第30話:演繹―Deduction―

「本当に、後悔は無いのね?」
彼女が指定したのは、朝比奈市の南部に位置する海浜公園だった。流留家島を臨む名勝ではあるが、元より交通の便もあまり良くはない。夕暮れともなれば尚更、人影は疎らだった。
何処で調達したのか、蜘蛛は先ほど会った時のボロボロの衣装ではなく、上下共に真っ黒なパンツスーツを着ていた。首元では緩く締められた赤のネクタイが揺れている。
「後楽さん、もう一度聞くわ。貴女があたし、アトラク=ナクアの力を欲するならば、あたしは力を貸す事に吝かではない。けれど、その逆もまた然り。貴女は、あたしに力を貸さねばならない。そしてその結果、貴女はお友達を失う事になる。それでも、後楽さん。貴女はあたしを必要とするの?」
蜘蛛の瞳は紅く燃え、黒檀の髪は風に靡く。けれど、その顔には脅える様な、戸惑う様な、不思議な表情が張り付いていた。
「はい。私には、後楽茶名には、貴女の力が必要です。どうか、私に力を貸して下さいまし」
私は震える膝を無理矢理に押さえつけ、地面を強く踏み締める。激しく鼓動を刻む心臓の上、お気に入りの白い服をぎゅっと握った。
「いえ、言い直します。力を、貸して下さい」
不自然な程に丁寧さを演出していた自身の口調を、仮面が厚くなる以前の口調へと回帰させる。蜘蛛は私の仮面を外してくれようとする。ならば、自らも外す努力をするべきだ。
蜘蛛は小さく首を傾げると、くすりと小さく微笑んだ。
「可笑しな事ね、後楽さん。話を持ちかけたあたしよりも、持ちかけられた貴女の方が覚悟を決めているなんてね。けれど、貴女の覚悟は分かった。今度は、あたしが応じる番ね」
蜘蛛はそっと近寄ると、私の背中にその細く長い腕を回す。そして、優しく強く抱き締めた。彼女は私よりも背が高く、胸に顔を埋める形となった。少ないとは言え人が居る前で抱き締められた事が恥ずかしく、私は彼女から離れようと身体に力を込めた。けれどその瞬間、彼女は更に私を強く包み、耳元で囁いた。
「アトラク=ナクアはここに誓う。開闢はこの瞬間。終焉は無く永久に。あたしは後楽茶名の剣となり、楯となり、仇成す全てから貴女を護る」
その言葉には、確認以上の意味は無いのだろう。けれど、私は彼女の胸から顔を離す事が出来なかった。生まれてこの方、誰にも貰えなかった、心からの優しい言葉。溢れる涙を抑える事など、出来る筈が無かった。

冷たいシャワーで真っ赤に泣き腫らした目を冷やす。シャワールームを出た私に、蜘蛛は椅子に座って黒い表紙の本を読みながら尋ねた。
「…落ち着いた?」
蜘蛛の前で泣いた事が恥ずかしくて、俯いたまま頷く。ここは蜘蛛がこの町での拠点にしているというホテル。長期滞在客向けの部屋なのか、小さいながらもキッチンさえ備え付けられた立派な部屋だ。
蜘蛛は本を閉じて机の上に置くと、私の横を通ってキッチンへ向かう。その途中、振り返って尋ねた。
「後楽さん、牛乳は大丈夫?お腹痛くなるとか、無い?後、お酒は飲める?」
一瞬何を言っているのか分からなかった。だがおそらく、字義通りの質問なのだろう。
「ええ、大丈夫です。牛乳に限らず、アレルギー等はありません。アルコールもある程度は大丈夫ですが…」
「そう、良かった。じゃあ、適当に寛いでいて。テレビとか、好きに見て良いから」
そう言った蜘蛛は冷蔵庫から牛乳を取り出すとコンロの上に置きっぱなしにしていた鍋に注ぐ。私には姉は居ないが、もし居たらこのような存在だったのだろうか。強く、優しく、そして暖かい。彼女は人間でないが、瑣末な事だ。意志の疎通が可能ならば、人間も魔も存在に大差は無い。逆に、心が通わないならば人間であってもそれは彫像と変わらない。
どれだけ優しい言葉でも、そこに魂が無ければ意味は無い。

「はい、お待たせ」
蜘蛛がキッチンから戻り、目の前に白い無地のマグカップを置く。その中には温められた牛乳がなみなみと注がれ、湯気を立てていた。だが、牛乳のそれとはまた違う甘い匂いが漂っていた。
「ホットミルク、ですか?」
尋ねた私に、蜘蛛は無邪気な笑顔を見せた。
「似たような物だけど、ちょっと違うわ。厳密にはホット・バタード・ラム・カウ。ラム酒と角砂糖、バターを温めた牛乳で割った物。後楽さんは未成年だから牛乳を多めにしておいたけれど、これでも立派なカクテルよ」
蜘蛛は自分のマグカップを傾けながら答える。
私も彼女に習い、両手でマグカップを包むとホット・バタード・ラム・カウとやらを喉に流し込んだ。口当たりは柔らかいが、やはりカクテルはカクテル。体の芯に蝋燭を灯したかの様に、体が温まっていく。
「今日は疲れたでしょう。身体を温めたら、ゆっくりとお休みなさいな」
蜘蛛は一つきりのベッドを指差す。貴女は、と眼で問い掛けると、彼女はソファーを指差した。
「そんな!私がソファーで寝ます!」
抗議の声をあげるも、蜘蛛は客人をソファーで寝かせる事など出来ないと言い張り、頑として譲らなかった。不毛な争いは続いたが、やがて蜘蛛は妥協した。
「分かった、じゃあ二人でベッドに寝ましょう。幸い、ここのベッドはダブルベッドには及ばないけれど、大き目の物。女二人なら、それほど窮屈でもないでしょうし」

二人並んで横になり、灯りを消す。薄闇の中、蜘蛛は天井を見つめたまま呟いた。
「後楽さん。あたしは旧支配者、大いなる古き者、ぐれーとおーるどわんずと呼ばれる怪異。それは、知っているわね?」
頷く。かつて何度も遊んだテーブルトークRPGでも慣れ親しんだ話だ。違う所は唯一つ、当時は『物語』の設定だと思っていた事も、現在では『現実』の事実であると知ってしまった事だけだ。しかし何故、そんな告白を今更始めるのだろう?
「かつて、あたし達はこの世界を好き勝手に蹂躙した。けれど。この世界はあたし達を討ち滅ぼす為に最後の砦を築いた。それが旧神。そして旧神に敗れた旧支配者は、元の世界へ逃げ帰る羽目に陥った。あたしは旧神からは運良く逃れたものの、元の世界に帰る扉は先に逃げた連中によって閉ざされ、こちらの世界に生きる事を余儀なくされた」
蜘蛛は、その瞳にノスタルジアを秘めて自嘲気味に微笑んだ。
「“風に乗りて歩む者”イタクァ。“海中火山”ガタノソア。“塵の中を歩む者”クァチル・ウタクス。“名状し難き者”ハスター。“ルルイエの主”クトゥルー。“迷路の神”アイホート。そしてあたし、“深淵の蜘蛛”アトラク=ナクア。他にも多くの旧支配者がこの世界に残されたわ。永久の微睡みの中に沈み、目覚めの時を待っている者も居る。地球から逃れ、他の星に行った者も居る。あたしの様にまだ元気で活動している奴も、稀に居る。けれど誰一人、元の世界には帰れなかった」
私は理解した。彼女もまた、私と同じく心休まる場所を持たないのだ、と。私は自分を偽って生きねばならない世界に、蜘蛛は彼女が居るべきではない世界に、たった一人で放り出されているのだ。
「今でも目を瞑れば、かつて極めた栄華を鮮明に思い出せる。けれど、それと同時に後悔も襲ってくるの。ああ、あたしはなんて馬鹿な事をしたのだろう、とね。何故この世界に来てしまったのだろう。何故この世界を蹂躙しようなどと思い立ってしまったのだろう。何故あの故郷を捨ててしまったのだろう」
蜘蛛がぽつりぽつりと漏らす後悔の呟きは、途方も無い自責の念に黒く染め上げられていた。そうして私は、これが告白ではなく懺悔なのだと気付いた。
彼女は旧支配者。人間の及ぶべくも無い強大な怪異。けれど、その心は遥かな故郷に恋焦がれる憐れな旅人のそれなのだ。果たせぬ帰郷を希い、寂しさを糧に帰り道を探し続ける。
「やがて、自らが変えようと思わなければ自分を取り巻く世界は何も変わらないと悟った。そうして、あたしは帰る方法を探し始めたわ。可能性がゼロで無いと判断できたならば、どんな事でもやった。問うべきは手段ではなく、結果こそがあたしの全てだったから」
蜘蛛の声に嗚咽が混じる。そんな彼女に対し、私は強く抱き締める事しか出来なかった。私はここに居る、ただそれだけを伝える為に。

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