第28話:殷賑―Activity―

水流の他愛無い悪戯教科書をベッドの下に戻し、俺は今学校で使っている教科書を広げる。昨日は数学をやったし、今日は倫理にしよう。

教科書と資料集の重要単語の上に真っ赤なマーカーを引く。ハイデガー、不安、現存在、ダーザイン。どんどんと教科書が汚されていく。ナインも俺の真似をしてか、真新しい教科書を所々赤く彩りながらページを捲っていた。
一時間ほど経って、水流邸の玄関がガチャリと音を立てた。階段を昇る音が聞こえ、しばらくして水流の部屋の扉が開いた。
「柳、只今帰りました。今日の夕食などは私が用意しておきますから、雨宮さん達と一緒に勉強を頑張っていて下さい」
太宰先生が開いた扉の隙間から顔を覗かせ、小さく一礼。水流は先生にありがとう、と屈託無い笑みを向ける。短いやり取りだが、それだけで二人の中の良さが分かる一幕だった。
元気で直情径行な水流と、知的で落ち着いた太宰先生。正反対とも言える性格の二人。だが、この上なく息の合った二人。この二人だからこそ、ヴァリアント:シミュラクラムとして人を襲う魔から朝比奈の町を守る為に戦い、そして、今まで生き残ってこられたのだろう。言葉にすれば簡単だが、それはどれだけ大変な事だったのだろうか。物理的な話ではない。精神的な話だ。例え太宰先生ことダーザインと契約してヴァリアントの力を得たとしても、戦っているのは俺と同い年の少女だ。済し崩し的に戦いに身を投じた俺と違い、水流は自ら戦うと決めた。悲しい運命に泣く事を由とせず、決して挫けなかった。そんな彼女は、途轍もない強さを持っていた。
そして、太宰先生との間にある確かな信頼。俺とナインは勿論の事、祐二とゲシュタルトだってそれなりには仲が良い様に見える。アルカナの様なモノヴァリアントの例を除けば、寄生主とイルサイブは一心同体。二人で一緒に戦う同志なのだから、仲が良いのは当然だ。
けれど、水流と太宰先生の間柄は俺達のそれとはレベルが違う。俺とナインの関係は、あくまでも打算の上に構築された関係だ。俺はナインから離れては潰えてしまう自分の命を守る為。ナインは俺との結合によってエクリプスとなり、己を襲う魔から身を守る為。
俺だってナインに情も湧いてはいるが、根底に在るのは冷たい相互利用の関係だ。水流と太宰先生の様な、温かな感情が介在する余地は無い。俺とナインの関係は、水流と太宰先生のそれに比べて余りに惰弱だ。相性の問題だってあるのだろうが、それでも俺は、水流達の関係が少し羨ましかった。
「京司、どうした。調子でも悪いのか?」
思い悩んでいた事が表情にも出ていたのだろうか。ナインが視線を上げ、その銀色の瞳で俺を見た。その瞳には欠片の温もりも見えず、ともすれば睨みつけている様にも見える。
俺は少し、彼女を試したくなった。俺とナインの関係は、単純な相互利用から進展しているのだろうか。俺はナインを家族だと思っているし、進展したつもりでいる。だが、ナインはどう思っているのだろうか。ただ、それだけが知りたかった。その結果、俺が傷付く事になろうとも。
「ナイン…何故、俺の体調を心配する?」
俺はナインにだけ聞こえる様、小声で質問する。
この質問に『エクリプスとして戦う為に必要だから』と答えたなら。その時は、俺も覚悟を決めなければならない。ナインはヒトの形をしているだけの、ヒトとは違う存在だという事実を受け入れる覚悟を。収められていても、刃は刃なのだ。刃は触れる全てを切り裂く為だけに存在する。その事を肝に銘じ、彼女と付き合わなければならなくなる。
そしてナインは小さく息を漏らし、呆れた様に目を細める。だが、ナインの答え如何によってはこの表情も演技としか思えなくなる。彫像の笑みは、どれほど優しそうでも彫像の笑みだ。そこに感情が、真摯な思いが無ければ…そんな物は、嘘だ。俺は唾を飲み込み、ナインの言葉を待った。
「あの雨の日、お前は私を家族と認めた。ならば、私にとってもお前は家族だ。家族の体調を心配するのに、特別な理由が必要なのか?」
ナインも小声で、だが確固たる声で応じた。瞳はその温度を保ったままだが、その言葉は嘘では無い。その瞳の冷たさが表す物は、冷徹ではなく冷静だった。
俺は、事実を受け入れた。ナインは、刃だ。刃が刃である事は、どうやったって変える事の出来ない事実。だが、それでも刃は刃だ。振るう意志、それが在って初めて、刃は鞘から解き放たれて獲物を屠る。そう、ナインは飽くまでも刃に過ぎない。誰彼構わず傷付ける、獣の牙では無いのだ。
「いや…愚問だった、忘れてくれ。俺、トイレ行って来る」
不意に微笑んだ俺を訝しむ様子も無く、ナインは小さく頷き、視線を戻す。そして何事も無かったかの様に、再びマーカーで教科書を彩り始めた。

ナインの返答が気恥ずかしくて水流の部屋を逃げ出したのは良いが、トイレの場所が分からない。戻って聞けば良いのだが、それは何だか間抜けな気がしたので却下だ。
「どうしようか、勝手に扉という扉を全て開けて調べる訳にもいかないし…」
そう俺が呟いた刹那の事。背後の扉が開く音がした。
「おや、巽君。どうしました、何かお困りでしょうか?」
いきなり声を掛けられ、思わず飛び上がり振り向く。だが俺は、再度飛び上がらざるを得なかった。つい先程水流のぱんつを見てしまった俺にとっては、ダブルショックと言う他に無い。先生は、下着姿だったのである。
黒いレースのショーツ、それと同じデザインのブラジャー。だが、不思議といやらしいとは思わない。それは先生が下着さえもスーツの様に着こなしているからだろうか。
「せ、先生!?あの、その、えっと…」
不可抗力だとは言え、下着姿を見てしまったのだ。何か言わなければ、弁解しなければ、そう脳は判断するのだが、言葉が喉で詰まって口から出て来ない。しかも、先生はそんな俺の焦燥を理解する様子も無く、その紅の瞳を向けたまま再度問い掛けた。
「はい、何でしょうか巽君。何か私に変な物でも付いていますか?」
逆だ!
付いてないと言うか、着てない。しかし先生はやっぱりそんな俺の思い等意に介する様子も無く、そのすらりと伸びた長い脚と流れる様な銀髪を見せ付けるかの様に背筋を正して俺の顔を覗き込む。さも、変なのは巽京司であって太宰倫ではない、とでも言いた気に。
俺は気合と根性で息を整え、跳ね回る心臓を胆力で押さえ込む。三回掌に人と書いて飲み込んで意を決し、俺は先生へ質問をぶつけた。
「先生、トイレは何処でしょうか。それと、先生はいつも家では下着姿なのでしょうか」
先生は銀縁の眼鏡を指先で上げると、表情を崩さずに回答を始めた。何故か、授業中の雰囲気を思い出す。しかし先生が下着姿なのに、この授業に禁断とか秘密とかそういう系統の匂いが微塵も感じられないのは何故だろうか。
「質問には一つずつ答えましょう。まず、トイレの位置から。トイレはそちらの廊下を真っ直ぐ進んだ突き当たりです。青いドアノブカバーが目印ですので、お間違い無い様」
手で廊下を指し示す。その奥には確かに、青いドアノブカバーの扉があった。
「さて、次の質問ですね。私が常々家では下着姿で居るのかとの事ですが、肯定です」
先生はそこで言葉を一旦区切り、小さく息を吸い込むと一瞬目を閉じた。そしてその目が開かれた瞬間に先生が口にしたのは、それがあの冷静な太宰先生の言葉だとは俄かには信じ難い言葉だった。
「そもそも生物は生まれた時には皆、裸なのです。その裸に規制を布く事は存在の否定と同義。服を着る事を免罪符に存在を許される等という現代のシステムは、根本から間違っていると言わざるを得ません」
拳を固め、大演説。太宰先生の気合の入り様は、授業中のそれを遥かに凌駕していた。よもや、こんな場所で本物のヌーディストに出会えるとは思わなかった。
しかし、これでも倫理の教師が出来るのだから、現代のシステムが根本から間違っているという意見にだけは賛成だ。
「しかし、公序良俗に反すると柳に怒られましてね。同居を始めた当初、何度も話し合いました。ですが、私とて妄りに社会の風紀を乱す事は好みません。外ではきちんと服を着ますし、家では下着で妥協しているのです」
余り感情を露わにしない先生にしては珍しく、小さな溜息と苦笑。俺は愛想笑いを漏らしながら、廊下を進んでトイレへ向かう。
俺は少しばかり、気が楽になっていた。ナインも話して分からない奴ではないと知り、太宰先生と水流だって衝突を繰り返して今の関係を築いたと知った。
そう、俺にだって、希望はあるんだ。

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