第24話:未知―X―

其れは純潔。其れは醜悪。
結ばれるまま、溶け合うままに、享受と拒絶を産み落とす。
其れは光。染め抜き揺るがし惑わし、貫き通す熾烈と憎悪。
其れは闇。染まらず揺るがず迷わず、穿ち通す不変と慈愛。
眠りをゆるりと蝕み、夜明けとともに夢は消える。
其れは、幼き日の御伽噺。
愛は苦く我を苛む。憎しみは甘く我を蝕む。
そして、出来損ないの夢が堕胎された…

後楽茶名。彼女はいつも通り、朝の通学路を学校へと向かっていた。しかし、彼女は何か違和感を持っていた。いつもなら数人は居る筈の通行人が、今日に限って誰一人居ないのである。念の為に腕時計や携帯電話の時刻表示を確認してみるが、問題なく作動している。つまり、今日が間違い無く平日であり、かつ自分が寝坊等した為でない事は確認できた。ならば、何故?もうすぐ校門が見えるという場所まで来ても、誰にも会わない。そんな異常、起こり得る筈が無い。
「あらぁ、案外貴女も頭が固いのねぇ、後楽さん。貴女はもう少し、異常にも順応できる方かと思ったのだけどもぉ…」
後ろから掛けられたのは、聞き覚えの無い声での粘着質な冷笑。聞いただけで悪寒の走る声など、そう在るものでは無い。茶名は恐る恐る、しかし、やっと他人に出会えたという安堵も感じつつ振り向いた。
「ど、どちら様でしょうか…」
「あたしの名前を聞いたわねぇ?あたしの名前を聞くのねぇ?いいでしょう、答えるわ答えるとも答えるべきよ。でもぉ、その結果SAN値が−10に落ちても知らないわよぉ?」
哄笑を始める、黒服の女性。手袋や靴まで黒一色で統一されているその手足は非常に細長く、何処となく節足動物を連想させる。彼女は顔を片手で覆い、その指の隙間から燃える様に紅い瞳をちらつかせた。
狂人としか思えない台詞と態度。しかし、茶名は唯一つの単語にだけは聞き覚えがあった。
SAN値。テーブルトークRPG『クトゥルーの呼び声』にてプレイヤーの正気の度合いを示す用語である。そのSAN値がマイナス10に落ちると、そのキャラクターは救いがたい狂気に陥り、最早助かる見込みは無い。
「けど、名乗る前に少し確認させて頂戴?貴女の名は後楽茶名。年齢、18。両親はアメリカの大学に客員研究員として出張中。それなのに、貴女が日本に居る理由…確か、むこうで苛められたから、だったかしらねぇ?」
その通りだ。だから、茶名はずっと一人で遊んでいた。たった一人で、誰も居ない机を囲んでテーブルトークRPGを。その中では、誰も後楽茶名を苛めなかったから。後楽茶名が、世界の全てを支配できたから。
「な…何故、そんな事を仰るんですの…」
「あは。それはねぇ、後楽さん。あたしがぁ…」
黒服の女性は、己が名を名乗った。それを聞いた茶名の顔から血の気が引き、膝が笑い始める。わなわなと唇を震わせ、くずおれそうになりながらも、茶名は言の葉を紡いだ。
「そんな事、在り得ません…!貴女が、貴女が…アトラク=ナクアだなんて!」
「信じてくれないのね…なら、良いわ…そうね、これを教えたら理解出来るかしら。何故この街に人が居ないのか、を。それは唯一つのとてもシンプルな答えよ、後楽さん。貴方は今、あたしの世界に居るのだから」
がらりと口調を変えた蜘蛛はそう言うと、優雅に一礼した。その姿は美しく、しかしどこか空々しい。その態度は、客をもてなす主人の物では無い。
「我が侵食固有結界“暗黒水晶庭園”へようこそ、後楽さん。さあいらっしゃいな、別に取って喰いやしないわよ?」
掌を上に向けて手招きする蜘蛛。それがアメリカでよく見せられた、獲物を待ち構える嗜虐者の瞳と同質だと茶名は理解していた。虚言と欺瞞に満ちた、己を屠る快楽を予見して歓喜するものだと。だから、茶名は逃げ出した。

逃げた先に助けなど在る筈も無いと、脳のどこかが冷静に分析する。けれど、茶名は幼子の様に泣きじゃくりながら走り続けた。どこまで走っても、そこに見えるのは無人の街並み。体中が悲鳴を上げ、もう一歩も進めないと絶叫する。しかし、茶名は折れてしまいそうな己の心を叱咤しながら、いつまでも走り続けた。
「どなたか…どなたか、いらっしゃいませんか…」
枯れた声を喉から搾り出しながら、頬を伝う涙を拭いながら。挫けそうになりながらも、一歩を踏み出す。その一歩は、次の一歩の為。次の次の一歩の為。次の次の次の一歩の為。
「巽さん…雨宮さん…水流さん…米口さん…」
友人の名を呟きながら走り続け、倒れてもすぐ立ち上がる。

「あは。後楽さんったら、本当にいじらしいほど頭が固いんだから…結界の維持も魔力を喰うし、あたしだって悠長に構えていられる訳でも無いんだから…」
蜘蛛は目を閉じ、糸を張り巡らすが如く、己の世界に感覚を広げた。ひたすら逃げ続ける茶名を、蜘蛛の網は容易に絡め取る。茶名を結界に取り込んでから、今で約5分。周囲のマナの量にもよるが、侵食固有結界“暗黒水晶庭園”を維持できるのは数時間から一晩が限度だ。余裕はあるが、欲を言うならば後一時間以内には茶名を捕らえておきたい。
固有結界。それは、一つの到達点。魔法に最も近く、それ故に魔法に一歩届かぬ奇跡。古来より精霊や魔の領域を指す大魔術。在り得てはいけない筈の大禁忌。その術式によって紡がれる秩序の修正は、己が世界図を『内』より『外』へと反転させる。
つまり、ここは。世界に在って世界では無い、蜘蛛の支配する異界という事だ。

蜘蛛は茶名の元を目指して走る。だが彼女は視界に白い影が映った瞬間、その足を止めた。スピードに乗っていた蜘蛛は急には止まれず、靴の底がアスファルトを擦って耳障りな音を立てる。
「まったく…これだから、時間をかけるのは嫌だったのに…しかし、さすがね背信者。招待もしていないのに、他人の固有結界に入り込むなんて」
自嘲気味にぼやく蜘蛛。その前に対峙するのは、純白のドレスを着た女だった。彼女は蜘蛛の軽口に応じず、蜘蛛に己の要件を告げた。
「ねぇ、蜘蛛。悪いけど、私も埋葬機関の幹部だから、貴女が好き勝手やるのを見過ごす訳にはいかないの」
蜘蛛を止める。ジョセフィーンはそう言うが、グラスムーン戦で負った傷はまだ癒えていない様だ。その額には脂汗が浮かび、息は荒い。立っているだけで辛いのか、壁に背を預けてさえいる。だが、その瞳には少しの怯えも見えない。蜘蛛が身構え、己と戦うつもりである事を確認してから、ジョセフィーンは詠唱を始めた。
「魔術系統選択…術式選択…術式魔砲、“Dig Me No Grave”!」
マナがジョセフィーンの掌に集中し、無骨な漆黒の砲身を編み上げる。その形状は大砲と言うよりはむしろ、柩を彷彿とさせた。だがしかし、それは死者を悼む為の葬具では無い。死者を創る為の武具だった。
「ディグミーノーグレイブ…我、埋葬にあたわず、か。なら、こっちもそれ相応の物で相手をするべきね。正直、貴女の相手はしたくないのだけれど…」
蜘蛛はにやりと口元を歪ませる。そして、彼女は術式魔剣を編み上げた。
「カテゴリセレクト…タイプセレクト。術式魔剣、“Hunting Horror”」
黒地の細い片手剣。そこには毒々しい黄色で象眼が刻まれ、あたかも女郎蜘蛛の脚を切り取ったかの様だった。蜘蛛はそれを右手に握ると軽く数回左右に振り、剣の重さを手に馴染ませた。
「準備は良いわね、蜘蛛。手加減はしてあげられないから、よろしく」
「あら背信者、ご挨拶ね。手加減、してあげようか?」
互いに軽い挑発。それは戦闘意思の確認であり、そして友情の確認でもあった。歪んだ親交、けれどそれは二人にとっては何物にも変えがたい最良の関係。
何をするにも全力で。親しむ時も、殺し合う時も。
「…ファイア!」
ジョセフィーンは叫び、蜘蛛に照準を合わせる。調子はとても万全とは言えないが、それでも砲身から射出された魔力は蜘蛛にダメージを与えるには十分だ。ただし、それが命中していれば、の話ではあるが。

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