第26話:微風―Zephyr―

「…と、ここよねぇ、やっぱり」
手負いの獣が追跡者を撒く事に成功したならば、する事は一つ。巣など、安心できる場所に帰ってその傷を癒す。ならば、後楽茶名の巣が彼女の家以外には在り得ない以上、そこへ向かえば労せずして彼女を見つけられる。
しかし、我が固有結界ながら“暗黒水晶庭園”は扱い辛い。取り込んだ者の記憶から風景をテクスチャーとして貼り付け、結界の存在を隠蔽する能力は使い勝手が良い。だが、本物の『世界』に偽者の『世界』を被せている為に、結界内での移動は結界解除時にも有効となる。他の連中の固有結界、例えば“鮮血雪原”や“迷宮図書館”なら異界の果てが存在し、一定以上は移動出来ない様に出来るのだが…
しかし、その様な事を嘆いていても仕方が無い。修復を続ける己の体を引き摺りながら、蜘蛛は茶名の家へと入って行った。

「こんにちはぁ、後楽さん」
「ひっ…!」
怯えた顔で竦みあがる茶名。震える肩を両腕で抱き、蜘蛛から少しでも離れようと後ずさる。だが、蜘蛛は茶名の居る部屋の入り口を開けただけで、そこから一歩たりとも中に入っては来なかった。
茶名の部屋を見渡す蜘蛛。衣装棚や姿見、無骨なスチールラックや無個性な本棚が鎮座した、若干狭いながらも小奇麗な部屋だったが、蜘蛛はその部屋を見て、得心した。後楽茶名が何故、ここまでも出来すぎた、作り物めいた存在であるのかを。
理由は簡潔にして明確。彼女は作り物めいているのではなく、本当に作り物なのだから。
スチールラックに載ったコンポの横に積まれたCD等は、見るだけで気が滅入る。とりあえず話題になった作品を買い揃えただけで、茶名自身の拘りや傾向という物が見受けられない。それは本棚に並んだ本も一緒だ。参考書や辞書等の誰でも持っていそうな物を除けば、漫画も小説も数種類並んでいる。だが、そのタイトルも何処かで聞いた事がある程度にメジャーな物ばかりだ。高校生向けのファッション誌だけは毎号同じ物を買い揃えている様だが、それもその雑誌が好きだからでは無いだろう。一度買い始めたから、惰性で買い続けているだけに違い無い。何処にでも居る女子高校生の部屋であり、それ故に何処にだって居ない、そんな平均的な女子高校生の部屋だ。
蜘蛛は理解した。後楽茶名は、他人に嫌われたくないという感情の占めるウェイトが不自然な程に大きい。他人に嫌われない様、話題に乗り遅れない為の情報を広く求めた結果出来上がったのが、この主張を持たない空虚な部屋だ。個性が殺されたその閉鎖世界は、後楽茶名という人物を端的に表す。
ミス朝比奈西ではあっても、彼女は本来目立つ事を嫌う人間だ。何の因果かその様な物に選ばれてしまい、注目を浴びる事になった。その結果として周囲に知り合いが増え、彼女は更に情報を集めようと必死になる。後楽茶名は完璧な麗人には程遠い。彼女は単なる壊れた弱者、臆病で不出来な人形だ。
蜘蛛はそんな茶名に同情した。自分の周りに存在する全てを恐れて生きなければならない、その生き様に。だから、蜘蛛は気を変えた。彼女を利用するつもりだったが、それは中止だ。彼女を救ってやりたい。それが、蜘蛛の起こした…たった一つの、気紛れだった。
そうなっては、蜘蛛の狡猾さが役に立つ瞬間が到来する。方針を決めたら、行動は迅速に。彼女は策を廻らせるという点において、右に出る者は居ないのだから。
「悪いわねぇ、こんなボロボロの服でお邪魔してぇ。でもぉ、これでもさっきまでは一張羅だったのよ?」
茶名の力になると決めた蜘蛛は、陰鬱な気分を吹き飛ばす様に明るく言う。しかし茶名が怯えたままである事を見て取ると、腰を落として優しい笑みを浮かべた。そして、ゆっくりと話を始める。
「ねぇ、後楽さん。貴女は今、あたしに恐怖を抱いているのよねぇ?」
茶名は震えながらも、その首を縦に動かした。蜘蛛は獣じみた力を持ってはいるが、人間並み、もしくは人間以上の知性を持っている。生物として圧倒的に、蜘蛛は茶名自身よりも上等の存在だと本能が悟っていた。彼女は捕食者であり、自分はその前では餌に過ぎない事も。避けられ得ぬ死ならば、僅かでも惨めに足掻いてその瞬間を遠ざけたい。
それが、後楽茶名の正義だった。
「なるほど、自分が恐怖している事は理解はしているのねぇ。でも、恐怖という感情、それが一体如何なる経緯で発現するか知ってるかなぁ?」
茶名は怯えてはいるが、彼女の話に熱心に耳を傾けていた。茶名の中では、蜘蛛に対する恐怖よりも、何故蜘蛛が自分に接触してきたのかを知りたがる好奇心が勝っていた。
「恐怖というものはねぇ、要は興味と同じ事。対象に関心があるのにぃ、それに対する情報が少なすぎる事から生じる不安の一種なのよ」
「不安…?」
茶名は蜘蛛の言葉を繰り返した。蜘蛛は優しい笑みを微塵も崩す事無く、そんな茶名を見つめている。その様は、不出来な子を優しく見守る母の姿にも似ていた。
「後楽さん、貴女は少し勘違いしているみたいね。無論、あたしの言葉を信じる根拠なんて無いけれど…少し、話を聞いてね?」
そうして蜘蛛は話し始めた。何時の間にかその声からは粘着質な調子が抜けている。以前感じた理由の無い悪寒は影を顰め、その声には穏やかで知的な響きが宿っていた。
「後楽さん。貴方のお知り合いに、ナインって娘が居るわよね?」
茶名は黒髪銀眼の小柄な少女を脳裏に思い描く。いつの日にも彼の隣に居る少女を、いつの日にか醜い嫉妬を覚え始めたあの少女を。誰にも嫌われたくないと、誰も嫌いたくないと、そう思い続けてきたこの自分に皹を入れた、あの少女を。
けれど、その少女はこの旧支配者と何の関係があるのだろうか?
そんな茶名の疑問とは裏腹に、蜘蛛は微風にも似て涼やかな声で囁く。
「あたしはあのナイン達に用が有るの。けれど、あたしにも出来る事と出来ない事があって、誰かの協力が必要。だからね、後楽さん。もしも貴女が望むのならば、あたし、アトラク=ナクアは貴女に力を貸すわ。けれど、あたしの力を欲するならば…あたしに、貴女の力を貸してくれない?」
茶名は、蜘蛛の顔を初めて注視した。
黒檀にも似た艶やかな漆黒の長髪。鬼灯の様に紅く燃える切れ長で知的な双眸。狡猾そうな表情を湛えてはいるものの、その顔は紛れも無く、美しいと言われるべき部類だった。
蜘蛛は茶名の目を見据え、穏やかな口調で話し始めた。
「後楽さん。あたしは貴女の苦しみを理解出来るなんて言うほど若くないし、まして、その苦しみを解消させる事なんて不可能よ。けれどね、後楽さん。あたしは、貴女を助けようとする事は出来る。手を差し伸べる事しか出来ないけれど…けれど、貴女があたしを望むなら絶対にこの手を差し伸べると、確実にそう約束出来る」
茶名にとって、その言葉は余りにも甘い誘惑だった。
蜘蛛は、生まれて初めて本当の自分を理解してくれた。嘘偽りに塗れた仮面を、蜘蛛はそっと優しく剥がそうとしている。その仮面は、人間の社会を生きる為には必要不可欠な物。それは、人を傷付けない為の偽善と己を守る為の虚構で塗り固められた、人間として生きる為に培われる唯一つの防具。それがどれほど大事な仮面かは理解している。けれど、心の底では何時だってその仮面を捨てたがっていた事も事実。茶名は、深く苦悩した。
やっと見つけた、ただ一人の理解者。自分が苦しんでいると、そう見抜いてくれた存在。けれど、それは人間ではなかった。それは、人間の敵だった。しかし、そんな事さえ些細な事だと思える程に、自分を理解してくれる存在がいた事が嬉しかった。
「後楽さん、これは貴女の一生を運命付ける大事な選択よ。苦しんだまま人類に味方して、貴女の悪を貫くか。楽になる為に化け物に成って、貴女の正義を全うするか。悩みなさい、考えなさい、あなたが己の回答に満足する、その瞬間まで。けれどね、後楽さん。残念ながら、貴女とあたしに与えられた時間は、余りにも短い。出来るなら、今日中に答えを出してくれないかしら?」
茶名は黙り、蜘蛛から視線を外す。肩を抱いていた両腕を解いて膝を抱え、部屋の隅の陰に潜るかの様に体を縮めた。そんな茶名を蜘蛛は憐れむ様な瞳で見つめ、机に置かれたメモに何かを書き付け、茶名の部屋を後にした。その間、蜘蛛は終始黙ったままだった。

夕暮れが茶名の世界を彩る。紅く照らされた彼女は顔を上げると、カーテンで深紅の街並みを遮る。泣き腫らした目を擦った彼女のその瞳には、最早一欠片の迷いも無い。自分の携帯電話を握り締めると、彼女はメモに指示された場所へと向かう。
こうして後楽茶名は、人類を裏切った。

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