第15話:機関―Organ―
硝子さんの恐怖から開放されてからの、束の間の睡眠。体力の完全回復には程遠い睡眠時間しか確保出来なかったが、それでも何とか身体は動く。俺はベッドから降りると、ナインと背中合わせに制服を着た。さすがにナインも女の子、いくら俺が煩悩の徒でも着替えを見るなんて事はしない。ビバ、紳士な少年巽京司。
「…京司。一つ言っておきたいのだが…お前はどうも、優しすぎる」
何時もは無言のまま着替えるナインが、今日に限って話し掛けてきた。恐らく、昨夜のアルカナの件を言いたいのだろう。俺は何も言わず、素振りだけで話の続きを促した。
「お前が殺生を望まないと言うなら、それはそれで構わない。だが、お前は殺生が嫌なのではない。何かを殺し、自分がその責任を負う事が嫌なのだろう?」
手が、止まる。図星だ。一切の反論が出来ない。結局、俺は臆病なんだ。白溶裔の様に、知性が無い魔なら、それは魚を捌くのと一緒だ。魚を殺す事に罪の意識を感じる主婦が居ない様に、無感情に殺す事が出来る。けれど、それがイルサイブの様に知性を持っていた場合。俺は、殺す事を躊躇ってしまう。
「確かに、無感情にあらゆる敵を殺戮するよりは幾分かは人間らしい判断だ。だが、敢えて忠告しておく。私は、いや、我々は魔の世界に棲む者だ。殺すべき時に躊躇うな。そうしないと、死ぬ事になる」
先に食卓に行っている、と言い残してナインは部屋を出て行った。ドアの閉まる音が、今日はやけに虚しく聞こえた。
ナインの居なくなった部屋で、俺は自分の掌に目を落とす。戦うというのは、こういう事だ。自分は何を護るのか、取捨選択せねばならない。自分が何を殺すのか、取捨選択せねばならない。けれど俺は、それがどれほど偽善でも、自分の信念を曲げたくなかった。
正義の味方を気取るつもりは無いけれど、俺は。俺の正義を、貫きたかった。
拳を強く握り締める。そして、俺は扉を開けた。
「…おはようございます、巽京司」
食卓兼居間に行くと、ソファの上にはアルカナがちょこんと座っていた。昨日の襤褸は脱いで、今はナインのシャツとズボンを借りて着ていた。ナインとアルカナは顔も似ているが、驚いた事に体のサイズも全く一緒だった。色は違うが、まるで双子の様に見える。
「おはよう、アルカナ。怪我はもう良いのか?」
アルカナは無造作にシャツをたくし上げ、臍を露にする。確かに跡らしき物は在るが、傷自体はほとんど塞がっている様だ。昨日硝子さんが巻いた包帯も解かれている。俺の傷を治した時もそうだが、イルサイブの怪我を治す能力には目を見張るものがある。
「はい、まだ戦闘には耐えかねますが、通常の行動には支障は有りません。私を殺さなかった上、住居まで与えてくれた事に感謝します、巽京司」
ぺこり、と頭を下げるアルカナ。こうも畏まって礼を言われると、体中がむず痒い。俺はとりあえずアルカナの頭を上げさせ、自分の椅子に座った。硝子さんがどういう趣向で揃えたのかは知らないが、この家のテーブルは四人掛けで、椅子も食器も全部四人分有るのだった。
「三人とも揃ってるな。すぐに弁当と朝飯の支度してやるから、少し待ってろ」
櫛の入っていないぼさぼさの髪を撫で付けながら、硝子さん登場。毎朝の光景なので見慣れたが、下着でうろつくのはいい加減にして欲しい。そんな俺の切実な願いを他所に、硝子さんは欠伸を噛み殺しながらエプロンを装着し、台所へと消えていった。
「行って来ます、硝子さん」
「行って来る、硝子」
京司とナインが連れ立って家を出る。それを玄関先まで見送ってから、私は家の中に入った。今日は仕事が休みなので、好きなだけダラダラ出来る。誰か…音無でも誘って映画を見に行くも良し、一日中テレビを見ながら煎餅を齧るも良し、だ。一つ鼻歌でも歌いたい様な良い気分で居間に行くと、アルカナがソファの上で膝を抱えて座っていた。
そっか、こいつが居たんだったな。
ならば、少し知っておきたい事がある。
「なぁ、アルカナ。少し聞きたい事があるんだが…良いか?」
アルカナの横に座り、出来得る限り爽やかな笑顔で問い掛ける。アルカナは視線を上げると、ナインと似た無表情で言った。
「構いません、硝子女史。ご質問は何でしょうか?」
硝子女史、て。何時の間に私はそんなに偉くなったんだ。とりあえず、その呼び方だけは訂正させた。私は硝子、それだけで良い。さん付けはまだ我慢できるが、学生時代は先輩と呼ばれるのも嫌だった位なんだから。
「イルサイブってのは、一体全体どういう存在なんだ?アルカナ、お前が知っている情報を教えてくれ。もっとも…言いたくないなら、言わなくて良い」
アルカナは視線を自分の膝の上に落とす。そして、彼女はゆっくりと語り始めた。イルサイブという存在の、その定義を。
イルサイブは、人間と“紛らわしい”魔です。故に、その名称が“Illusive”。存在の構成としては、八割以上人間と同等の能力を有します。傷を回復させる事や魂の贈与等は一流の魔術師ならば人間でも出来る事ですので、イルサイブと人間の間に在る、最も大きな差異は自己変成能力の授与にあります。イルサイブ種にこの様な能力がある理由は、一つ。イルサイブ種の魔は基本的に大量の魔力を有するからです。よって、イルサイブは魔にとって最高の馳走と言えます。何しろ、ヴァリアントにならねば人間程度の非力さしか無いのですから。そこで、自らの身を護る為に戦闘可能な状態への移行…ヴァリアントを構成する力を得ました。私アルカナの場合は以前寄生していたマスターの死亡時にその肉体を取り込んだ為、モノヴァリアント―自己を自己のみで変成出来るヴァリアント―になりましたが、通常イルサイブ一人ではヴァリアントになれません。マスター、寄生主と結合して初めて、ヴァリアントとして自衛能力を得ます。何故人間と結合して戦うという奇妙な進化を選んだのかは、我々を創造したマイロードでもない限り分かり得ませんが…
また、イルサイブとは鬼や竜といった様な正式な種族名ではありません。そも、イルサイブは自然発生したモノでは無いので、種類ではあっても種族というモノですらないのです。
イルサイブは、先ほども言ったマイロードによって創られた存在です。このマイロードというモノが我々を創造したという事は記憶しているのですが、それが何であるのかは記憶されていません。それでも我々がそれをマイロードと呼ぶのは、マイロードが我々を外の世界…我々が産まれた場所の外…に送り出す際にこう言葉を掛けるからです。
『生きろ。育て。強くなれ。そして来るべき約束の地に至る、深淵を跨ぐ橋と成れ』、と。
アルカナの説明を受け、私はふと湧いた疑問を投げ掛ける。
「アルカナ。そのマイロードとかいう奴は、どういう形の存在だ?少なくとも、声の調子から人間か否か、男女の別位は判断出来るだろう」
アルカナは不確かですが、と前置きして答えた。
「形状は人間と同じです。そして、私の主観となりますが女性の声であったように記憶しています。ですが、上位の魔は人化の術を心得る事が多い。その場合は年齢、男女等もある程度は変更出来ますので…原型が如何なる魔かの判別は出来ません」
そう、か。
どんな魔かの判別が出来ないなら、その『マイロード』とやらが…いや、希望的な観測はよそう。あれはもう、14年も前に終わってしまった事なのだから。
14年前、か。努めて思い出さないで置こうとしても、あの時の恐怖はどうやっても拭い去れない。私は知らず唇を噛み締め、疼き出した脇腹を握り締めていた。
「…どうしました、硝子?」
アルカナが眉を顰め、心配そうな声で問い掛ける。私は急いで笑顔を取り繕い、彼女の頭を撫でてやった。さらりと揺れる、その金髪が心地良い。
「何でも無い、アルカナ。少し、昔の事を思い出しただけだ」
そう、それはとても昔の事だ。14年前、私が丁度高校一年生だった頃。友人達と共に魔に出会い、そして皆が様々な物を奪われた日。
音無空は右腕を。死神小夜子(シシン・サヨコ)は視力を。武宮千秋(タケミヤ・チアキ)は声を。そして、私こと雨宮硝子は、この命を。
思い詰めた様子の硝子を、アルカナは心配そうな、けれどどこか無感情な瞳で見つめていた。
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