第39話:崇拝―Adoration―

配られた問題用紙と解答用紙を一枚ずつ取って後ろの席に渡す。問題用紙はびっしり黒く埋まってるし、解答用紙の回答欄の数も多い。すっかり忘れてたけど、今日から期末テストじゃないか。学校についた時に人が少ないから、おかしいなとは思っちゃいたんだ。そうだよ、今日から試験の時間割だからいつもより始業が遅いんだよ。今この状況で言っても仕方ないが、やばい。問題が解ける気がしない。良い点は取れないまでも、平均くらいの成績が無いと硝子さんが怖いんだよな…
「問題用紙は行きわたりましたか?それでは、始めて下さい」
太宰先生の号令で始まった並河先生の英語のテスト問題を絶望的な気持ちで眺めながら、俺は右手のシャーペンをくるりと回す。

問1・以下の英文を読み、指定された単語のアクセントの位置を答えよ。
I was embarrassed when my joke was taken as an insult.
1)insult
The volunteer was never absent from the monthly meetings.
2)absent
I confine my efforts to the attainment of my ideal.
3)confine

…さっぱり分からん。そう思ってシャーペンを投げだしかけた時、後楽先輩の声が聞こえた気がした。
『名前動後、と言いましてね。同じ綴りの英単語でも、それが名詞で使われる場合は前、動詞で使われる場合には後ろにアクセントが来る事が多いのですよ。そうですね、confine等、その良い例でしょうか』
それは、いつだったかの昼食時の言葉。俺達が、後楽先輩と初めて昼を食べた時の記憶。心の中で先輩に感謝しつつ、俺は答えを書きこんだ。

「巽君、今のテストどないやった?」
しっかり出来たのかそれとも全然出来ずにやけっぱちなのか、妙に爽やかな笑顔で水流は言う。
ちなみに祐二は出席番号の都合で追いやられた教室の隅でぐったりしていた。多分、そんなに出来なかったんだろう。実に頼もしい友人だ。
なお、ナインは反対方向の隅で次の国語のテストに向けて勉強していた。教科書を指でなぞっているが、多分漢文の帰り点やらの復習だろう。真面目すぎる。泣けてきた。
「一応、解答用紙は埋めるだけ埋めといたけど、自信は無いな。半分くらいは出来てれば嬉しいんだけど、どうにもテストに集中できなくってさ」
「…今夜、やもんねえ」
笑顔の調子を少し変え、水流は隣の机の縁にもたれかかった。見れば、指先や膝に絆創膏が貼られていた。水流も連日の戦闘でそれなりにダメージを負っているのだろう。けれど、そんな痛みを微塵も感じさせずに彼女は強く微笑む。考えてみれば、シミュラクラムはこの町を守るヒーローとしてエクリプスの先輩に当たるわけだ。きっと、俺が知らない所でいくつもの傷を負ってきたのだろう。だから、そんな先輩に無様な後輩の姿を見せるなんて、出来っこない。それにほら、俺は腐っても男の子だから。女の前で格好付けるくらいの事、神様だって赦して下さるだろうさ。
「ああ、今夜だ」
「巽君。無茶、せんとってな」
笑顔の陰で、心配そうに小さく震えた声。俺は彼女からそっと視線を外し、天井を見上げた。厳密にはそのもっと上、この学校の屋上だ。先輩からの呼び出しは、今日の夜中。正確な時間の指定は無いけれど、とりあえず十二時には屋上に到着しておこうと思っている。
「無茶するな、か。蜘蛛相手にどれだけ無茶せず頑張れるかは知らないけど、とりあえず努力はしてみるさ」
「ん。うち、ちゃんと聞いたからね?約束やよ?」
胸中に渦巻いているだろう不安を、水流は満面の笑みで吹き飛ばす。彼女は右手の小指を立てると、ぐいぐいと俺の右手に押し付けて指切りの催促をしてきた。呆れながらも小指を立てると、自分で誘っておきながら少しだけ恥ずかしそうに、彼女は絆創膏が巻かれた指を絡めた。

「…ったく、腹減ったなちくしょう。今日の昼飯、何だろ」
「いや、硝子は今日からテスト期間だとは知らない。夕方まで授業があると思っている可能性が高いわけで、私と京司の分の昼食が用意されているかさえも怪しいと思うのだが?」
ナインの絶望的な言葉を極力耳に入れないようにしつつ、俺はスニーカーを脱ぎ捨てた。しかし、何だ。いつもより靴の数が多い気がする。これが俺の今脱いだばかりのスニーカーで、この白いスニーカーはアルカナの靴。ナインはまだ靴を履いてて、こっちの革靴とパンプスが硝子さん。なら、このヒールが高い白のブーツは誰の靴だ?
見慣れない靴なのに、どこかで見た事がある気がする、そんな奇妙な感覚。妙な予感を覚え、ナインの顔を見る。目が合った。
「俺これ、ホワイトさんの靴だと思うんだけど」
「奇遇だな、京司。私もたった今その結論に至ったところだ」
二人並んでそっと開けた扉の向こうでは、今すぐに舞踏会だって駆けつけられそうなドレスを着たホワイトさんが、硝子さんと差し向かいで座っていた。
「や、京司君、ナインちゃん。お邪魔してるわね」
彼女はひょい、と右手を上げて挨拶すると、真っ白い歯を見せて笑った。肩から胸の谷間までがぱっくりと開いたデザインなので、少々目のやり場に困った。初めて会った時は俺もまだ子供だったしそんな事を気にしていられる状況でもなかった。二度目には少しは大人になっちゃいたが、取り調べみたいな雰囲気で落ち着いて観察できる空気ではなかった。こうして三度会い、改めて見てみると…ホワイトさん、物凄いスタイル良い。
呆けた俺を押しのける様な勢いでずかずかと詰め寄ると、ナインは殺気さえ潜む鋭い声でホワイトさんに噛みついた。冷静な彼女には珍しく、苛立ちを隠そうともしていない。
「一体何の用だ、ジョセフィーン=ホワイト!」
「何の用とはまた、ご挨拶な。これでも昨日は同じ目的のために戦った同志じゃない、そんなつれない事言わなくたって」
大人の余裕でナインをあしらうホワイトさんに歯噛みしつつ、ナインは食卓として使っているテーブルに腰を下ろした。ホワイトさんはドアノブを握ったままの俺に向き直ると、柔らかに相好を崩した。
「まずは京司君、いつまでそこに立ってるつもりなのかな?悪いんだけど、立ち話ですませるような、そういう気軽な話題でもないのよね」
着席を促され、俺はとりあえず食卓、ナインの横に座った。今まで気付かなかったが、アルカナも食卓に座っていた。
「…で、京司達にもさっきの話を聞かせてやって貰えますか、ホワイトさん?」
硝子さんが水を向けると、ホワイトさんは優雅に腕を組んだ。間に挟まれた胸が強調され、官能的でさえある。
「昨日の夜に電話で話した通り、私達埋葬機関はアトラク=ナクアを攻撃できない。けれど、貴方達と彼女が話し合うなり殺し合うなり、その場所だけは死守して見せる。というわけで、彼女と会う場所と時間を教えて貰えないかな?」
「今日の夜、学校の…朝比奈西高校の、屋上で。俺とナインだけで、との事です。時間の指定は無いんですけど、十二時くらいには行っておこうかな、と」
ケータイを操作、先輩からのメールを見せる。画面をじっくりと舐めるように見つめ、ホワイトさんは神妙に頷いた。
「了解。それならそうね…夜の九時くらいには、この家から君たちの学校まで、誰にも邪魔をされないように道を作っておく。他のイルサイブやそのマスターはとにかく、京司君、ナインちゃん、君たちは夜まで大人しくしてくれると、私達は…機関は、助かるかな」
それだけ言うと、ホワイトさんは立ち上がった。硝子さんも立ち上がり、二人で玄関へ向かう。多分、見送りだろう。本格的に動き出した周囲の緊張は、否が応にも伝わってくる。

俺はふと、横を見た。ナインと、目が合った。たったそれだけの事が、俺に戦うための刃を、正義を目指す心を、それを振るう命をくれた。幾度も繰り返した決意は、今も俺の胸にある。

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