第25話:産出―Yield―

魔砲から射出された光の渦は数十の光弾となり、蜘蛛を囲みその身を灼かんとする。だがそれは蜘蛛の足先を軽く掠めるに終わり、蜘蛛は壁を蹴ってジョセフィーンに向かった。縦横無尽にあらゆる物体を足場とするその様は正に、網を張る蜘蛛を髣髴とさせた。
「くっ…!」
辛うじて斬撃を躱すジョセフィーンだが、砲と剣では圧倒的に手数で劣る。けれど、どんな空間も足場として利用する蜘蛛に剣で勝負を挑んでも、勝ち目は薄い。ならば手数では若干不利でも、当てさえすれば確実に大ダメージを期待できるこの魔砲が最適な選択だ。
「にしても諦めが悪いわね、蜘蛛。こっちに来てもう何年?いい加減、帰る事は諦めたら?」
戦闘に、相手を叩きのめす必要は無い。敵の戦意を殺ぎ、剣を収めさせるだけでもそれは終戦。力では勝てない相手も、策略を弄すれば勝てる可能性も増える。その様な戦い方は本来、今対峙している蜘蛛の得意とする領分なのだが。
「ああ、悪いけどそれは無理ね。あたし、ティンダロスの猟犬よりしつこいから。どんな手を使ってでも、いつかは帰って見せるわよ?」
蜘蛛は少しだけ寂しげな顔で笑い、鋭い斬撃を放つ。ジョセフィーンはそれを砲身で受け止めながら、確信した。彼女は最早、帰る事を半ば以上諦めている、と。
蜘蛛。アトラク=ナクア。
彼女は元々、この世界の存在では無い。大いなる古き者と呼ばれる、異世界からの来訪者の一員だ。それらの者達は遥かな以前にこの世界を支配し、今では外なる神々、旧支配者と呼ばれている。ならば、何故それは旧支配者なのか。それは至極簡単な理論。今は支配者の位置に居ないからだ。
旧支配者に蹂躙され尽くしたこの世界が生み出した最後の砦、旧神。それとの死闘により、一体、また一体と旧支配者、大いなる古き者は元の世界へと撤退していった。そして、逃げ帰った旧支配者達はこの世界への扉を閉ざした。そして、幾度もの戦いを越えて傷付いた旧神も悠久の微睡みに落ちた。この世界にはまだ、逃げ遅れた旧支配者が居たのに。
そして、逃げ遅れた者の一体がこの蜘蛛、アトラク=ナクアである。
「蜘蛛。この世界に、何の不満が?貴女はこの世界でも十分やっていけている。むしろ、向こうより此方に近しい存在になっているんじゃないの?」
一瞬の逡巡。そこに生まれるのは、度し難い隙。ジョセフィーンは己の行いが卑怯な物であると知りつつも、それを躊躇わなかった。彼女は背信者。埋葬機関に所属しながら十九祖の末席にその名を連ねる、矛盾。その矛盾を力ずくで突き進む為に、彼女は力を手に入れた。誰にも文句を言わせない様に。誰にも邪魔をされない様に。
ならば、この身はどうなろうと知った事では無い。手足が砕けようと、精神が滅ぼうと。
ああ、認めよう。私は偽善者だ。だが、一生涯その偽善を貫き通せば、それは中途半端な善行に勝る。そう信じ、ジョセフィーンは魔砲を撃った。
「…ファイア!」
蜘蛛の腹に、圧縮された魔力が着弾。それはいとも簡単に骨を砕き、肉を毟った。腹から背に光が抜け、抉られた肉片は一瞬で蒸発する。吹き飛ばされる蜘蛛。その描く軌跡は、毒々しい鮮血が彩っている。その腹には綺麗に風穴が開き、上と下が繋がっている事さえ奇跡の域だった。
「が…はっ…」
ごぼ、と口から血の塊を吐き出す蜘蛛。刀身を維持する魔力が供給出来ないのか、その手に握る魔剣は儚く霧散した。
「さすがに…直撃は効くわね…」
苦しげな息の中、蜘蛛は這い蹲った姿勢のまま己が傷を両手で押さえて言葉を紡ぐ。本来なら、それは確実に致命の傷だ。ジョセフィーンは己が勝利を確信しても良い筈だ。だが、彼女は違和感を持っていた。蜘蛛は、この程度で死ぬ存在ではなかった筈だ。
「…すごく…負け惜しみっぽいし…三流のカートゥーンみたいで…好きじゃ、ないけど…気取っても、いられないわね…ほらあたし…ティンダロスの猟犬より、しつこいから」
蜘蛛はそう言い、体を丸める。刹那、理由も無くジョセフィーンは己の死を直感した。
自己の直感を信じ、前方に魔力を放出、ブースター代わりにして緊急離脱。先程まで自分が居た位置には、黒い蜘蛛の足が突き刺さっている。
「存外堪え性の無い奴ね…真逆、原型を見せてくれるなんて」
そこに居たのは、人間大の蜘蛛だった。禍々しい黄色で彩られた漆黒の体躯。細く長い脚の先には鋭い爪が備えられ、頭胸部に当たる位置には人間と似た顔がある。その顔は狡猾そうな紅い目を輝かせていた。
「ホラー映画並の迫力よ、蜘蛛。でも、確かに三流ね、それ。ピンチになって真の姿に変身するなんて、最近のカートゥーンでは流行らないわよ?」
平静を振舞おうとするジョセフィーンだが、言葉の端々からは隠し切れない焦りが見える。予想外だった。ある程度のダメージを与えれば、蜘蛛は退くと思っていた。だが、その考えは甘かった。蜘蛛は、狙った獲物を逃がすような真似はしないのだから。
もとよりジョセフィーンは本調子では無い。今だって、次の瞬間に傷口が開いてもおかしくない。それでも、彼女は己の偽善を貫こうと思った。だからここまで来て、蜘蛛を止めようと思ったのだが…それが慢心だったと、ジョセフィーンは気付かされた。
蜘蛛を止めようと思うのなら、最早殺す以外に選択肢は無い。だが、今のジョセフィーンが蜘蛛を殺す事は不可能に近い。ならば、ここで取り得る最善の手は撤退だ。蜘蛛にはここで自分を殺すメリットは無い。なら、この蜘蛛の性格を鑑みるに、逃げても追って来る事は無いだろう。だが、それではこの蜘蛛の巣に絡め取られてしまった獲物はどうなる?
『三流のカートゥーンで結構よ、背信者。今ここで目撃者を消せば良い事だし』
蜘蛛は甲高い声で嗤う。だが、その言葉は冗談であるらしい。蜘蛛は続け、言った。
『退くのは悪い選択じゃ無いわよ。少なくとも、今殺し合うよりは。ああ、あの娘の事なら心配しないで。喰ったりしないし、傷付けもしないと約束する。さあ、どうする?』
今度はジョセフィーンが逡巡する番だった。蜘蛛は確かに姦計に長ける策士だ。虚言、陥穽、それらを司るが故の“蜘蛛”だ。だが、ジョセフィーンは知っている。彼女が自ら言い出した約束は、決して破られる事が無いと。
そして、ジョセフィーンは結論を出した。決定的な己の敗北を悟りながら。
「…蜘蛛。その言葉、信じるわよ?」
『信じる、信じない。それは貴女の自由よ、背信者。無論、あたしは約束を破りはしないけど。あ、砂緒ちゃんだっけ?娘さんにも、この事は伝えておいてね』
ジョセフィーンは下唇を噛み締め、しばし迷う様に立ってはいたが…彼女はやがて、この異界から立ち去った。

『さて、と…』
蜘蛛は独り言ち、再び人の姿に変化した。腹に開いた風穴はそのままで、印象的な黒いスーツも襤褸切れと化している。だが、彼女は満足げな笑みを浮かべた。これで埋葬機関にこのプランを邪魔される事は無くなった。背信者はあの性格上、他の十二幹部連に援護を求める事は無く、約束を破らなければ、これ以上手出しする事も無い。
「さて…まずはこの傷を癒す所から始めたいけどぉ…」
だが、何時までも固有結界を維持していては魔力が枯渇する。それならば、傷の回復と後楽茶名の確保では、優先すべきは後者となる。蜘蛛は千切れそうな己の体を無理やり立たせると、壁で身体を支えながら歩き始めた。一足進む毎に体は不自然に傾ぐ。背信者を見縊っていた訳では無いが、予想以上の損傷だ。死に到る事はまず無いだろうが、後楽茶名を確保した後は数日休む必要があるだろう。
「その数日がぁ…命取りなんだけどねぇ…」
中世の頃なら、妖精に拐かされる事件などいくらでもあった。行方不明はことごとく妖精の仕業として処理され、大事にはならなかった。だが、ここは中世では無い。人間が一人居なくなっただけでも家族や周囲の者が騒ぎ、警察等が動き出す。蜘蛛の前では警察など物の数では無いが、羽虫も数が多ければ鬱陶しい。それに、事を荒立てては背信者とその娘以外の十二幹部連が嗅ぎ付ける恐れもある。蜘蛛にとっては勝てないまでも負ける事は無い連中だが、相手にするには厄介だ。特に、天蝎宮や双子宮は手に余る。
「けど仕方ない、後楽さんを確保した後はやっぱり休まないとねぇ…」
呟き、蜘蛛は己の体を引き摺る様に移動する。効率は非常に悪いが、歩きながら傷の修復。骨がじわじわと枝を伸ばす様な成長を開始し、肉と脂肪は盛り上がって触手状に蠕動しながら傷を埋めていく。滴る血は肉の触手に絡め取られ、傷跡へと戻される。
「さぁて、と…ここからが正念場よ、アトラク=ナクア…」
己を鼓舞する言葉を紡ぎ、蜘蛛は後楽茶名を目指す。
その歩みは弱々しいけれど、それでも彼女は前へ進んでいった。

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