第14話:虚無―Nil―

『が…!?』
衝撃に弾き飛ばされ、俺は背を地面に強かに打ちつけた。肺の中の空気を搾り出され、とても動ける状態ではない。だが、寝転がっていては格好の的でしかない。俺は悲鳴を上げる身体を何とか動かし、ディゾルブの追撃を避けた。
『…実に素晴らしい回避能力です。私の突進を回避したのは、ヴァリアントとしては貴方が初めてですよ』
目の前、地上数十センチに滞空するディゾルブ。その背からは天使と見紛う程に純白の翼が拡がっている。その周囲を旋回しながら僅かな光を放つシェルユニットは、まるでその鱗粉の様だった。
『くそ、どうすれば良いんだよ…!』
こちらの攻撃は完全に防がれる。今は紙一重でかわし続けていられるけれど、すぐに疲れてディゾルブの攻撃も防げなくなるだろう。どう考えても分の悪い勝負だ。シミュラクラム、水流が来るまで生きていられるかどうかさえ不確かな状況だ。
『京司。唯一つ、方法が無いでもない。だが…』
柄にも無く言いよどむナイン。ナインが躊躇うという事は、何か良くない事があると言う事だ。けれど、生き残る為なら背に腹は変えられない。俺はナインに話の続きを促した。
『エクリプスのメインガジェット、コズミック・カタストロフィを使う。コズミック・カタストロフィは対象物の物理防御を無視してダメージを与えると言う特性を持っているから、あのシェルユニットの防御も無効化出来る筈だ』
問題は、二つ。ぶっつけ本番、しかも一発でディゾルブを仕留めなければならないと言う事だ。以前ナインが言ったエクリプスのメインガジェットの形状は弓。当然ながら、俺は今まで一度たりと弓を握った事なんて無い。
そして、外せば次は無いという事。メインガジェットの使用には大量のエーテルと魔力を必要とする。つまり、一度放てば次に撃つまで時間がかかると言う事になる。
けれど、迷っている時間なんて無かった。俺は叫ぶ。俺の命を。俺の未来を。渇望を。欲望を。願望を。切望を。そして、希望を。
初めて使うメインガジェット。けれど、何故か自然に身体が動いた。左腕を鋭く前へ突き出す。五指は広げ、視線はディゾルブに狙いを定める。脳髄に氷のナイフが刺さっていく様な感覚。思考がクリアに研ぎ澄まされ、左前腕部に収納されていた部品が、上下に飛び出して弓を成す。黒いエーテルの弦を張った弓を、俺はしっかり握り締めた。
ディゾルブの動きが、止まって見える。一瞬が永遠に引き伸ばされた様に。俺は右腕を顔の前に出した。突き出した左腕と肩で交差する形だ。
『…Refine.(精製。)』
呟く。その刹那、俺の右腕から黒い光が染み出し、手の中に一本の矢を精製した。身体が成すべき事を成し、俺は自然と矢を番えていた。射抜く。生き残る為に。ディゾルブを倒す為に。俺は声高に宇宙の終焉を叫んだ。
『Cosmic Catastrophe!』
射出されるエーテルの矢。ディゾルブは回避しようとするが、それよりも矢が飛ぶ方が早い。ナインの予想通り、シェルユニットも効果を成さない。狙い違わず矢は彼女の腹を貫き、ディゾルブを壁に磔にした。
『か…あ…』
苦しげに呻くディゾルブ。ほぼ無傷の筈の俺も、口からは意に反して喘ぎ声が出た。身体に力が入らない。メインガジェットを使った反動で魔力が枯渇し、身体が動かせないほど消耗したのだろう。その一回に精魂を込める。必殺技ってそんな物だ。
『京司。今ここでSublimationと言霊を吐けば、ディゾルブの存在は昇華し…この世から、消え失せる』
ナインが説明する。その言外に、ディゾルブに早く止めをさせと言いながら。
けれど、俺はディゾルブに止めをさせなかった。相手はヴァリアントで、イルサイブだ。俺と同じ存在だ。ナインと同じ存在だ。それを殺すと言う事を、俺は躊躇していた。白溶裔は魔物だった。人の形をしていなかった。知性も希薄な様だった。だから、俺は奴を殺せた。けれど、目の前のディゾルブは違う。人間型で、知性もある。この感情が偽善である事くらい、百も承知だ。
けれど、俺はやっぱり偽善者だった。
『ディゾルブ…これ以上、魔を自分の力の為だけに殺さないって約束するなら…俺は、お前を殺さない』
ディゾルブは苦しい息の下、俺を嘲笑する。
『甘いですね、貴方は。私がそれを約して、助かったとしましょう。けれど、その後の私の行動を、私が本当に二度と魔を殺さないと、貴方は何故言い切れるのですか?』
ナインもその通りだ、と言う。ディゾルブが嘘を吐いて逃げるかも知れない交渉を持ちかけるのは何故だ、と。そんな事、簡単な理由だ。
『ディゾルブ。俺は、お前を…信じたい』
俺はそう言って、残された僅かな力で立ち上がる。壁に磔になったディゾルブに近づき、その腹に刺さった矢に手をかけた。
『どうする、ディゾルブ。お前は魔を殺さないと約束するなら、俺は矢を引き抜く。約束しないなら…殺す、だけだ』
ディゾルブはヴァリアントの装甲の上からでもはっきり分かるあからさまな嘲笑を浮かべ、全力で俺を馬鹿にした。
『良いでしょう、約束します。無論、自己防衛などは別ですが、ね』
俺は頷き、約束したとおりディゾルブの腹から矢を引き抜く。彼女は地面に降り立つと、傷跡を左手で庇いながら結合を解除した。金色のナインが現れる。相手はもう戦う意志は無い様なので、俺も水流に事のあらましを伝えてから結合を解除した。
「…命は見逃して頂いた事ですし、名は名乗っておきましょう。イルサイブ・アルカナ(Arcana)です。ヴァリアント名は先程も言った様にディゾルブ」
「俺は巽京司。こいつはナイン。ヴァリアント名はエクリプスだ」
つられて自己紹介。アルカナはくすりと笑うと、俺たちに背中を向けて歩き始めた。
「では、さようなら。もう二度と逢う事も…」
「おい、その傷大丈夫なのか!?どう考えても重症だぞ、アルカナ!」
アルカナは体半分だけ振り向き、軽く笑みを浮かべ、そのまま…
――――――――――ぱたり。
「あーもう!言わんこっちゃねぇ!」
走り寄り、彼女を担ぐ。思ったより軽くて、何と言うか、こいつも女の子なんだと実感させられる。ただ、じくりと背中に仄かな温みが伝わった。アルカナの、血だ。
俺は彼女を近所の病院まで運ぼうと、傷に響かない程度の早足で歩き始めた。
「ちょっと待て、京司。真逆とは思うのだが、矢による傷を受けたそいつを普通の病院に運ぶ気なのか?それなら止めた方が良い、絶対に碌な事にはならん」
ナインが呆れ果てた様に俺を諭す。確かに、矢傷を負った少女を病院に運べば絶対厄介な事になる。かと言って、他に良い場所も無いし…

「…」
「…」
無言の間が重く、苦しい。硝子さんはにっこり笑っているが、もしこれが喜んだりしている様に見えるならば、眼科が精神科に今すぐ行くべきだ。そして万が一、異常が無いと診断されたら俺と立場を交換して下さい。ライトナウ、プリーズ。
俺はキリキリ痛む胃を軽く抑えながら、硝子さんに愛想笑い。案の定飛んできた鉄拳を、紙一重の見切りで避ける。鼻先を風が通り過ぎていった。恐怖のあまり、涙が出そうだ。
「京司。お前が優しい奴に育ってくれたのは非常に嬉しく、亡くなった叔父さん叔母さんにも顔向け出来るし尚且つ私の教育が間違っていなかったという証明でもあるが故にその点に関してお前を叱るのはお門違いも甚だしいと言うかそういう事なので安心しろ」
肺活量が問われる台詞を一息でこなす硝子さん。そこに痺れる、憧れる。
硝子さんの目付きが鋭くなり、ずいと身を乗り出して鼻と鼻を付き合わせる程に顔を寄せる。硝子さんの口から、微かに煙草の香りがした。
「この金髪、アルカナだったか?彼女をうちで引き取るのは許可しよう。ナインも居るし、一人増えるも二人増えるも同じだ。だが、もしこれ以上増やしてみろ。フォアボール押し出しの要領で、京司、君に出て行って貰うからな」
俺は失禁しそうな程の恐怖を平面蛙並の根性で耐え切った。
こうして、我が家の居候が増量する。

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