第36話:小雨―Drizzle―

「切実、貴公も親切な女郎だな。この戦乱がかの少年の極めて個人的な怨嗟からなる、そう己に語ったのは貴公だ。客観的に見て、そこまで肩入れする必要性は無いと考えるが?無論、蔓延る雑兵どもは掃討せねばなるまいが、その事を別としても、だ」
通話を終えたジョセフィーンに、ソファにその背を預けた騎士が皮肉交じりに凛とした声で問う。
騎士は漆黒の甲冑を身に纏い、その目庇の奥には触れれば斬れそうに鋭い眼光が潜む。全身を覆う古式ゆかしいプレートアーマーには、一切の装飾が施されていない。やや小柄なきらいはあるが、その姿は余りに無骨、されど同時に、余りに精悍。その存在その物が、研ぎ澄まされた一振りの剣の様でさえあった。
「確かに極めて個人的な問題よ。乱暴に言ってしまえば、取られた女を取り戻すってだけなんだから。けれどね、他ならぬ貴方だからこそ分かるでしょう?人間は、大義名分をかなぐり捨て、自分の信念の為だけに戦う時こそ一番強い、と」
そんな正義の味方、応援せずにはいられないじゃない?ジョセフィーンは視線で尋ねる。
「笑止。意志と意地でどうにかなるならば、己は剣など握らなかった」
吐き捨てる黒騎士。それを、純白の背信者は微笑を湛えて見つめる。二人の間には沈黙が横たわり、しばらく無言の時間が流れた。
「…まあ良いだろう。天秤宮、貴公がそこまで入れ込む男だ。所詮、己は剣にして楯。せめて少年が己の正義を貫く、その露払いを務めさせて貰うとしよう」
静寂に終止符を打つのは黒騎士。立ち上がった彼は首を鳴らし、右の拳を左の掌に打ち付ける。ガントレットが打ちつけられ、金属特有の硬質な音が響いた。
「己はもう往くぞ。切迫、悠長にしていられる時間は無いのだろう?」
ジョセフィーンは玄関まで黒騎士を見送る。そこには大型のバイクが停車していた。
砂緒が駆るハーレーダヴィッドソン・VRSCDXに比してやや流線形に近いデザイン。スズキGSX1300Rハヤブサ。生態系の頂点に君臨する猛禽の名を冠した、純粋に速度のみを追求した名機である。
「全く、用意周到ね。助かるわ、“黒騎士”」
ジョセフィーンの言葉に応じず、黒騎士はバイクに跨る。漆黒に彩られたその車体は、闇夜に潜む獣の如き存在感を持っていた。
「今宵、この街は戦場だ。無関係な民草が巻き込まれぬよう、街全体に人払いと安眠、その他考えうる限りの防性魔術を。無念、己には魔術の心得が無い」
キーを差し込み、眠っていた愛馬に魂を吹き込む。ジョセフィーンが頷いた事を視界の端で確認し、黒騎士は夜の朝比奈市へ駆り出した。

埋葬機関選定ランク、S。強靭な妄執だけを糧に存在する亡霊にして、諸般の事情から埋葬機関に手を貸す孤高の騎士。本名を決して明かさない為に、やがて彼の座がその呼び名となった。
十九祖第十二位“黒騎士”。
それが魔術や超能力を用いない白兵戦に限定すれば、魔にも埋葬機関にも右に出る者の無い、当代最強の刃の名である。

「―――壮観。雑兵とは言え、数だけは多い」
遙か前方に敵影を見据え、呟く黒騎士は車上で右腕を伸ばす。その掌から黒い靄が湧き出ると、それはやがて一本のランスへと姿を変えた。黒騎士の甲冑、そしてその騎馬と同じく漆黒に染まったそのランスは街灯の光に禍々しい光沢で応えた。
「僥倖、彼我速力差は歴然。機動力を生かしてランスによる中央突破で撹乱、その後で剣による各個撃破へ切り替える。己はどこを中心に戦えば良い?」
兜の下に装着したインカムに向けて言葉を発する。魔術に対して絶望的なほど才能が乏しい黒騎士は、魔力を探って敵の位置を知る事が出来ない。こうやって仲間と連絡を取る事しか戦況を広く把握する方法が無いのである。
『了解。黒騎士は北東、雪歌町を中心に竜ノ宮町から二十神町までの掃討を。南、海からの侵入はジョセフィーンが、西は私と秀人で食い止める。山越えのルートはマナ、エーテルその他の条件から見て、ほとんど北東に限定されるわ』
応じる砂緒の指示に従い、黒騎士は愛馬に鋼の咆哮を上げさせる。その轟音に気付いた魔が反応するが、時既に遅し。黒い疾風が、瞬きの間にその全てを蹴散らした。
「―――無聊。他愛も無い。否、民草が害を被らぬ事については喜ばしき事か…」
不満を零しつつも、騎士とその愛馬は縦横無尽に駆け巡った。
一閃の稲妻が如くに煌くランスは血飛沫でその矛先を濡らしつつ、その鋭さは幾許の衰えも見せない。一度突き出されたランスは、その矛先と定められた対象の生存を決して許さない。全身に様々な色の返り血を浴びながらも、その甲冑は夜に溶け込む漆黒の闇を映し続けていた。

「機宜」
闇はますます深くなり、朝比奈の街は静まり返っていた。
幾体もの魔をその車輪で屠った鋼の愛馬から降り立った黒騎士はその右手に握った槍を元の黒い靄に戻し、新たに一振りの、やはり漆黒の鞘に納められた剣を生み出した。その鞘は小柄な彼が片手で振るうにしては少々長めの、しかしその発現と同時に左手から湧き出した靄によって形作られたバックラーと調和し、互いの性能を最大限に高めるのに最適な長さとなるだろう剣を包んでいた。
「―――(無言)」
鞘を左腰のベルトに固定すると、黒騎士は剣に手をかけた。柄を握り締め、一息に刃を解き放つ。

鈴の音にも似た、鋭く鮮麗な音が響く。それは闇夜に凛と煌く、一陣の旋風。

「哀憐。貴公らはあの姦計の女郎によって呼び寄せられただけに過ぎぬと、己は知っている。されど、かの女郎の呼び掛けに応じる事即ち、この地の人間に害成そうと考えたと同義。畢竟、貴公らが己の目の及ぶ内で人間に害成すとあらば」
楯が振るわれ、剣が唸りを上げる。その都度、魔が一体ずつこの世から消えていく。それは確かに、単騎で多勢に立ち向かう蛮勇。けれど、その単騎は群れる魔のどれよりも、否、その全てをもってしても押し潰せない、そんな強さに充ちていた。
「諸君、この己が貴公らの―――敵だ!」
剣にこびり付いた血糊を振り払いながら、バックラーで飛び掛かる魔を殴りつける。獅子奮迅も一騎当千も、彼の戦いを的確に表現するには生温い。否、万言を尽くした所で、それは無意味な行いだろう。彼の戦いを表現するには、ただ蹂躙の一語で事足りるのだから。

やがて黒騎士は、積み重ねられた死骸の上で空を見上げる。
「―――(無言)」
静かな輝きを放つ月は、彼が人間として生まれ、騎士として生きた時代から変わらぬ姿でそこに存在していた。
「―――同胞、蜘蛛よ―――」
黒騎士は彼らしからぬ長い独り言を、誰も聞く者がいない屍山血河の中心で風に乗せる。
「必然、この世界に生まれ落ちた全ては失われる。同断、永遠と言う概念は存在すれども、物理的には存在し得ない。始点と終点を備える『セグメント』は永遠を意味する『ライン』とは一線を画す。結果、永遠に辿り着いた存在はその線分を世界によって否定される。永遠に到達した存在は、最初から存在しなかった事となる。換言、永遠に辿り着く事は出来ない。出来てはならない」
しかし、それでも。黒騎士は頭を振った。
「無為、この世界に否定される事こそがかの女郎の悲願であったか。しかしその悲願、かの少年の切願と比べるに値するか否か」
黒騎士は血溜まりを往く。その胸に去来するのは、遙かなる郷愁。
「往年、貴公は己に言った。幸せは自己満足の産物。他人はその為の道具に過ぎぬ、と。どれほど汚くとも、全てのモノは自分自身の為にしかその命を費やせない、と」
それが限り無く真理に近い言葉だと、理解している。けれど、彼は信じているのだ。
自分の存在を滅ぼしてでも誰かに尽くす事は無意味では無い、と。それが結果として自己満足であったとしても、そこには確かに価値がある、と。所詮ただの反射光であれども、空には月が確かに在るように。

第三十五話     第三十七話

戻る