第29話:運命―Fate―

京司とナインが学校に行き、硝子も仕事へ出た後。
アルカナは一人、雨宮家の居間で座って買い置きの生温い缶ジュースを飲んでいた。だが、特に喉が乾いていると言うわけではない。では何故そんな事をしているのかと言えば、理由は単純だ。学校や仕事がある他の家族と違い、すべき事が無いアルカナは単純に手持ち無沙汰だったのである。
「…暇、ですね」
誰も居ない部屋の中、ポツリと呟く。そう口に出した事によって己の退屈を再確認し、寂寥感が助長された気がする。目の前に置かれたテレビにはゲーム機が接続されたままになっているが、しかし、京司が居ないと操作方法がよく分からない。テレビの使い方は硝子に教わって習得したが、他はまだまだ分からない事の方が多かった。
だが、以前の寄生主との生活と比べればここは極上だ。前の寄生主はアルカナを戦いの道具として見るだけで、同居人としては見てくれていなかったという事を、この家に来てから思い知った。硝子も京司も、そしてナインも、自分を気遣ってくれる。必要が無いので辞退したが、硝子はアルカナも学校へ通っても良いと言ってくれさえした。
ここは、とても優しい。だから、出来る事ならば何をしてでもこの環境を守りたい。アルカナはそんな思いに胸を焦がしながら、ぼんやりと時を過ごしていた。

京司の部屋から持ち出した数冊の漫画も読み終え、アルカナは今日の昼食を電子レンジで温めていた。硝子が居れば何か適当に作るなり外食するなりしてくれるのだが、彼女が仕事の日は買い置きの冷凍食品や朝食の残りがアルカナの昼食である。本日のメニューはコンビニ等でも売っているミートスパゲッティ。添え付けのプラスティックのフォークを器用に操りながら、アルカナは脂ぎった安っぽいスパゲッティを咀嚼する。
彼女もイルサイブである以上、倒した魔の魔力だけでも活動出来る。だが、アルカナは京司と約した。必要以上に魔と戦う事はしない、と。だから、彼女は少しずつでも人間と同じ生活に慣れていかねばならない。硝子が居ない場合には一人でとる食事もその一環。だが、アルカナは己の胸に去来する僅かな感情が何であるのか、何一つ理解出来ずにいた。
一人が、嫌だ。この家に厄介になるまではずっと一人で居た筈なのに、今は隣に誰も居ない、ただそれだけの事が怖く、哀しい。誰でも良いから、何も言わなくて良いから、ただ横に座っていて欲しい。
誰かと共に歩む、そんな穏やかな幻想。今まで知らずにいた、知ろうともしなかった、けれど知ってしまったら、もう後戻りは出来ない優しい世界。
私は、弱くなってしまったのだろうか?
心が、痛い。痛い…?違う、これは痛さじゃない。
ぽたり、と何かが滴る音がした。頬を伝う、温かな雫。それは、アルカナが生まれて初めて流した涙だった。震える指先で頬をなぞり、彼女は再度呟いた。
「これは…涙?私は、泣いているのですか?」
止め処無く頬を濡らしながら、アルカナは動揺していた。何故、自分は泣いているのか。その余りに単純な理由は、既に明確に分かっていた。だが、認められなかった。認めたくなかった。イルサイブである自分が、こんな感情を覚える事になるなんて。
人はこの涙を、『寂しい』と呼ぶのだ。アルカナは『寂しさ』を学習した、ただそれだけの、どうしようも無い事実。イルサイブとして自己の生存を優先するべき生には、絶対に在ってはならない感情。だがそれは最早手の施し様も無い程に深く、アルカナの魂に根を下ろしていた。だが、それを改めて自覚した今、アルカナは一種諦観じみた奇妙な感情を覚えた。
変わってしまった事は認めよう、一人で生きる強さを喪った事も認めよう。
けれど、後悔は無い。寂しさを知ったおかげで手に入れた、様々な優しさ。それだけで、アルカナは十分だった。
一人では生きられない、人間という存在は、単一の生物種としては魔に敵うべくも無い程に弱い。人間は群れなければ、道具を使わなければ、魔はおろか大概の獣にすら勝てない。
けれど本当は、一人だけでも生きていける存在の方が弱いのだ。誰かを信じられる、誰かに信じてもらえる。それは、力の強さでは無い。心の強さだ。
力が強くなければ、生き残る事等出来はしない。心がどれだけ強くても、生きる術にはなりはしない。けれど、心が強くなければ…どんな力を使って生き延びたとしても、そこには僅かな意味さえ無い。
信じる事。それが今やっと気付いた、京司によって与えられ、アルカナが手に入れていた新しい強さだった。
そんな自分の思考を自嘲気味に見るアルカナは、机の上に置かれた京司の漫画を手に取った。だがその自嘲は己の思考にではなく、今まで気付けなかった己に向けられた物だ。
人を信じられる強さ。それは現代人の感覚では“青臭い”と言われる類の思考である事は理解している。だが、京司ならば。自分を殺さなかったばかりでなく、救いの手さえ差し伸べた彼ならば、自分の気持ちも理解してくれる気がした。
確かに、彼が自分を殺さなかった原因の多くは自責からの逃避だろう。人間じみた魔であるアルカナを殺す事で生まれるであろう罪の意識を未然に回避する為の、臆病な行為。砂糖菓子の如く甘い、子供の倫理だ。
けれど、彼は自分を信じるとも言った。そう言ったあの瞬間の京司の瞳を、アルカナは生涯忘れないだろう。あの溢れんばかりの決意を秘めた、揺ぎ無い真っ直ぐな眼を。
巽京司は弱いけれど強い。彼は心身共に未熟だが、躊躇い、悩み、怯えながらも、その歩みを止める事が無い。己が進むその道の是非も知らず、けれど巽京司自身の確固たる意志で前に進む。
漫然と流され生きるのではなく、自分が正しいと信じる道を選び取ろうとする鋼の意志。アルカナに『生きる』という大事な事を教えてくれた、優しい言葉。
ただそれを自分に向けてくれただけの事が、例え様も無く嬉しかった。ならば、これがその反動としての寂しさならば、甘んじて受け入れよう。

信じ信じられる事の甘さも、寂しさと言う苦さも、そのどちらもが、イルサイブの少女にとっては掛け替えの無い、大事な大事な魔法だった。

「ただいま…」
硝子は夕食や明日の朝食の材料が詰まったスーパーの買い物袋を提げて帰宅した。
玄関先に京司とナインの靴は無い。奴らは今日も友人…水流と米口と言ったか、との勉強会だったか。
どうやら京司は友人達が共にヴァリアントであるという事に気付いているらしいが、友人同士はどうだろうか。そろそろあれも動き始める頃、早く準備を済ませないと手遅れになる。
京司は理解出来ているのだろうか。自分が最早引き返せない領域にまで足を踏み入れているという事に。恐らく、気付いてもいないだろう。雨宮硝子がグラスムーンである事実は元より、現在朝比奈市を跋扈する魔の数が通常では考えられない量にまで膨れ上がっている事実さえも。
無論、予定され尽くした殺戮の時間が近付いている事など知る由も無いだろう。
十数年前に味わった悲劇、それを再び繰り返さない為に、そして京司にもその悲劇が降りかからない様にする為ならば、その邪魔をする者は誰であれ戦わざるを得ないだろう。
だが、悪い想像ばかり逞しくしても埒が明かない。硝子は思考を切り替え、心配事を意識外に追放した。
とりあえずブラウスの一番上のボタンを外しながら靴を脱ぎ、居間の戸を開ける。だが、そこに在るべき光は見当たらず、ほの暗い闇だけが広がっていた。
「何だ、アルカナは居ないのか?」
小さく呟きながら手探りで電灯のスイッチに手を伸ばす。一瞬フィラメントが瞬いた後、雨宮家の居間に柔らかな光が満ちた。
「…」
硝子は不覚にも、小さな笑みを漏らす。
居間のソファーにその小さな身体を預けて眠るあどけない少女の寝顔が在ったからだ。その手には京司の物らしき漫画本が握られている。
「はは、案外魔と関わるのも、悪い事ばかりでも無いな。京司がナインと出会わなければ、こんなに可愛い妹達を手に入れる事も無かったのだから…」
少女の金髪を撫で付けながら漏らされたその笑みは、氷の戦士のそれにしては余りにも温かな物だった。

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