第27話:安寧―Peace―

「今日は先輩居らへんな。どないしたんやろ?」
水流が呟き、掌を目の上に当てて庇を作りながら学食内部を見渡す。俺もその後ろから見てみるが、先輩の指定席化している隅の席にもその姿は無い。今日は休みなのだろうか?仕方なく、俺らは先輩が着たらすぐ分かる様に学食入り口付近の席に陣取った。ナインに席を取っていてくれる様頼み、俺は食券を買いに行く。水流や祐二、後楽先輩と一緒に昼を学食で食うようになってから、硝子さんはあまり弁当を作らなくなった。もしかしたら、友達と一緒に学食で食う様に気を利かせてくれているのかも知れない。感謝。
「ところでナイン、今日は何食う?」
「そうだな…いや、やはりメニューを見ても分からん。京司と同じ物で良い」
ナインは恥じらう様子もなく、そんな言葉を口にした。ぞくりと下がる、周囲からの視線の温度。俺は恐怖した。視線という物は、敵意を込めて放つだけでこれほどの怖気を感じさせられる物なのかと。今券売機に並んだら俺、殺されるんじゃないのか?
「…京司、何をぼんやりしている。早く並ばないと券売機が混むぞ?」
誰の所為だと叫びたいのだが、そこはジェントルに我慢だ。俺は券売機に向かい、320円のコロッケカレーの食券を買った。辛い物が苦手なナインにも、彼女の言葉通りに同じ物を買ってやろうかとも思うのだが、それはさすがに意地悪が過ぎるか。俺は優しい男だ、ここは350円の豚キムチ丼にしておいてやろう。

辛い辛いと文句を言いながらも、ゆっくり豚キムチ丼を食べるナイン。だが、彼女の食事が終わっても後楽先輩は姿を現さなかった。昨日はあんなに元気だったんだし、病気という事は考えられない。昨日祐二の家から帰る途中に事故にでもあったのだろうか?心配になった俺はナインを連れ、後楽先輩のクラスである三年A組の教室へ向かう。
「すいません、ちょっと」
教室で雑談していた穏やかそうな男子生徒の一人に声を掛ける。彼は友人との話を中断すると、俺に向き直った。
「何か用?でも、君、名前何だったっけ…」
彼は俺の名前を思い出そうとしているのか、眉根を寄せる。しかし、残念ながら彼と俺は初対面。どう足掻こうが、巽京司の名が出る道理は無い。これ以上彼に無為な思考を続けさせるのも忍びないので、俺は彼に率直に要件を告げた。
「いえ、貴方に用って訳では無いんです。俺、二年の巽って言うんですけど…後楽先輩、今日は休みなんですか?休みなら、理由は何なのか教えて頂けませんか?」
「そこ、窓際の一番後ろが後楽の席なんだけど…鞄は無いな」
彼は周りの友人に、先輩が欠席しているか否かを尋ねた。だが、友人達の答えは不明瞭。誰一人として、先輩が登校しているのかどうかを知らなかった。
そこで、失礼とは承知ながら、勝手に先輩の机を見させて貰う。だが、筆箱は勿論、教科書やノートの一冊も入っていない。忘れ物なのか、一冊の古びた文庫本が入っているだけだ。やはり、今日は欠席か。
だが、少し気になる事があった。例えば祐二や水流が休んだりしたら、俺はすぐその事に気付く。友人って、そんな物だ。けれど、後楽先輩が休んでいる事をクラスの人達は知らなかった。それは逆説的に、先輩に友人が居ない事を物語っているのでは無いだろうか?
そんな事を考えている俺の横、ナインは先輩の文庫本をじっと黙って眺めていた。

「連絡事項ですが…最近この界隈で、通り魔事件が多発している様です。皆さん、くれぐれも帰り道には気を付けて下さい。クラブ活動の短縮等はありませんが、なるべく日が落ち切るまでに帰宅する様に。では、本日のホームルームは以上です。解散」
手元のメモ用紙を見ながら連絡事項を無感動に読み上げ、太宰先生はそのまま素早く教室を後にする。冷静沈着と言うか、必要以上の言葉を口にしない人だ。
「なぁ、今日の勉強会やねんけど」
斜め後ろの席から、水流は鞄に教科書を入れながら話し掛ける。俺は重くて分厚い日本史の資料集を何とか鞄に詰め込もうと必死になりながら、彼女の話に耳を傾けた。
「昨日、倫に巽君とか呼んで良いか訊いてんよ。そしたら良いって言うてくれたさかい、今日はうちの家で勉強会せえへん?」
俺は何処が勉強会の会場だろうと異存は無い。ナインを見てみるが、彼女も同意見の様だ。残るは祐二の意見のみだが、メイドさん露見の可能性は少しでも少ない方が良い。彼も二つ返事で了承した。水流と祐二の二人ともがイルサイブと契約している事を知っているのは俺とナインだけな訳だが、これは後々折を見て話す事にしよう。ちょっとややこしい事になりそうだし。
「ほな、決まりやな。ちょっと遠いし、少し急ごか」
そうして俺達は水流の案内の元、彼女の家へと向かったのだった。

水流の家はこぢんまりとした二階建ての一軒家だった。確かに学校からは若干遠いので、水流が毎朝太宰先生とバイク登校するのも頷ける。
水流は鞄のポケットから鍵を取り出し、玄関を開ける。住んでいる水流と太宰先生の気質を反映してか、あまり飾り気は無い清潔な内装だった。
紳士用の靴と夫人用の靴、少年向けのスニーカー、小さな女の子向けの靴。恐らく、水流の喪われた家族の靴だ。それらが各一足ずつ、下駄箱の隅で分厚く埃を被っている様が寂しかった。
「ほな、うちの部屋で少し待っといて。すぐにお茶とお菓子用意するから。漫画とか、読みたかったら好きに読んどいてええから」
水流は言い、俺達を二階の一室に通した。適度に古びた勉強机と無骨な機能性重視の本棚。小さな衣装箪笥、壁には風景画のポスターが張ってある。どちらかと言えば殺風景だが、クリーム色の壁紙と薄桃色のカーテンの所為か、どこと無く温かみを感じさせる部屋に仕上がっている。
「さて、では水流に言われた事だし…漫画でも読むか」
昨日の勉強会には居た先輩が居ない。ただそれだけの事だが、何となく気が沈んで勉強する気が起きなかった。俺は言い訳がましく呟き、水流の本棚を物色する。意外に少女漫画や少女向け文庫が多く、並んでいるのは『学園ルイス』『野菜鍋』『ルイージ様が見てる』など。そして、俺と祐二も買っている少年漫画も数冊。ファッション誌など女の子らしい雑誌もあるが、それは数冊だけ。見ただけで『水流柳』という快活でさっぱりした、けれど心優しい飾らない女性の姿が浮かんでくる本棚だった。
俺はその中から一冊の漫画を取り出し、表紙を捲りながら問い掛ける。
「なぁ祐二、この『学園ルイス』ってどういう漫画だったっけ?名前は聞いた事あるんだけど、内容は知らないんだよな」
「俺に少女漫画を聞くなよ。俺もそれ、名前位は聞き覚えあるけど、内容までは…」
そんな事を言いつつ、俺は適当にまた一冊抜き出す。と、そこに水流が紅茶とお菓子の載ったお盆を携えて戻ってきた。
「何や巽君、早速うちの部屋の物色かいな。言うとくけど、うちも女やからね。巽君の所と違って、ベッドの下とか調べてもえっちぃ本は出て来おへんで?」
からからと陽気に笑う水流。だが、ここまで馬鹿にされてベッドの下を調べなくては男が廃る。こんな俺にだって、僅かにプライドも存在するのです。そこで俺は床に座るふりをしつつ、高速で屈んでベッドの下を確認。何かちらりと見えた本の様な物を、それが何か確認もせずに引き出す。
一年生の時に使った教科書の表紙に、マジックで大きく文字が書いてあった。

「ハズレ」
思わず声に出して読み上げてしまう。
精一杯恨めしげな視線を作りつつ水流を見ると、彼女は腹を抱えて転がり回りながら笑っていた。翻ったスカートの間からちらりと薄い青色が顔を出した気もするが、そこについては黙っておく。
俺は決して見ていない。水流のぱんつなんか、絶対に見ていない。
「やった、成功や!昨日の晩から仕込んどいた甲斐あったわ。巽君、見事に引っかかるんやもん」
ぐっ、と親指を立てウインクする水流。祐二もにやにやとチェシャ猫じみた笑みを見せ、ナインだけが何の事やら分からず、きょとんとしながら俺の持つ古い教科書を眺めていた。
俺は大きく、わざとらしい溜息をつく。
陰鬱な気分が、少しだけ晴れた気がした。

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