第34話:寓話―Fable―

「…学校には、行かなくてもいいの?」
ソファーにもたれてページをめくりながら、戯れに問う。しかし、後楽さんは空虚な微笑みと共に首を横に振った。
「私はもう、人間の敵です。人間の敵になると、そう決めたんです。だから、巽さんや雨宮さんには会えません。彼の…彼らの顔を見てしまったら、この決心が鈍ってしまいそうで」
彼女には、話しておくべきなのだろうか。あたしの目的が門を開こうとする事だと。
否、それは彼女も既に知っている。今あたしが悩んでいるのは、その門を開く為に、イルサイブ・ナインを依り代として使う事を伝えておくかどうか、だ。
元々、あれらはその為に創り出した魔だ。
“ルルイエの主”クトゥルーのディープ・ワンズや“名状し難き者”ハスターのビヤーキー…そういった他の邪神の眷族どもには劣るが、それでもあたし、“深淵の蜘蛛”アトラク=ナクアの眷属だ。
我等旧支配者、ぐれーとおーるどわんずをも凌駕する、外なる神、あうたーごっど。
門にして鍵なる、外なる神。一にして全、全にして一なる神。よぐ・そとーす。
幾度も実験と失敗を繰り返して考察を重ね、研究に研究を重ねて門を開く為の鍵を探した。
だが結局、今までに繰り返した実験の中で可能性が残っているのはイルサイブを生贄とする計画だけだ。
数多く創り出して野に放ったイルサイブ達。その中でも最も完成されたイルサイブであるナインならば。ナインならば、恐らく。よぐ・そとーすを呼び出す生贄として機能する。
否、万一上手くいかなかったとしても何も問題は無い。イルサイブを使って門を開くという手段に失敗しようと、あたしは別の手段を探すだけなのだから。それでも駄目ならば更に別の。それさえ駄目でも、更に更に別の…

「ところで、それは何の本なんですか?」
彼女の質問に、背表紙を向ける。
それは、かつて我々の存在を想像力だけで捕らえた男の記した書物。驚くほど正確に、我々邪神の行動を把握した夢見人とその眷属の残した記述。本来ならば彼らが知りえる事など在り得ない筈の情報…禁断の書物、人類誕生以前の旧支配者、ぐれーとおーるどわんずの世界、悍ましき外なる神、あうたーごっどの存在…それらを余す事無く物語としてしたためた稀代の小説家達。
オーガスト=ダーレス。
クラーク=アシュトン=スミス。
ロバート=ブロック。
コリン=ウィルソン。
ブライアン=ラムレイ。
現在もクトゥルー神話群と呼ばれる物語はその産声を上げ続け、その作者もまた、数え上げればきりが無い。
だが、最も恐るべきはその始祖である、後に宇宙的恐怖と称される物語を科学的見地から描いた小説家だろう。
ハワード=フィリップス=ラヴクラフト。
ある意味では我等邪神や旧神の父君とさえも呼べる唯物論者。
「ラヴクラフト全集、ですか…何度も読み返しました」
「そう。あたしはたまに読む、程度だけれどね。昔棲んでいた世界が懐かしくなった時なんかに読み返すと、何故だか落ち着くの。あの世界の事を、断片的とは雖も思い出させてくれるからでしょうけれど、ね」
微笑むと、後楽さんはあたしの横に腰掛けた。けれど、その間には臆病な彼女の性根を如実に示す、微妙な距離が横たわっていた。
ヤマアラシのジレンマ、か。
後楽さんの悩みを全て解決出来る等と自惚れるつもりは無いが、あたしは彼女の安息の相手となりたい。それが叶わなくとも、せめて、彼女の話し相手になりたい。その為には、あたしと彼女が寄り添っても互いに傷付け合わない距離を見つけるべきだ。
あたしは少しだけ、彼女に気付かれない程度にさり気無く近寄った。

「蜘蛛。一つ、質問があります」
何分経っただろうか。やっとの思いで、彼女が言葉を搾り出す。あたしは無言で彼女の顔を見る。
ソファーに埋もれたまま、自分の爪先だけを見つめるその視線。重ね重ね思うが、彼女の表情は無論、一挙手一投足にさえその臆病さが滲み出ていた。
「あたしが答えられる範囲で、かつ、あたしがそれに答える気になれる質問ならば、何でもどうぞ」
栞を挟んで本を閉じ、机の上に置く。ソファーの背凭れに手を回した。
「蜘蛛。貴女は、巽さんを、雨宮さんを、どうする心算ですか?」
それは、とても難しい質問だ。
確実にあたしが答えられる範囲ではあり、また、それを答える事も吝かではない。しかし、その答えは後楽茶名にとって残酷すぎる。
けれど、しかし。
人類を裏切ると決めた彼女の決意に、あたしは報いなければならない。その結果、彼女が傷付く事になろうとも。
「巽君には、彼が何かをして来ない限りは何もしないわ。正当防衛はするけれど、過剰防衛はしない。これは約束するわ。けれど、ナインは別。ナインには、あたしが元の世界へ帰る為の依り代になってもらう。俗っぽい言い方をするなら、生贄ね」
後楽さんは息を呑む。しかし、私の言葉を責め立てはしなかった。
彼女は、残酷なまでに頭が良い。
自分の役目…自分が巽京司とイルサイブ・ナインを呼び出す為の餌として使われる事…に気付いたのだろう。そして、最早それを拒絶出来ない立場であるという事も。
「後楽さん。繰り返すけれど、あたしは巽君には何もしない。貴女の恋敵であるナインは排除する。貴女はあたしに誘拐され、巽君とナインはあたしが勝手に呼び出した。そう演じてくれれば良い」
後楽さんは震えながら、けれど小さく頷いた。
あたしは机に置いた本に手を伸ばし、栞を頼りにページを開く。あたしは今、彼女に嫌われただろう。彼女を助けると言って契約を持ちかけながら、彼女に最愛の人を裏切れと命じたのだから。築かれかけた信頼も、育ちかけた友情も、これで全て瓦礫の山だ。
例えあたしがどれだけ彼女に歩み寄ろうとした所で、彼女がそれを拒絶するのならば意味が無い。

「…蜘蛛。頼みが、あります」
…再び本を閉じる。後楽さんを見ると、彼女はこちらを鋭い目で見つめていた。
深い眼だ。
何か大切な決意を固めた者だけが持てる、深い眼だ。臆病な彼女には似つかわしくない、討つべき敵と戦うと、そう決めた者の眼だ。
「私が貴女に自分の意思でついて行ったと、巽さんと雨宮さんに伝えさせて下さい。蜘蛛だけを悪者にするなんて、そんな事は出来ません。先程も言った筈です。私は、人間の敵なのですから」
「…そう、分かった」
後楽茶名に対する評価を改めなければならない。
彼女は確かに臆病だ。けれど、弱くはない。人間の敵を自覚する者相手に使う言葉では無いかも知れないが、彼女は正しく正義の味方だ。
自分の弱さに負けないと決めた。ただそれだけの、単純で無価値な信念。それが、彼女が貫くと決めた正義なのだ。
だから、あたしは彼女に応えるべきだ。あたしは彼女の剣であり、楯なのだから。
「明日になったら、あたしの傷も癒えると思う。明日以降、好きな時に彼らにメールをして呼び出して頂戴。人目につかないに越した事は無いから、時間は深夜。待ち合わせの指定場所は、そうね…どこか、希望はある?」
問い掛けると、後楽さんはしばし眼を伏せて考えた。
「では、明後日…学校で、お願いします」

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