第弐章:1 『4−2=?(1)』
1999/6/29
田中加奈子の視点から見えるモノ

私は朝が嫌いだ。また今日も面倒な一日が始まるかと思うと、気が重くなる。
ベッドから起き上がる気も失せる様な、立ち込める雲。本当に、面倒くさい。
『お嬢様、御朝食の準備が整いました』
扉の向こう、執事の声がする。そう、私はいわゆるお嬢様だ。家は資産家、住まいは広大。
それはとても退屈な、閉じた世界。言わば鳥籠。私には一片の自由すら無い。
『すぐに行きます。下がっていなさい』
答え、仕方なくベッドから起きる。ネグリジェを脱ぎ捨て、制服をハンガーから取る。
姿見に映るのは、それなりに整った顔をした少女。草臥れた表情なのはまあ、仕方ない。
ああ、何故私は生きているのか。惰性で進むような人生なら、終わってしまえばよいのに。
“じゃあ、終わらせてみようか?”
聞きなれない男の声がした。
振り向いたが、誰も居ない。幻聴だろうか?しかし、それにしてははっきり聞こえすぎた。
気になり、恐る恐るカーテンの裏側などを覗いてみるが、誰も居ない。
誰も居なくて当然であり、むしろその方がいいのだが…それでも何故か、私は不安だった。
「……(無言)」
制服に着替えた私は、後ろ髪を引かれる様に思いつつも、自室を後にした。

「おはよう御座います、お父様。遅れました」
「気にするな、加奈子。さあ座れ。朝食だ」
「……はい」
何度繰り返したか知れない面倒な問答。それでも、十七年間繰り返した事は体に刻まれている。
私は椅子に座ると、変わり映えのしない朝食を胃に収める。味わわず、ひたすら栄養を摂取。
それは最早、食事では無くただの作業だった。
ああ、何時の頃からだったろう。私が世界を冷えた目で見始めたのは。
私の財布だけが目当ての友人。私を媒介に父を見、それに媚び諂う大人。
自分自身が曖昧で、何処までが自分で何処からが父なのか分からない。私には自由が無い。
だからと言って、何がやりたい訳でも無い。やりたい事も、分からないから。
私は人形だ。父の操るマリオネットに過ぎない。それも、ひどく不出来な。
父の言を実行し、父の名誉の為だけに行動する。それだけで私の人生は括れてしまう。
なんて、無意味。
なんて、孤独――――

学校へと向かう途中、偶然邪さんに会った。親しい仲で無し、声は掛けないで良いだろう。
そう思って離れていたら、彼女の方から近づいて来た。
「おはようございます、田中さん。今日は良い日になりそうですね」
何を言っているのだろう、邪さんは。こんなにも空は曇っているのに、良い日?
どうやら、私には理解しかねる価値観に基づき行動しているようだ。
出来れば関わりたくないのだが、声を掛けられた以上はそうもいかない。
「おはよう、邪さん。嬉しいわ、名前、覚えてくれたのね」
「…ええ。覚えない訳が無い」
小鳥が囀るように、喉の奥だけで笑う邪さん。はっきり言って、気分が悪い。
ただでさえ、灰色の髪と瞳が不気味だと言うのに。この際、そこをはっきりさせておこう。
「ねえ、邪さん。少し訊いて良いかしら?」
並んで歩きながら問い掛ける。私の方が背が高く、自然彼女は見上げる形になった。
「構いませんよ、田中さん。したい事は出来る時にやって置かないと」
一々変な言い回しをする。何を考えているか分からない辺り、山田を髣髴とさせる。
「その髪と目、染めたりしてるの?」
「いいえ、地色ですよ。一応、外国の血が流れているもので」
「へぇ。灰色、という事はロシア系かしら」
何時か読んだ、現代社会の教科書に掲載されていた資料を思い出す。
「まあ、そういう事にしておきます」
…彼女は柔らかな笑顔で追及を避けた。
ハーフかクウォーターか知らないが、トラウマでも在るのだろうか。その事が原因の虐め、等。
「田中さん、私も一つ訊いていいですか?」
「ええ、良いわよ。何かしら、答えられるなら何でも答えてあげる」
ここで少しでも優位に立とう。犬の調教でもそうだが、何事も最初が肝心なのだ。 彼女はたっぷりと間を置いてから、切り出した。
「山田さんの事ですが。あの虐め、田中さんが首謀者ですよね?」
……まさか、こんなに意外な伏兵が居るとは。彼女を少々甘く見過ぎていたらしい。
「ああ、責める気は無いですよ。ただ、虐めの原因が気になっただけですから」
灰色の瞳が迫る。上等のブラックオニキスにも似た、冷たく輝く美しい瞳が。
底知れぬ少女、邪魔夜の半月状に歪んだ唇が、声を出さずに言葉を紡ぐ。
『答えれることなら何でも答えてあげる、でしょう?YesかNo、簡単な問いですよ』と。
私は、それに答えることが出来なかった。

「ああ、もう学校に到着ですか。私は少し行く所があるので、失礼しますね」
また何時かお話しましょう。その時には答えを聞かせてくださいね?
そう言い残し、彼女は何処へとも無く消えた。ただそこに、嘲りか哀れみに似た表情を残して。

結論から言えば、ここで答えなかった事が破滅の始まりだったのだが。

続劇 >  『4−2=?(2)』


今回のBGM パッヘルベル作曲『カノン』
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