沈黙は肯定の意思表示だ。そして祐二は後楽先輩の胸に突っ込んだ俺を殴った男。反対する筈が無かった。俺達は全員分の食事を受け取ると、後楽先輩の元へ向かった。

「後楽先輩、一緒して良いですか?」
先輩は顔を上げ俺達の姿を認めると、困った様に微笑んだ。
「お誘いは非常に嬉しいのですが…私、昼食は摂らない事にしておりますの。ただ横に居るだけで良い、と仰るのでしたら喜んで御一緒させて頂きますが…」
見ると、確かに後楽先輩は水しか机の上に置いていなかった。何でわざわざ学食で飲むんだよ、という疑問が一瞬脳裏に閃くが、次の瞬間には思考の掃き溜めに埋没していた。
「うちは先輩が一緒におるだけでも構いませんけど…お昼食べへんて、身体に悪い事ありません?」
「ご忠告痛み入ります、水流さん。けれど、大丈夫ですわ。私元々小食ですし、食べる時には皆様が吃驚なさる程食べますもの」
口に手を当ててころころと笑う先輩。俺達は先輩のペースに呑まれながらも、席に着いて食事を始めた。
昼食と談笑。先輩はどんな話題にも博識で、非常に楽しく会話が出来た。特に英語の授業に話が及んだときには閉口した。先輩は成績も優秀だとは聞いていたけれど、先輩の英語は教師顔負けの綺麗な発音だったからだ。
「名前動後、と言いましてね。同じ綴りの英単語でも、それが名詞で使われる場合は前、動詞で使われる場合には後ろにアクセントが来る事が多いのですよ。そうですね、confine等、その良い例でしょうか」
「ははぁ、なるほど。さすが後楽先輩」
すかさず祐二がヨイショする。後楽先輩は微笑んだまま言った。
「何故さすが私なのかはよく分かりませんが…私、一時期米国に居たもので…そのおかげで、今でも英語が得意なだけですよ」
先輩が帰国子女だったとは初耳だ。シャンプーの広告に出ている女優さんみたいに綺麗な黒髪、ピアニストみたいに細くて今にも手折れそうな指。日本人形じみた美貌からか、どうも後楽先輩と米国の組み合わせはミスマッチのような気がする。俺は軽く笑いながら問い掛けた。
「本当なんですか、外国に居たって。先輩見てると、そんな感じしませんよ?」
「もう…そんなに笑わないで下さいましな。私、ちゃんと米国のマサチューセッツ州で過ごした経験が有りますのに」
後楽先輩は少しむくれてみせる。笑顔が弾けた。

程無く俺達は食べ終わり、先輩のペットボトルも丁度空になったので、窓口に食器を返してから食堂を出た。
「皆様、本日はどうも有り難うございました。とても有意義な時間が過ごせましたわ。またいずれ、御一緒して下さいましね?」
後楽先輩は微笑を浮かべたまま言う。考えてみると、俺はこの人の表情は笑顔しか知らない。常に誰に対しても笑顔でいるのなら、それは大変な事だろう。俺は精一杯の笑顔を浮かべて返礼した。
「こちらこそ、有り難うございました」

巽さん達と別れ、私は一人教室へと向かいました。良いお友達が出来て、今日はとても良い日です。私は自然と零れる笑みを隠しきれません。ミス朝比奈西高校という大仰な看板を背負ってしまったばかりに、私には気兼ねなく語り合えるお友達はあまり居なかったのです。元々人と関わる事に不慣れな私ですし、巽さん、雨宮さん、水流さん、米口さんといった素直な気持ちでお付き合いさせて頂ける方々は私にとっては非常に貴重な、掛け替えの無いお友達なのですから。
教室窓際の一番後ろの席。自分に割り当てられた席から見上げる空は、昨日と違って抜ける様に蒼く見えました。
ふと視界の端を横切った何か。目で追うと、それは一羽の鴉でした。その鴉は自分だけの翼を広げ、懸命に空を飛んでいました。ああ、何て素晴らしいのでしょう。自分の力で何かを成し遂げるという事は、心が温かくなります。嬉しい事です。自分がここに存在している、この存在が無意味ではない、そうダイレクトに感じる事が出来るから、私は私自身が何かを成すという事が大好きです。だから、私は自分自身の力で巽さん達との仲を進展させたいと思います。けれど何故、私は巽さん達と仲良くしたいと思うのでしょうか。
そう自問して初めて、私は自分の胸を埋める思いが何であるのかにやっと気付きました。
この思いは、懸想という感情です。好意という事、好きという事です。誰に対しての思いであるかなど、改めて自分に問う必要などありません。だって、彼の事を思うだけで私の心臓は早鐘の様に鳴るのですから。
巽さん。巽、京司さん。
これは初恋という物なのでしょうか。後楽茶名という存在が始まって初めて人が気になるようになる、これが後楽茶名の初恋という物なのでしょうか。思いは巡り、思索は尽きません。

けれど。
後楽茶名は思考する。
憎悪も愛情も、心を埋め尽くすという点で相似した感情である。
ならば、この胸を焦がすのは憎しみなのか愛しさなのか。
茶名は軽く下唇を噛み、その新たな問いを自問した。

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