第19話:大蛇―Serpent―

酒木砂緒はトイレで手を洗っていた。
目の前の鏡に映るのは、若干薄暗い室内だと言うのにサングラスをかけた女性の姿だった。

私は鏡が嫌いだ。鏡を覗いても、そこに人間が映っていないから。自身の髪や肌の色素が薄い事は構わない。日本人離れしてはいるが、人間離れはしていない。
けれど、忌々しいこの眼。右は鮮血を塗したかの様な赤色、左は本来ならば人間に発現しない筈の金色。夫は気にするなと言うが、それでも私は鏡を見る度、自分が常人ではないという事を宣告される様で心が痛む。だから私は、どんなに曇った日でもサングラスをかけて家を出る。

砂緒は左ポケットから取り出したハンカチで水滴を拭うと、職場へと戻った。
市立芹得野図書館。ここが、砂緒の職場だった。幸いにして館長や仕事仲間たちは砂緒のサングラス着用に対して何も言わない。砂緒はサングラスをかけて仕事をするという、傍目から見ればふざけているとしか見えないスタンスを貫きながら、誰にも文句を言わせないだけの仕事をこなしていたからである。
刹那、尻ポケットに入れていた携帯が、バイブレーションで着信する。砂緒はそれを無造作に掴み出すと、相手と二言三言会話し、またそれを尻ポケットにしまった。
「…(無言)」
砂緒は周囲をちらりと見回し、誰も自分に注意を払っていない事を確認すると、右ポケットから黒い革のライダーズグローブを取り出し、それを手早く両手にはめた。サングラス越しにではあるが、彼女の鋭い視線が更に鋭利さを増す。それは容易に、抜き身の刃を彷彿とさせる。猛禽類じみた鋭利な瞳は、一欠片の迷いすら見せない。
彼女は誰にも気付かれない様に、図書館裏口の職員用出入り口に向かう。
彼女が取り出したキーを挿すのは、ハーレーダヴィッドソン。女性が扱うにしては大型過ぎるモンスターマシンだ。その排気量は1000ccを優に凌駕し、まさしくそれは暴れ馬。
だが、彼女はそれに跨ると、エンジンを始動させた。低く重いイグゾーストノイズが響き渡り、腹に響く振動が生まれる。彼女はヘルメットも被らず、その鋼鉄の馬を駆った。

景色が高速で後方に掻き消えてゆく。砂緒が乗ったハーレーは、法定制限と寸分違わぬ速度で街を駆け抜けた。直角カーブが多い街中を走りながら、その速度が落ちる事は無い。神懸かり的なドライビングテクニックが、その在り得ない動きを可能としていた。
目指す先には、自分の母親代わりの女性。埋葬機関十二幹部連第七席。ジョセフィーン・ホワイト。天秤宮の二つ名を持つ、白いドレスの戦乙女。背信者と渾名され、機関内でも疎まれながら、それでも第七席を保ち続ける実力者。
あらゆる魔に怯まず、それを利用する時は骨の髄まで利用し尽くし、しかしそれを滅ぼす時は慈悲すら無く魂の一片までも打ち砕く。それがジョセフィーン=ホワイトであり、彼女が人間の側にいると証明し続ける事でもあった。
そも、背信者という渾名は『教会の異端審問組織』である埋葬機関がつけた渾名では無い。そもそも埋葬機関は魔を滅ぼす力を持つならば信仰や道徳など二の次である。背信者であろうと、無関係な組織だ。ジョセフィーンが背信者と呼ばれる所以となった背信とは、埋葬機関でありながら魔と付き合う事ではなく…魔でありながら埋葬機関に属する事だった。
ジョセフィーン=ホワイト。魔の中でその名を呼ぶモノは、まず居ない。
魔は、彼女をこう呼ぶ事が多い。『背信者』と。『罪深き古い蛇』と。『敵意の天使』と。十九祖第十九位“背信者”。それが、ジョセフィーンであった。

そして砂緒自身、完全な人間ではなかった。半人半魔。幽鬼目精霊科精霊属・エルフと人間とのハーフ。その証が体中の薄い色素であり、その真紅と黄金の眼であった。魔と人間の混血。本来ならば、埋葬機関に始末されていてもおかしくは無い。だが、幸か不幸か、彼女はジョセフィーンに拾われた事によって済し崩し的に機関に所属する事となり、埋葬機関十二幹部連の第四席に名を連ねている。だが、彼女は自分が機関内でも最弱の部類に入ると理解していた。彼女の能力は、奇襲性と隠密性、そして応用力に富んだ能力であるが故、まだ機関に捨てられないでいる。だが逆接的に見れば、役に立たないと判断されれば即捨てられるとも言える。
そう、だからこそ。自分が機関の役に立つ存在であると、常にアピールしなければならない。それ以上に、自分を育ててくれたジョセフィーンの役に立ちたい。砂緒の行動原理は、いたって簡潔にして明解。その人生は、全て。“正義の味方”である事に終始していた。

ゴムタイヤがアスファルトを擦り、悲鳴を上げる。道路に獣の噛み傷にも似た黒い軌跡を残し、砂緒はジョセフィーンの元に馳せ参じた。
「大丈夫、ジョセフィーン!」
砂緒は壁に鮮血の跡を残したジョセフィーンを視界に納めると、冷静沈着な彼女にしては珍しく、大声をあげた。ジョセフィーンは壁にもたれたまま、軽く片手を上げて見せた。
「大丈夫よ、私を誰だと?砂緒と違って生粋の魔よ、この程度の傷、少し魔力を調節すればどうって事…」
その魔力が尽きてるんだけどね、とジョセフィーンは微笑んだ。
「いやぁ、ちょっとヴァリアントと殺り合ってね…痛み分けで終わった。今まで連中と戦った事は無かったけれど、なかなか強いわね、あれ」
砂緒はそんな事を嘯くジョセフィーンの腹に手を当てると、その溢れた鮮血にギョッとした表情で手を離した。見て分かっていた事とは言え、親の腹が抉れた様子など、到底理解したくない事実だった。
「ジョセフィーン、少し待って。今、エーテルを精製するから…!」
砂緒はそう言い、目を瞑ると血の滴る両手を軽く広げ、掌を上に向けた。彼女の周囲のエーテルがざわめき、可視域にまで圧縮される。砂緒は目を瞑ったまま両手をジョセフィーンに向けると、囁くような声で歌い始めた。
「静まり返った夜の村…見張り番が十一時を告げる刻…森の中では小さき妖精が眠りに就く…見張り番はふと、己を呼ぶ声を聴く…小夜鳴き鳥の鳴き声の様な…あるいはジルペリットの様な…」
己の内から力を引き出す為の、一種儀式じみた詠唱が始まる。
それは、酒木砂緒の持つ超越能力。空間第五架空要素支配能力…通称、『エリフィンリート(妖精の歌)』。半径20メートル内のエーテルを完全に支配下におき、そこから用途に合わせて擬似妖精を精製する。今回彼女が精製したのは、『回復』に特化した擬似妖精であった。

「…っと、有り難うね砂緒。もう大丈夫、ここまで回復すれば後は自分で修復できる」
ジョセフィーンはそう言って砂緒の擬似精霊を遮ると、自らの傷口に指を這わせた。さすがに痛みが走るのだろう、若干眉を顰める。
「魔術系統選択…術式選択…修復術式、“Hilanipla”」
砂緒の擬似精霊によって粗方塞がっていた傷跡が、ジョセフィーンの指先から迸ったどす黒い煌きと共に、傷跡特有の肉の盛り上がりすら無く治癒されていく。服が破れてさえいなければ、傷を受けていたとは信じられないほどだ。
「砂緒、貧血だけは治せないから…砂緒の家まで連れて帰ってくれると嬉しいな、なんて」
悪戯がばれた少女の様に、ちろり、と舌を出すジョセフィーン。砂緒は安心しきった苦笑を漏らし、ジョセフィーンに肩を貸した。バイクのリアシートに座らせると、砂緒はフロントシートに跨った。やはりヘルメットは被らず、挿しっ放しにしていたキーを捻る。ジョセフィーンが自分にしっかり捕まっている事を確認すると、妖精が駆る鋼鉄の馬は嘶き、街を疾走し始めた。
「さぁて、と…」
ぺろり、と蜘蛛は濡れた様な紅の唇を舐める。バイクで遠ざかる砂緒達を廃ビルの屋上から眺めつつ細い指を鳴らし、その鋭い爪で己の頬を撫でた。
「これで“背信者”は最低でも数日間は活動出来ない。その娘もその付き添いで、動けないでしょう…その間に、あたしは全ての準備を済ませられるかしら…」
いや、済ませねばならない。蜘蛛は己に言い聞かせると、風に靡く己の黒髪を鬱陶しそうに掻き揚げた。その燃える紅の瞳は朝比奈市の全景を見渡し…そして、高い空を見上げた。彼女はノスタルジアに駆られていた。その想いは地上を通り越し、今は遥かなツァトグアの洞窟へと向かう。知らず、彼女は呟いていた。
「ふんぐるい、むぐるうなふ…」

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