第40話:霽月―Clearness―

言葉少なに昼食を取り、俺とナインは部屋へ向かった。俺はベッドの端に座り、ナインはベッドに寝転がる。体力温存と称して少しも動かないナインを背中に感じながら、俺は壁の時計を眺めていた。
カチカチ。カチカチ。ゆっくりと時間が進んで行く。そしていつしか、夜も更けていた。

「京司。そろそろ出るか」
「そうだな、ナイン。待ち合わせには早めに行くのが礼儀だしな」
立ち上がり、背筋を伸ばす。硝子さんもアルカナも既に出て、この家に残っているのは俺とナインだけだ。左のポケットにケータイを、右のポケットには家の鍵を。棚の上に飾られたヒーローのフィギュアを一瞥し、俺とナインは部屋を出た。廊下を進み、階段を下りる。誰も居ないリビングの横を通り過ぎ、履きなれたスニーカーに足を入れる。外に出て玄関のカギを閉めてから、空を見上げた。
星と月しか空には見えない、そんな綺麗な夜だった。
満月の空、所々で雷光のように瞬くのはアルカナの…ディゾルブの剣戟だろうか。俺を、俺達を信じて戦っている仲間達。俺はナインに右手を出した。そっと重なる小さな手の感触を確かめながら、俺はゆっくり呟いた。
「Conception」
横に立っていたナインの姿が揺れ、掻き消えた。幾度も見た蛍火にも似た淡く黒い光が、俺の体を撫でる様に覆っていく。有機物とも無機物ともつかない装甲が全身を包む、ヴァリアント:エクリプスの拳を握りしめる。心臓を冷たい指で撫でられるような、確かな興奮。拡張された知覚が、夜闇の中でも昼間と変わらない視界を確保した。
『行こう、京司。普段通り、私はサポートに徹する』
『ああ、ナイン。エーテル精製なんかは任せたぜ』
目指すは朝日奈西高校、屋上。目的は後楽先輩の奪還。普段なら十五分以上は歩く距離だが、今の俺たちなら数分だ。ホワイトさんが約束してくれた通り、学校までの道に魔の姿は見当たらない。

校門の鉄柵に手をかけて跳び越え、校庭に足を踏み入れる。屋上を見上げると、そこには二つの人影があった。
一つは腕を組み、俺達を見下ろすスーツ姿。肩口で切り揃えられた髪が風に揺れているが、月を背にしているから表情までは読みとれない。燃えるような赤い瞳だけが、夜空に爛々と輝いている。
その隣にたたずむのは、後楽先輩だろう。長い髪を靡かせながら、蜘蛛の隣に寄り添っている。彼女を救いだせるかどうか、それは俺とナインの交渉次第だ。
俺は校庭を直進して助走を付けてから跳び上がり、二階の窓枠を掴んだ。校舎の小さな出っ張りを足がかりにしながら、重力に逆らって垂直に走る。俺の大好きなヒーロー物だと風を孕ませたマフラーをはためかせるべきシーンなんだろうが、残念ながらエクリプスにマフラーは装備されていない。あるのはただ右手の爪と左手の弓、小さな盾と名前しか知らないNein-Unitだけ。けれど、そんな事はどうだっていい。俺は不敵な笑みを浮かべる蜘蛛の顔と交差しながら、屋上の縁を軽く蹴る。ナインの細かい姿勢制御で難なく屋上に着地し、振り返る。
『お久しぶりです、後楽先輩』
後楽先輩は視線を外す。何か言おうと口を開きかけるが、結局は目を伏せたまま蜘蛛の隣に立っているだけだった。
「つれないわね。巽京司君はとにかくとして、ナインは挨拶の一つもないの?」
少しだけ寂しそうに微笑む蜘蛛。けれど、それが演技である事は一目瞭然だ。彼女が娘に会いたいと思うような母親なら、わざわざ後楽先輩を巻きこむものか。
『お母様、お会いできて嬉しいです……とでも言えば満足して後楽茶名を開放すると言うのならいくらでも挨拶してやる。だが、こんな下らない冗談のために呼び出したわけでもないだろう、マイロード?』
安い挑発。蜘蛛が乗るとは思っちゃいないが、それでも俺とナインが蜘蛛と対等な、交渉できる立場にいると宣言する意味はある。まともに力で殺し合って勝てる相手じゃない。けれど、言葉の力があれば。交渉で勝利を掴む事、それだけが俺達が無傷で先輩を取り返す手段だった。
「……交渉しようと思うならまずその変身を解除するのが礼儀でしょうとか、そもそも交渉できる立場だと思っているのかとか、言いたい事は山とあるけれどまあ不問にしてあげる。こちらの要求はシンプルかつイージー、ナインをこちらに引き渡しなさい」
「巽さん、私からもお願いします。雨宮さんを、彼女に渡して下さい」
『ナインを、どうする気だ』
後楽先輩の言葉には、あえて耳を貸さない。俺達が交渉する相手は蜘蛛であって、先輩じゃない。先輩が何を言った所で、最終的に決断するのは俺達と蜘蛛でしかないのだから。
「簡潔に言うなら、生贄。あたしが銀の鍵を超え、かつて住んでいた世界に帰還するための、ね」
『……交渉、決裂ですね。ナインか後楽先輩のどちらかしか助けられないような交渉なら、俺はそんな物にかかずらってる余裕はないんですよ』
半身に構え、右腕を前に出す。足を軽く開きながら顎を引き、視線は蜘蛛から外さない。彼女は指を大きく広げて掌で顔を覆いながら、左右に小さく頭を振った。呆れ果てているように見えるが、僅かに見える口元には仄かな笑みが浮かんでいる。その向こうで、後楽先輩は悲しそうに目を伏せた。
「平和的な交渉が決裂したとなればまあ、古今東西する事は一つと決まっている訳だけれど。覚悟は出来ているのよね? もっとも、出来ていなかった所で逃がしはしないけれど」
細い指の間から覗くのは、燃えるような深紅の瞳。空気が、変わる。緊張を孕みながらもどこか穏やかだった場が、完全に凍りついた。俺達は今から、蜘蛛と戦わなければならない。圧倒的な殺戮の時間をやり過ごし、そして最後には勝たねばならない。そんな絶望的な状況でありながら、不思議と恐怖は感じなかった。
『Gadget-2、Talon-Unit』
「カテゴリセレクト…タイプセレクト。術式魔剣、“Hunting Horror”」
蜘蛛が持つ剣に目を配りながら距離を測る。思ったより、学校の屋上ってのは狭いんだな。俺の間合いは腕一本、向こうの間合いも剣一本。互いに近寄らなければ攻撃できないのに、屋上程度じゃ戦場として狭すぎる気がした。 さて、どう攻めたものか。そう考えた時、蜘蛛の姿がゆらりと揺れた。
『……ッ!』
ぎゃりん、と耳障りな摩擦音。かろうじて掠り傷に止めたものの、左肩の装甲が少し削がれた。速い。エクリプスが速度重視のヴァリアントだったのが幸いしたが、恐らく次の偶然はない。距離を取って仕切りなおしたいが、そんな余裕もない。せめて掠りでもすればと闇雲に振り回した右腕は虚しく空を裂き、がら空きになった胸板に鋭い前蹴りが見舞われた。
『がっ…』
思わず息が漏れる。不様に転がりながら僅かでも離れ、地面に置いた右手の下で削られるコンクリの屋上の悲鳴を聞く。地を蹴って後ろに跳びながら姿勢を立て直した俺の眼前を鋭い剣先が通過し、空気が斬り裂かれた。
「弱い」
どこか失望した様子で呟く蜘蛛。まるで出来の悪い我が子を見るような目でエクリプスを見下し、彼女は大袈裟な溜息を漏らした。
「ナイン。待っててあげるから、次は本気で来なさい。手加減して負けるのが貴女の趣味ならばそれでも良いけれど、あたしはそんな性格に貴女を育てた覚えは無いわよ?」
『ふざけるな、お前に育てられた覚えは無い』
努めて冷静であろうとしながら、それでも確かな怒りがナインの言葉から伝わってくる。例え蜘蛛に創られた命だったとしても、ナインの性格は、ナインという人格は、ナインが自分で造り上げたものだ。それを否定するような物言いが気に食わないのだろう。
「そうね。思い返してみれば確かに、育てた覚えは無かったわ」
蜘蛛の軽口を無視し、ナインは神妙な声で呟いた。
『京司、Nein-Unitを使う。ただし、これが最後のチャンスになる』
『最後のチャンスって、どういう事だよ』
『……二度と、エクリプスに変身できなくなるという事だ』
ざわりと、風が吹いた気がした。

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