第35話:決意―Resolution―

硝子さんと巽京司は、互いに話をする必要も無かった。
水流を介して伝言を頼むような人だ、俺がわざわざ自分から話をする事も無い。俺はただ一言、硝子さんにありがとうと伝える、ただそれだけで事は済んだ。エクリプスの戦いに、グラスムーンが手を貸してくれる。ただそれだけを、深く感謝する。
それが、昨日の事。
朝から陰鬱だった曇り空から、ぽつぽつと雨音が聞こえ始めた夕暮れ。授業を終えて帰宅した俺のケータイに、先輩からメールが届いた。
内容は簡潔、明日の夜中に朝比奈西高校の屋上にナインと二人だけで来いという事だけ。
「…どうする心算だ、京司?」
ケータイを握りしめてベッドに座る俺に、ベッドに寝転がったナインが問いかけた。
「決まってるだろ。先輩が呼んでるんだし、俺はもう逃げないって決めたんだ」
「…それは本当に、後楽先輩からのメールなのか?」
どういう意味だ、なんて問い返す意味は無い。このメールを打ったのが本当に先輩なのかどうか確かめる術は無いのだから。けれど俺は何故か、これが本当に先輩からのメールだと確信していた。
「いや、実のところ、どっちだって構わないと思ってる。先輩からのメールなら、蜘蛛から先輩を助け出したい。罠だったとしたって、呼び出された以上は、少なくとも蜘蛛には会えるって事だ。そうすれば、せめて話し合い位は出来る筈だろう?」
「話し合いに応じてくれれば、だがな」
ナインが冷たく言い捨てる。いつだってクールな彼女らしい、事実だけを客観的に評価した物言い。けれど、焦った所で何が出来る訳でもない以上、俺に、俺達に出来る事は、ただ考える事だけ。それが無性に歯痒かった。
「応じるさ。応じさせてみせる」
せめて自分を騙す為に拳を握った俺の後ろで、ナインが起き上がる気配がした。
「…京司」
後ろから抱き締められる。俺の胸を這うナインの指は、あの雨の日に握りしめた時と同じ様にしなやかで、力強い美しさに満ちていた。
「何だよ、急に…っつーか、何故抱きつく?」
「…京司。私は、お前に嘘を吐いていた」
思わず振り向きかけるが、すんでの所で思いとどまる。ナインの腕が震えていた。意味も無く暗闇を恐れていた、十年前の俺と同じ様に。
「京司。私はお前が私から30メートル以上離れたら死ぬ、と言った。でも、あれは嘘だ。お前の魂は最初から不安定になってなんかいない」
ナインの声も震え始める。俺の前で初めて見せる、彼女の弱さ。
違う。今は違う。今はナインを慰める時じゃない。ナインの告白を、彼女が俺に伝えるべき事を、雨宮ナインが巽京司に伝えようとしている事を、ただ黙して聞く時だ。
「京司。嘘を吐いていた私を許して欲しい。そして、これは私の我儘だが、頼みがある」
ナインは息を飲む。少しだけ挟まれた沈黙が、彼女の葛藤を物語る。
―――――絶対に、死なないでくれ。
そんな呟きが聞こえて初めて、俺はナインの顔を見た。肩越しに見た彼女は目を伏せて、今にも泣きだしそうだった。
「お前が『正義の味方』を目指すのは構わない。その為に少々の危険が付きまとうのは仕方ない。けれど、私はお前に死んで欲しくないんだ。何故今更嘘を吐いていた事を謝ろうと思ったのかも、何故お前に死んで貰いたくないと願うのかも、何もかも理論的には説明出来ない。思考が整理出来ない。でも、分かって欲しい。私ではお前を納得させられる説明はできない、けれど、けれどっ…!」
一気に言葉を吐きだし、ナインは俺の背中に顔を埋めた。彼女が流した涙の所為だろうか。背中が少し、温かかった。

どれだけそうしていたのだろうか。
気付けば、掌でケータイが震えていた。表示されているのは見知らぬ番号。取るかどうか一瞬迷ったが、後楽先輩がケータイ以外から電話をかけてきた、と言う可能性も考えられる。俺は通話キーを押し、ケータイを耳にあてがった。
『…久しぶり、少年。少しだけ、話す時間はある?』
それが誰の声だったか、俺には一瞬分らなかった。だが、音が漏れていたのだろう。声の主に気付いたナインが、乱暴にケータイをもぎ取った。
「ジョセフィーン=ホワイト!貴様、どこでこの電話番号を知った!」
『うわっ!?いきなり大声出さないでよ、耳痛い…えーと、まず番号を知った方法から説明するわね。順序立てて話した方が分かりやすいし』
さっきまで泣いていたというのに、ナインは苛立ちを隠そうともせずにケータイに向かって怒鳴る。一応それ、俺のなんだけど。ケータイって、そんなに力一杯握っても大丈夫なのだろうか…?
しかしまあ、怒ってる割にちゃっかり通話音を大きくする操作をしている辺り、さすがナイン。妙な所で冷静だ。
『私の娘…と言うべきかな、に空間第五架空要素支配能力…簡単に言えば疑似妖精を使役する能力を使える子がいてね。その子に頼んで、京司君のケータイから個人情報をこう、ちょっと…ギりましたごめんなさい』
ホワイトさんがちろりと舌を出してばつが悪そうに微笑む姿が目に浮かぶ。
しかし埋葬機関ってのが世界規模の組織だとは聞いたが、もし俺が警察に通報すればこんなせせこましい犯罪でも揉み消すのだろうか。揉み消すんだろうなあ、やっぱり。
「まあ良い、電話番号を盗んだ方法は分かった。で、貴様達埋葬機関がわざわざこんな面倒な真似までして、伝えたかった要件とは何だ?」
『…話が早くて助かるわね。良い、よく聞いてね』
ホワイトさんは先ほどのふざけた雰囲気から一変し、真面目な声になった。
『朝比奈市周辺、朝比奈西高等学校を中心に半径約6キロメートル。急速に魔の反応が濃くなってるの。もともとこの街に住んでいる魔は多いし、最近その数は増加傾向にあった。けれど、それを考慮しても、余りにも多過ぎる』
「…埋葬機関の観測結果で構わない、総計どれだけだ?内訳も詳しく頼む」
ナインの声が重くなる。俺は小さく唾を飲んだ。
『…言ってるこっちが一番信じたくないんだけどね。総計、約一万。魑魅魍魎の類や人類に大した害を与えないレベルの低い魔、埋葬機関選定ランクでE−クラスが約八千。AクラスからC−クラスまでの魔は確認されず。Sクラスの魔が計三。ただし二体は埋葬機関の勢力。最後の一体が、奴。十九祖第十一位、“蜘蛛”アトラク=ナクアよ』
埋葬機関選定ランクって物の事は良く分からないが、Sクラスってのは多分一番強いクラスなんだろう。そのクラスの魔が二体いるのなら、何とか協力を仰いで蜘蛛から先輩を助ける手伝いをして貰えないだろうか。
確かに、先輩は俺の手で助けたい。けれど、そんな小さな矜持に拘って先輩を危険な目に晒す位なら…
『ただ、問題があるの。ああ、先に言っておくけど、好きなだけ恨んでくれて構わないし、呪ってくれたって構わない』
ホワイトさんは小さなため息を吐くと、自分を呪うように、声を絞り出した。
『埋葬機関は、本件において蜘蛛に対する攻撃を行えない。その他約一万の魔に対するアクションは起こすけれど、蜘蛛に対してだけは無理なの』
そう、か。
なら、俺は俺のやるべき事を成すだけだ。ホワイトさんを恨む気持ちなんて、微塵も無い。ホワイトさんがどうだって、俺は…蜘蛛から、先輩を救うと決めたんだ。
そんな俺の横顔を見て、ナインは微笑んで告げた。
「自惚れるなよ、埋葬機関十二幹部。私達は、お前達の手助けが無くたって何一つ困りはしない」
『そう。あいつに、戦いを挑むのね』
ナインが笑いながら俺にケータイを投げてよこす。俺はせめて正義の味方らしく、自信を持って答えた。
「いいえ、のみならず、勝つ気で行きます」
沈黙の後、ホワイトさんは小さな声で頑張ってね、とだけ告げて通話を終えた。

ここから始まる、俺達の戦い。まっすぐ進むと、俺はそう決めたんだ。

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