第38話:漆黒―Darkness―

時刻はすでに明け方に近い。
両腕を幾重にも魔の体液で濡らしながら、エクリプスは夜の街を駆け続けた。ヴァリアントという戦闘向きの肉体とは言え満身創痍、ましてその精神は一介の高校生とイルサイブ。膝を屈したとしても、誰も彼らを責める事は無いだろう。だが、京司とナインは戦い続けた。
戦い続ける事が、前を見る事が、それだけが巽京司の、そして今はナインと二人で目指す夢である、『正義の味方』へ近づく術であると知っているから。
だから。
出来損ないの正義の味方は、彼らの正義を押し通す。

「――質疑。貴公がヴァリアント:エクリプスだな?」
がちゃり、と重たい金属音。振り向いた先に佇むのは、エクリプスより黒い鎧を身に纏った騎士だった。その左手の楯も右手の剣も、極彩色に汚れている。それはきっと、俺と同じ理由。この黒い騎士が屠った、魔の残滓だ。
「失礼、真の名は明かせぬが、己は黒騎士という。故あって埋葬機関の末席を穢す身、貴公の事は天秤宮より聞き及んでいる」
その声が届いた時、風が頬を掠めた。すぐ後ろで、何かの倒れる音。黒騎士はやや失望した調子で俺の横を通り過ぎ、倒れた魔の死骸を踏みながら剣を抜く。
「――惰弱。貴公に話しかけ気を逸らせた己の責もあろう。しかし、戦場で緊張を途切れさせるな。必然、油断は命を縮める」
助けられたのだという簡単な事を理解するのに、こんなに時間がかかる事があるなんて。黒騎士はぐるりと睥睨、道路に刃先を突き刺した。
「僥倖、間も無く夜も明ける。次に日が落ちるまでは、魔も多少なりと鳴りを潜める事だろう。事後処理は埋葬機関が担当する、貴公は今しばらく休むと良い…と言いたい所ではあるのだが、少々、貴公に語るべき事がある」
彼は墓標の様に屹立する剣に両手を添えたまま、足を肩幅に開く。ただ立っているだけだと言うのに、その佇まいにはどことなく威厳が感じられた。俺には無い、本物の強さに裏打ちされた威厳だ。
「先刻、貴公はかの女郎に戦いを挑み、のみならず勝つと豪語している。なれば、もはや説得も無益、討議も無用。彼女に挑む事を切に願うならば、貴公の思う侭にするが良い。一切、それを妨げる義務も権利も己は持たぬ」
男女の別さえ曖昧な声。男にしてはやや低く、女にしてはやや高い、その背丈。まさしく正体不明、といった言葉がよく似合う。それでいて、圧倒的に強固な意志。
言うまでもない事ではあるが。
黒騎士は、正義の味方だ。
「老婆心ながら、そして己の杞憂である事を望みながら、貴公に忠告する。無念、貴公の友人たる後楽茶名が、如何なる理由でかの女郎に与するかは我ら埋葬機関も知り及ぶ所ではない。だが、彼女が蜘蛛と共にある事は事実」
そこで言葉を区切り、しばし思案する。数秒の後、彼は自嘲するように首を左右に振り、意を決したように言葉を繋いだ。
「最悪、後楽茶名が己の意志で蜘蛛と共にあるという可能性も在る。無論、彼女が何らかの策謀によって身動きを封じられている可能性も捨て切れぬ。至当、それは己が語る事でなく、貴公が判断するべき事柄だがな」
そして黒騎士は剣を引き抜きながら後ろを向いた。鋭く尖った切っ先がアスファルトに牙を立て、耳障りな悲鳴を上げさせる。だが、その悲鳴が俺の耳に届く頃には、剣は黒い靄となって黒騎士の腕に溶け込んでいた。
「少年っ!」
『はいっ!』
鋭い声に思わず返事。黒騎士は俺に背中を見せて歩きながら、最後の忠告を与えた。
「愚かな先達より、せめてもの助言を贈ろう。自分の行いが正義だと信じられるのなら、迷わず惑わず恐れず怯えず、ただひたすらに前を向け。そして、愚直なまでに威風堂々と覇道を往け」
そう言い残し、彼は甲冑が奏でる金属音と共に去って行った。その背中はとても大きく力強く見えて、そこには彼が今までに踏み越えてきた懊悩が渦巻いていた。

「さて、と」
結合を解除し、俺とナインは公園のベンチにへたり込む。日も昇ったばかりだと言うのにジョギングか散歩にでも出て来たらしい老夫婦が、俺達を見て眉をひそめた。朝帰りの不良高校生カップルとでも思われたようだ。実に嘆かわしい。
「京司、今夜だな」
「ああ、そうだな」
何が、なんて聞き返す必要は無い。後楽先輩の呼び出しに応じ、ほぼ間違い無く決別するだろう交渉を持ちかけ、蜘蛛に喧嘩を売る。そして、蜘蛛に負けない。そんな単純な予定が、今日の真夜中に組まれているだけの事だ。昨夜は疲労困憊するまで魔と戦ったが、今夜は仲間に戦闘を任せ、俺とナインは学校の屋上へ向かう。祐二とゲシュタルト、水流と太宰先生、アルカナ、硝子さん。ホワイトさんに黒騎士、俺自身は会った事は無いが、硝子さんから聞いた弓塚とかいう女性。これだけ多くの仲間たちが、俺と一緒に戦ってくれている。だからこそ、俺は絶対負けられない。ナインが教えてくれた正義の味方の概念に、勝利という終着は無い。自分の志を曲げない、どんな困難にも挫けない。どれだけ怖くて逃げだしたくても、気を抜けば歯の根が合わなくなりそうでも、俺は。
「ナイン。学校行く用意もしなきゃならないし、朝飯も食いたい。一旦、家に帰ろうぜ」
擦り傷だらけの腕で膝を押しながら、俺はベンチから尻を放す。差し出した手を取りながら、ナインもゆっくりと立ち上がった。キュロットスカートから覗く細く白い足に、いくつもの赤い傷跡が走る。俺の手を握る腕も、そこかしこに血が滲んでいた。
「そうだな。この非常時に学校に行くのはいささか気が引けんでもないが、それでも私達は学生だ」
ふらりと揺れる互いの体を支えながら、俺達は歩く。一体どんな手段を使ったのか、街中に散らばる魔の死骸も戦いの痕跡も、その全てが綺麗さっぱり片付けられていた。おそらく、ホワイトさんたち埋葬機関の活躍だろう。その手際の良さに感心する。
「帰る所ですか、京司、ナイン」
少し遠くの交差点で瞬く青信号に向かっていると、アルカナがその姿を現した。どこで合流したのか、その後ろには紫煙を燻らせる硝子さんも立っている。
「別れる理由も無い、一緒に帰ろう」
頷き、俺達は並んで信号を待つ。なかなか青に変わらない信号を苛立たしげに眺めながら携帯灰皿の縁で煙草の先を叩き、硝子さんは呟いた。
「そう言えば、この四人で並んで歩くのは初めてだな」
思い返してみれば、ナインとは毎日一緒に学校へ行っているし、硝子さんとアルカナとも毎日家で顔を合わせている。けれど、一緒に出歩いた事は確かに無かった。そう考えると、なぜか心が弾んだ。雨を告げる朱色に染まった空の下、俺は家族で歩いていた。

彼女の意識は、血の色をした混沌を漂っていた。
閉じた瞳に映るのは、遥かな故郷。全てはねっとりとした静寂に呑まれ、聞こえるのは自らの息遣いだけ。己が脳に刻み込み、幾度も幾度も再生した過去を幻視し、そこに今自分がいない事にわずかな悲しみを巡らせ、それでも彼女は、アトラク=ナクアは、うっすらと笑みを浮かべていた。
いよいよだ。
ナイアルラトホテップが人間に敗れた夏の夜から百年余り。無為に過ごすには長すぎる、何かを成すには短すぎるその百余年、蜘蛛は、這い寄る混沌と同じ過ちは犯さない事だけを誓って試行錯誤を繰り返した。私は、どんな敵にも怯えない。そして、どんな敵も見縊らない。それが非力な人間の少年一人であろうとも、私は彼を、そして彼らを、乗り越えるべき敵と認識する。それは今夜、再び門の前に立つ為に。
半ば以上諦めてもいる、かつての世界への帰還。けれど、完全に諦めた事など一度も無い。たとえどれだけ僅かな可能性であっても、蜘蛛はその細い糸を懸命に手繰る。彼女は、そうやって生きてきた。
蜘蛛は窓際で朝の光を浴びながらその目蓋を開いた。朝焼けのやわらかく濁った空は、貧富も正邪も区別なく、世界を覆う。決戦の、夜が明けた。

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