第弐章:2 『4−2=?(2)』
1999/6/29
火狩アイの視点から見えるモノ

私の名前は火狩アイ。苗字は『かがり』。『ひかり』等ではない。嫌な苗字だ。
幸いにして、平凡な女子高生。それ以上でも、それ以下でもない。私は火狩アイ。
それだけで、十分だ。

朝の教室は騒がしい生徒に活気がある、それ自体は結構なことだ。
ただし、静かにしたい者の意を汲み取れる程度の活気ならば、さらに言う事は無いのだが。
読んでいる雑誌を楯にして教室を見回しても、静かにしているのは私くらいだった。
いや、もう一人。今登校したばかりの、山田ざくろが居た。
思えば、山田ざくろに関して、このクラスは大きく三つに分類されている。
まず大半が、彼女に対する虐めに参加する者。これは田中加奈子や男子達だと言える。
次には、彼女を無視する者。これは田中の勢いに呑まれた大勢の女子が分類される。
最後、彼女と極力関わらないようにする者。そう、例えばこの私だ。

私は山田が好きではない。具体的に言うと、あのウジウジした態度が気に食わない。
もっとも、飽くまでも、好きではない、だ。嫌う事は出来ないでいるのが、現状だ。
しかしそれでも、虐めに屈した彼女を救おうと思うほどの義理は無い。
彼女が救いを求め訴えるならまだしも、無意味な騒動には巻き込まれたくない。
そうだ、昨日転校してきた邪魔夜はどうだろう。
勝手な推測ではあるが、思うに、彼女を無視する部類ではなかろうか。
だが、あの女は深い闇を内包している気がする。如何なる光も喰らい尽くす様な深淵を。
…そんなつまらない不安を杞憂する自分に気づき、雑誌に目を戻す。
毒にも薬にもならないそれには、某電子機器会社が犬型愛玩ロボットを発売した事や、外国の会社が製作した、後部が半透明の新型パソコンについてのニュースが書かれている。
ああ、他には例の、益体も無く世間を騒がせる『あの事』が書いてある。下らない。
興醒めし、雑誌を閉じる。半分以上無駄な出費となった雑誌を、無造作に鞄に押し込んだ。
その刹那、今まで聞こえていなかった教室の騒音が、思い出した様に流れ始めた。
『…で、聞いて……怖い……もう、時間が……』
『…うんうん、でも…終わりは……信じて……』
『…でも、不安で……皆、一緒……嫌だよ……』
やれやれ。如何すればあんな与太を信じられるのか、私にも教えて欲しいものだ。
それとも、信じていない私が異常なのだろうか?いや、さすがにそれは無いだろう。
私はいたって正常だ。少なくとも私自身にとっては、他の誰よりも確か。
狂人は自己の狂気を自覚しないとは雖も、『我思う、故に我あり』これは適応される筈だ。
そんな取り止めの無い空想で時間を潰し、何時しか始業まであと10分となっていた。
そうだ、チャイムが鳴る前に、手洗いにだけ行っておこう。
教室を出る直前、立ち上がる山田の姿が見えた。

石鹸をつけて、掌を擦り合わせる。沸き立つ泡が肌をすべる感触が、実に心地良い。
勢いよく蛇口から溢れ出る水で、それをさっと洗い流す。ハンカチを取り出し、手を拭う。
何時もと変わらぬ朝。何時もと変わらぬ学校。何時もと変わらぬ世界。
それが瓦解する日が、すぐそこにまで迫っている。

教室に帰り、自分の席に座る。何をするでも無く、ぼんやりと、ただ廊下を眺めた。
何人もの生徒や教師が歩いていく。それぞれの思惑を胸に、ただ、前へと。
それぞれの歩む人生模様。雑多な人生の集合が、目の前を流れていく。
他の人たちは何を考えて生きているのだろう?そう思い、ため息を一つ。
所詮人の心なんて完全には理解できないのだ。せめて、理解出来た気になるだけ。
当然の事だ。我々は、自分の感情ですら完全に支配している訳では無いのだから。
人の心の痛みを知る人間になれ?冗談。そんな言葉は、吐き気を催す偽善でしか無い。
結局、世界とは私自身が知覚する故に世界なのだ。
「おはようございます、火狩さん」
突然の挨拶によって現実に帰った私は、声の主を探す。前方にも左右にも、人は居ない。
そして、後ろを振り向くと、邪が立っていた。微笑んでいる様だが、その真意は知れない。
「邪か。私に何か用?」
「いえ、特に用と言う訳では。ただ挨拶しただけですよ?」
くすり、と目を細めて笑う。その様は中々に艶っぽくて、女の私ですら胸が高鳴った。
何なんだ、この感覚は。必要も無いのに邪から目が離せない。
今や、私の視界は邪を中心に静止していた。曇り空を背に、邪が佇む姿が映る。
一枚の絵の様な、幻想的な光景。邪は、本当に美しい。そう、それなのに。
私の中を跳ね回る感情は、邪を壊したがっていた。―――
筆箱の中に入れたカッターを取り出す。一気に刃を全て出し、まずは喉笛に突き立てる。
声を出せなくした所で、手足の腱を切り裂いて動きを封じる。さあ、後は簡単だ。
刺し、斬り、通し、走らせ、原形を留めないまでに切断して、血飛沫を浴びる。
美しい邪を薄汚れた肉塊にと解体しながら、私は歓喜の歌を口ずさむ。

「――――っ!」
視線を横にそらし、窓の外を見る。視界から急いで邪を追い出した。
もしそうしなければ、何時まで自制心が耐えられるか分からないから。
「何、で―――」
何で、こんな幻視を―――何故私は、邪を解体したいなどと、突拍子も無い事を―――
そも、火狩アイはアウトローを気取ってはいても、罪人ではない筈だ。
違う、あんなの私じゃない。本当の私はここに居る。

必死で精神の均衡を保とうとする私の見ている窓、その外を、何かが通り過ぎた。

――――――ぐしゃり。
軟らかい何かから、液体の爆ぜる音。唐突に、クラスを一瞬の静寂が駆け抜ける。
早速窓から身を乗り出し、「何か」が何かを確かめる、好奇心旺盛な女子たち。
彼女が口元を抑えて手洗いに走るまで、そう時間はかからなかった。

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今回のBGM ワーグナー作曲『ニュルンベルクのマイスタージンガー』
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